1970年9月、フライシャー、舛田『トラ!トラ!トラ!』

  20, 2016 10:20
  •  -
  •  -
ワレ、キシュウニセイコウセリ。

監督:リチャード・フライシャー、舛田利雄、深作欣二 脚本:ラリー・フォレスター、小国英雄、菊島隆三  音楽:ジェリー・ゴールドスミス 撮影:チャールズ・ウィーラー、姫田真佐久

赤い灯、青い灯、栄の響き(のつもりで)。日本人なら見ておきましょう。航空機の出撃シーン数あれど、これほど美しいものはまたとありますまい。

いや、あってもいいんですけれども、随一に挙げたいです。しまいに眼が痛くなって涙が出ました。まばたきを忘れていたらしいです。

ひかりテレビで拝見した(内大臣と渥美清が登場する)日本公開版。興味深い裏話はウィキペさんに丸投げして(というか丸写しするわけにも参りませんので)、見た目を称賛するのが当方の基本スタンスです。

アメリカ人のお友達とは一緒には見られないってことはなく、冒頭には「1941年12月7日、米軍は日本軍による攻撃を受けた」と受身形で字幕が表示されるので、基本的にはアメリカ視点です。

まずは双方とも、上層部によって現場の指揮官が焦燥させられる様子を丁寧に描いております。

寄せ手である日本軍の将官たちが、いかに冷静で理知的で現状分析能力に長けていたか。防戦側の米軍将官たちが、いかに実直に責任を全うしようとしたか。

黄褐色の皮膚ににじむ脂汗。青い眼ににじむ怯え。出撃をひかえて、まるで遠足に行くかのように無邪気に心を沸かせる日本軍の若者たち。対する米軍の若者たちの、またいかにもアメリカ人らしいフランクさ。

太平洋を越えて変わらぬ男たちの純真さを、あざやかなカラー撮影が余すところなく捉えております。

戦争映画は軍隊を美化し、憧れを生んでしまうから良くないという見かたもできますし、すごくドライに云ってしまえば平和な時代の観客にとっての娯楽にすぎませんが、たとえ戦時中に撮られた「戦意高揚映画」と称される作品であってさえも、じつは反戦と恒久平和を願う気持ちが表現されているものです。

攻撃始まってからは、ほぼアメリカ側に視点を固定して、個々の将兵の感じた恐怖を、まざまざと伝えております。

ホワイトハウスの陰謀だ、アメリカ人気質だ、いや日本の官僚システムだ、いや人間共通の心理的弱点だ……後からいろいろ云うことはできますが、現場の将兵にあるのは、焼かれる苦痛だけです。

同時に、日本軍が旧式な計測器と肉眼で目標を補足し、攻撃する手際のあざやかさの描写は、日本人気質への驚嘆の念にあふれて、クローズアップをきかせ、観客みずからの手が操縦桿を握っているかのようです。航空機の風防の中をこれほど活写した作品も少なかろうと思われます。 

そして米軍の若者は独立心と勇気にあふれて、命令を待たずに機関銃に取りつき、あるいはスクランブルし、対する日本軍の若者は愛機が黒煙を上げると墜落地点を見定めて、迷うことなく舵を切るのでした。

空ゆかば散華する屍は永遠に弔わるべく、すべての死者は弔わるべく、どこの国の兵士だから死んでよいということはありません。

これは日米の観客が涙さしぐみ、二度と戦わないことを誓うための映画であることを信じます。

という大前提を云ったところで、映画としての面白さは、もちろん撮り方によるわけで、空撮と特撮がすばらしいです。航空機の姿がこれほど美しく、躍動的に撮られた作品もまた少ないだろうと思います。きれいに三機ずつ並んだ零戦の勇姿よ。

CGではありません。くり返します。CGではありません。いま万感の思いをこめて敬礼を送りましょう。そして「どうやって撮った?」って考えると冷や汗でます。四発の大型機の片輪による不時着は見ものです。

星条旗の上を日の丸が飛び、ハワイの青空に橙色の爆炎が挙がる。

連絡が行ってないから防戦側が唖然呆然となるわけで、断じて笑いごっちゃない場面なんですけれども、映画的演出が最高に痛快な効果を発揮したと云わざるを得ますまい。

しかも日本海軍史上最大の作戦が最大の皮肉となってしまった顛末を描く監督(と脚本)の手腕は怜悧を極めて、日米とも無駄な台詞は一切なく、煩瑣な感情表現はバッサリと切り捨てるのでした。

これはアメリカ映画界の資本力と機動力、日本の技術と美学が最高度に融合した幸福な一本であると思います。

惜しむらくは(云うまでもないでしょうが)日本側BGMで、ゴールドスミスの楽曲自体はいいんですけれども、赤煉瓦の軍令部で芸者あげて遊んでるみたいで困るです。武満には残ってほしかったです……

Related Entries