映画『MW』は結城を主人公にしたピカレスク

  15, 2012 13:52
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……と思うのが間違いの元だな!(・∀・) という話。

嗚呼ちかびれた。
暖かくなって体を動かしやすくなったので、やっと新入学に対応して全室家具入れ替え。ひと段落ついたら気分転換に美男の出てくる映画のことでも考えるってものです。
さて。

2009年のあの映画。原作をきれいに換骨奪胎して映画の中で世界観を完結させているので、映画単体として語っていいと思う。
絵画的に美しい映像が多く、カルト的完成度の高い印象的な一本。
とまず誉める。
その上で「アクション映画をチラ見しながらBL系二次創作を読んだので、終わってみたら話がよく分かんなかった」みたいな混乱した印象がどうにかならないかなとずっと考えていた。

結論からいうと、
「友人の大胆な犯罪に衝撃を受けつつも、過去の事件からくる心の傷を彼と共有し、彼の復讐を応援したい気持ちと良心との狭間で悩む若き神父を山田孝之が主役として重厚に演じた現代心理劇。
相方・結城は「暴走する正義」として、伝統的には目隠しをした美女として表される裁きの女神の性別を転換させ、慈悲に欠けることを象徴させた魅力的な造形となっている。独特のほっそりした肉体美が前面に押し出されているのも見どころ」
……てことでよろしいかな、と。

娯楽活劇というのは思考停止したところに成り立っているので、ヒューマニズムと両立しない。
トムとジェリーに向かって「ケンカは良くない」とは誰も言わないし、
ジャイアンが弱い者いじめをしないようにカウンセリングを受けさせようという話もない。
ダブルオー要員なんて本当にいるのか、殺しのライセンスなんてあっていいのか、国家の秘密を守るために手段を選ばないのは果たして正義なのか、
と本気で考えてもしゃあない。野暮だ。

特に50~60年代は「国家は残酷な命令も出すもんだ」少なくとも多くの人がそのように思っていることを自明の前提として、そこから起こる事件を面白く描いて楽しめばいいじゃん、てことだった。
それが学生運動・反戦運動の時代となって、「こんな世の中おかしい」という気持ちを映画の中でも表現し始めた。

ヒッピー時代の反戦気分を「軍人として訓練を受けたことを逆手にとって大もうけ」というナメたストーリーで現したのが『戦略大作戦』だったり、
怖いもの見たさ優先でいいはずの憑依ものの中で「悪魔とは何か」と大真面目に問うたのが『エクソシスト』だったりする。

で、『MW』は冒頭にジャッキー・チェンの香港映画を現代的にしたみたいなキッチュかつクールなアクションで始まったもんだから、華麗な悪役に実直な刑事の手がなかなか届かない「猫とネズミ」のパターン、『セブン』を軽い味わいにした小粋な娯楽活劇かな……と思うと、
途中から犯人と友人のイチャイチャが始まってしまい、なんだこれ男同士のメロドラマだったのか?
といって心中して終わる、または逮捕・収監された犯人へ「俺は待ってるぜ」と言ってやる、等メロドラマとして完結するわけでもない。
大山鳴動して結城のキャラクター性も沢木との関係性も変わらない。結局なんだったんだ。こんな感じか。

残酷華麗な結城の犯罪を娯楽映画として楽しみたい観客にとって、賀来が提出するのは「劇場型犯罪を面白がっていいのか?」≒「こんな映画を面白がっていいのか」ってことで、「いいわけがない」と思うからこそ止めに走る刑事が一方の主役なら客も感情移入しやすく、そのタイプのストーリーならハリウッドでも幾つも作られてきたけども、
そう思いながらも止めることのできない賀来の存在は、「どんなニュースもテレビで観るしかない一般ピープルの代表」であり、観客自身の姿であり、割と興冷めな、うっとうしいもののはずなんである。
いない方がいいもののはずなんである。じゃなんで居るのか。
彼が主人公だから。
結城によって引き起こされる彼の悩みっぷりが本筋だから。

でも実は「悩んでもしゃーない」という結論は出てる。
どこの軍にも政府にも本気で責任をとらせるストーリーは結局できない。
『相棒』劇場版一作目はやったっちゃやったけど取材陣が騒ぐという安っぽい方法によるしかなかった。
毒ガスによる脅しは使ってこそなんだけど『ザ・ロック』でも本気で競技場を襲うことはしなかった。
『デス・ノート』では大人数が倒れたけども、あれは非人間的存在を出演させてしまったファンタジーなんで、結城美智雄はいちおう人間だし、復讐がかんたんには成し遂げられないからこそ彼の知能と大胆さが意味をもつとすると、リアルな世界観を崩すわけにもいかない。

で、そのばあい結局「巨悪は罰されない」というお約束を踏むことが予定されていることは客も分かっちゃってるし、そもそも「非を認めて総辞職」なんていう復讐成功ストーリーは望まれておらず、「どうせこんなもんさ」という苦い味わいがむしろ予定調和として期待されている。

となると、賀来の悩みの意味は。
彼の悩みっぷりを鑑賞することが映画のテーマってことになる。
ぶっちゃけ「萌えーー」と叫ぶのが正解。
と、やっと思った。

007シリーズに登場する悪役の、グラントにしてもスペクターの幹部にしてもオッドジョブにしても、なぜ彼らは悪の道に入ったのか、生い立ちは、心の傷は、と想像をめぐらせることはできる。グラント等はなぜ007を他の相手と同じように銃弾一発でさっさと片をつけないのか、といえば「それじゃ困る」という脚本上の都合なんだけど、そこを敢えて「実は過去のいきさつから来る私怨が」などと憶測をたくましくするのがファンの楽しみってもんで、
これは人間性の切り捨てによって出来上がっている娯楽作品にわざとヒューマニズム、リアリズムを適用してみる遊びだ。
それを遊びじゃなくマジで「観客(読者)の姿勢を問う」ってつもりだった原作を、現代に蘇らせたら、既にどっちも「お約束」の域に達しており、なんか本編アクションとファンフィクションの抱き合わせみたいな印象になった挙句に痛快娯楽にも深い自省をよぶヒューマンドラマにもなりきれなかったのかな……
という辺りで一旦締め。
また他の作品を観たら考えが変わるかもしれない。
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