トランスゲイの迷惑。

  29, 2016 10:22
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【1.女を捨てる】

一人暮らしする中年女性は、自分を「男になった」と思っていることがあります。女が一人で生きていくためには「女を捨てる」必要がある、という古い価値観を引きずっているせいです。

1972・73年に大ヒットした池田理代子『ベルサイユのばら』には、男装のヒロインが父親から「職業軍人を引退して嫁に行け」と云われ、今までの苦労はなんだったんだとショックを受ける場面があります。

で、彼女の出した結論は「男として生きていく」でした。

父親としては革命の不穏な気配を感じ、武力衝突から娘を守りたかったのですが、父娘のどちらにも「結婚した上で王妃の護衛を続けます」という発想がなかったわけです。

貴族の女性なんて、もともと自分で子育てしないんだから、さっさと職場復帰したっていいし、子どもができない可能性だってある。

漫画家・編集者としても、すでに男装の女性軍人というフィクションを描いていたわけですから、「女性における職業と結婚の両立」という発想があれば、それを描いちゃえば良かったのです。でも、まだ無かった。

1980年代は、後半に至っても『ベルばら』のヒットを引きずっていて、新作アニメに男装の職業軍人が登場すると「女を捨てる」という台詞が聞かれることがありました。いまの40代は、まだそういう価値観の中で育ったのです。でも?

【2.冷戦の呪縛】

たとえばの話、ウサギではなくなったものは、虎になったわけではありません。普通のウサギよりも強い、サイボーグ・ウサギになっただけです。虎より強いかもしれませんが、虎ではありません。

ここ重要です。1989年まで、世界は「冷戦」の時代であり、日本人全体・世界全体が「ソ連につくか、アメリカにつくか」という二者択一の発想に支配されていたのです。

アメリカを捨てるということは、ソ連に逆亡命することだと思われていたのです。でも冷静に考えると、どっちにも味方しない第三勢力ということがあり得るのです。

この違いが分からずに、二項対立を1998年まで引きずったのがトランスゲイ説だったわけで、女らしくないから男である(ゲイである)と云っちゃったのです。

榊原史保美は、BL専門誌の草分け『JUNE』に創刊(1978年)の頃から関わっていた人ですから、当時18歳だったとしても、1960年生まれ。1998年には、38歳です。

そうすると、中年女性が新宿二丁目へ乗り込んで、ゲイの間に座り込み、ゲイボーイズトークに参加する口実を与えちゃうわけです。ゲイコミュニティは「orz」ってなったんじゃないかと思います。

【3.当事者意識とは被害者意識です】

まず、BLの根本にあるのは、異性愛の代用としてのパワハラです。

中世の稚児趣味、あるいは戦前の男性作家が自伝的小説の中で報告したような、旧制中学・高校における「少年」とか「ユース」とかいう、青春期の一時的な関心。そこではハッキリと「下級生を女に見立てる」という約束事が存在しました。

年長男性の関心を実際に引き受ける少年たちにとっては暴力であり、虐待でしかありません。

中世の物語では、稚児・若衆が急に高熱を発して早世してしまったという話も多いものですが、これは実際に無理な行為によって感染症に罹患し、児童が落命していたことを暗示しているのかもしれません。

実態はこんなものです。男性が聞いたら、ご本人の性志向にかかわらず、ゾッとするに決まっております。

もしトランスゲイであれば、顔立ちが実際に女性的なのですから尚のこと、自分自身が被害児童になった場合を想定して、ゾッとするはずなのです。

これが分からないなら、残念ながら、トランスゲイではありません。

当事者意識とは被害者意識です。もし本当にこんなことになったら困る、きもち悪い、実行される前に止めなくちゃ、こんな漫画を発禁にしなくちゃと思うことです。

それは、ちょうど女性が男性から「女は生まれつきみんなマゾ。襲われれば喜ぶのが当たり前。男性向けに登場する女性キャラクターに感情移入し、よく勉強しておけ」と云われて悲憤慷慨するのと同じです。

たいへん残念ながら、「抱くことができるからトランス」というのは、自分を能動側にのみ位置づけた都合のよい解釈です。

【4.トランスゲイの被害】

誤解が流布したために、本物のトランスFtoMが「手術を受けたい」と周囲に打ち明けたら「漫画の読みすぎ」と笑われた、ということが起きた可能性があります。

また、変な女が寄ってきて「ジャンルは何ですか!? どこのサークルが好きですか!? 私の薄い本を買いませんか!?」と、つきまとわれた可能性があります。

結婚したくない女性が、彼らを自分の仲間だと思って、お友達になりたがることもあります。

でも、彼らは可哀想な女の子ではありません。生まれながらの男性です。それも、女の顔で生まれてしまったことを非常に残念に思っている男性です。

だから彼らは、彼らの理想である少年漫画をネタにしてしまい、「もうけ、もうけ」と自慢する女たちを絶対に許すはずがないのです。

【5.トランスの搾取】

結婚したくない女性が、彼らが男性であることをよく分かってやったつもりで、だからこそ彼らを(男性機能がないので)女を襲うことのできない安全な異性だと思って、自分のアクセサリーのように利用しようとすることもあります。

トランスゲイも、お人柄は人それぞれでしょうから「憎むというより蔑んでいる」という方もあれば、「憎むというより憐れんでいる」という方もあるでしょう。

いずれにしても、トランスゲイを自分の仲間だと勘違いして付きまといたがる女と彼らが同席したがっているということは、ありません。電話、メール、ツイートなどもご迷惑に感じているはずです。

現代では「デジタルつきまとい」というのが、けっこう問題になっているはずです。

とくに女性の同人は、自分自身が男性から、しつこく質問される等の被害に遭っているはずですから、自分のほうからやらかしてしまわないように気をつけましょう。

【6.社会による人権無視】

トランスゲイ説を提示した書籍が発刊された1998年の時点で、1978年以前に出生した人は、全員が20歳以上に達しています。その中には膨大な人数を誇る第二次ベビーブーマーが含まれています。

その内の一割でも、人権保障を得られずに、やむを得ず小説を読んだり漫画を描いたりしているなら、重大な人権問題です。政府・自治体・医療界・教育界などは即応を要求されるはずです。同人誌即売会からは数十万人の署名が提出されるはずです。

でも、1998年の時点で、急にトランスゲイ人権運動が盛んになり、人権保障法案が国会を通過した形跡はありません。

カミングアウトしたはずの作家も、その出版を手がけた編集者も、社会も、評論家も「トランスゲイが差別されるのは当たり前だから、小説を書いて我慢するのは仕方がないね」で終わりにしたのです。

でも、ゲイコミュニティは、先立つ1994年の時点で「男同士は異常だというのは我々に対して失礼だ」と云って来たのです。

当時のストレート社会の常識に対して、真っ向勝負を挑んだのです。

その一部であるはずのトランスゲイが「我々は差別されたままで構わないよ」と云うはずがないのです。

【7.真のトランスゲイ】

もし本当にトランスゲイであれば、まずはゲイコミュニティの先輩方に失礼のないように挨拶するはずなのです。もちろん彼らが怒ってクレーム文書を投じたくなるような無礼な質問はしない。

信頼できる医師・カウンセラー・人権団体などはどこにいるのか、自分自身の将来に関して、真面目な質問を試みるでしょう。創作物の投稿先も『JUNE』である必要はありません。ゲイ当事者が主幹をつとめる専門誌が妥当です。

とくに『JUNE』は「禁断の愛」を標榜し、先輩にあたる森茉莉の作品には新潮社の編集者が「禁色の愛」というキャッチコピーを付けていました。ゲイなら、これに激怒するはずなのです。

「俺たちの愛を勝手に禁止しているのは、お前らストレート社会じゃないか!」って。

女流は「実在とは別」と云うでしょう。上記の通り、「ストレート男性間の古典的風習が創作表現としてステレオタイプ化したものだ」と指摘することもできます。キャラクターの年齢の問題を指摘することもできます。

でも、ゲイ当事者としては、反射的に「男同士の何が禁断だ。許せん!」と思うのが、むしろ自然なのです。そんな雑誌に協力しちゃいられないはずなのです。

【8.追いつめられたプロ】

個人的には、榊原も社会によって追いつめられた被害者だと思っています。

ふつう、創作家が創作動機の開示を強制されることはありません。ホラー作家やミステリー作家が「なぜ殺人ばかり描くのか。家庭に問題があったのか」と訊かれても「プライバシーの侵害です」と答えればいいですし、「本当に殺人がしてみたいのか」と訊かれても「まず、あなた自身が創作物と現実を区別してください」と言い返せばよいことです。

BL(当時すでにボーイズラブという言葉が使われていました)作家だけが、自分の「性」について、説明責任があると思い込んでしまったのです。

でも、意見陳述を求められるのは犯罪者です。女性(の一部)は、創作物を書いただけで犯罪者あつかいされたのです。なぜか?

1989年に「1.57」という数字が発表されたからです。

社会は「若い人を自由にさせ過ぎたんじゃないか? とくに、女をさっさと嫁に行かせるべきだったんじゃないか?」と思い始めたのです。

だから、それまでは二十四年組・秋里和国などが少女向け雑誌に載っていて、多くの読者が少女漫画のついでに美少年漫画を読んだだけだったはずなのに、このあたりから「こういう漫画を読む女はコンプレックスが強いから、ふつうの少女漫画が読めない」という偏見が始まったのです。

【9.偏見を助長した人々】

1980年代までの少女向け漫画雑誌というのは、楳図かずお・弓月光・和田慎二・立原あゆみ等の例がある通り、男性漫画家が連載を持っていたこともあり、内容の多様性が保障されていたのです。

したがいまして、二十四年組まで視野に入れる以上、BLの歴史とは、少女向け雑誌を通じて何でも満遍なく読んでいたはずの人々が「少女漫画を読めない」という偏見を押しつけられるようになった経緯です。

描くほうも、疑いの眼を向けられ、女性の内面表現だったはずのものの表現の自由を侵害された経緯です。

そして、社会学者などがその偏見を基盤に研究を進めてしまった経緯です。

もし「市販雑誌によって二十四年組と少女漫画を両方読んだ女性は女性自認に問題がないが、同人誌即売会に集まる少女というのは、二十四年組にも飽き足らず、より特殊な表現を求める子たちだから女性自認に問題がある」

という仮説を採用するならば、それを証明するには充分なサンプルが必要なはずです。

「ケンミンショー」ふうに云うと、四十七都道府県から2000人ずつの二十四年組読者と、2000人ずつの同人誌即売会参加者を抽出する必要があるはずです。

人数としては、そのくらいは存在すると思われますが、研究者の皆さんは調査を敢行なさいましたか? 有意差を発見できましたか?

していない・できていないなら、なぜ根拠のない偏見を広めてしまったのですか? それが日本の学者の仕事ですか?

その偏見が当事者にフィードバックして、「私は何々できない女なんだ」という自己暗示を与え、自虐・引きこもり・反動としての過剰に露悪的な言動を生んでいることに、研究者・評論家は何の責任もないのですか?

【10.レインボーインパクト】

「1.57」という数字が社会に衝撃を与え、女性の自由が疑問視され始め、爾来10年。

榊原による解説書が発刊されるまでの間に、第二次ベビーブーマーを含む世代が成人しました。

同時に、男性向けコミックの有害図書指定運動が起き、出版界は(生き残りを賭けて)事実上の成人向けBLの発行を盛んにしました。

BLは、男性編集者のアドバイスによって「過激」の度を強め、少女漫画と同時に載せるわけにはいかないものとなり、バブル崩壊後の大不況下にもかかわらず、専門誌の創刊が相次ぎました。

狭義の市販BLとは、一見すると過激で前衛的なようですけれども、じつはチャレンジ精神をなくし、すでに確立された価値観を利用し、陳腐化させるデフレマインド商法の一つだったのです。

すると、それを読んで興奮した女性が新宿二丁目を荒らすという事例が発生した模様です。

そのころ、ゲイコミュニティはエイズ騒動を乗り越えて、人権運動を軌道に乗せ、女性の言動と女流創作物に対してクレーム文書を発するまでに成長していました。

というわけで、女流は自分自身が偏見を持たれながら「なぜ差別的な創作を続けるのか?」という疑問に回答をせまられたのです。

で、ベテランと見なされた榊原がBL界を代表して弁明することになった(らしい)のですが、偏見に対して「出来の悪い女ではなく、もともとゲイです」と云えば、ゲイプライド運動に合流できるはずだったわけです。

けれども、それを云われて一番あわてたのは、榊原とは直接おつきあいのなかったパロディ同人だったというのは、すでにお話した通りです。

この混乱ぶりは、端的にはゲイコミュニティのインパクトが意外に大きかったことによってもたらされたものであり、それ自体は良いことだと思います。

実際に長らく差別されて来た人々からの訴えが全く無視されるのではなく、対応しようという気持ちを生むこと自体は良いことです。

すでに田亀源五郎が不世出の傑作『銀の華』を上梓しており、その連載場所となった雑誌を始め、現代に至る人気雑誌がこの時期に創刊されているので、ゲイ当事者による自己表現活動がひじょうに活発化していたと云えるでしょう。

同時に、日本の出版界が議論に慣れておらず、差別という指摘にひじょうに弱いことをも表しているかと思われます。

わずか3年後には、東郷健を紹介する記事をきっかけとした差別用語論争に、ゲイコミュニティ自体が激震することになるのでした。


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