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消去法的BL理解。

【1.無理に買う必要はありません】

「男女の話がつまらないからBL」とか、「男女の話が恥ずかしいからBL」など、いろいろな説明があります。

けれども、「確かに最近の少女漫画はつまらないけど、男同士の話なんてもっとつまらないわよ!」と思う人は、BLを買わないはずです。

例えばの話、バニラ味に飽きたからといって、好きでもないチョコ味に無理してカネを出す必要はありません。チョコも食わなきゃいいだけです。

なにが哀しゅうて、苦労して手に入れた給料を、好きでもないBLに注ぎ込まねばならんのか。

なにが哀しゅうて、好きでもないアニパロの素人作者に無駄金を渡してやるために、炎天下に数時間も行列せねばならんのか。

全然理屈が通っていませんね?

わざわざBLにカネを出す人は、BLならではの面白みを感じているはずです。

では、それは何か? という話になります。

ここで実際のBL読者が「私の場合は~~」と云い出す必要はありません。創作物の鑑賞ポイントは人それぞれに決まっています。本来、説明責任はないのです。

これは、中途半端な説明をして自己満足している自称評論家に向かって「その程度か?」と云っているのです。既存の説明を批判しているのであって、あなたを攻撃しているのではありません。

被害妄想に駆られる必要はないのです。

【2.種の特徴】

では、BLの面白みとは? これも消去法が有効です。他と重複する要素を消去していって、最後に残ったものがその種の特徴です。化石などの鑑定は、これでやってます。

「完全に新人と一致」すれば、それは新人の骨です。ふつうの殺人事件です。あとは警察か探偵の仕事です。

首の骨の角度が違えば、それは新しい類人猿の発見です。おめでとうございます、となります。

では、ミステリーや純文学にも全く見られないことはないが、BLと名づけられた作品群においてのみ、他の分野とは桁違いの頻度で観察される要素とは何か?

受身の男性です。

逆にいえば、この要素が欠けていれば、BLとして成り立ちません。だったら読者の関心も、ここに集中しているはずです。

じゃあ、その何が面白いのか? 

ここで「エロ、エロ」と騒ぎ出す人は必ずいます。だったら、それを書いてみればいいです。売れるようなら証明になります。でもだんだん売れなくなったのであれば、それだけではダメだということです。

ですから、性愛の要素だけを追求せずに、一歩引いてみましょう。

男性が女役を担当することを女性が喜ぶ、と一般化して云ってみます。

男性が料理をする。育児をする。女性の趣味に理解を示し、買い物に付き合ってくれる。ネイルアートの楽しさを理解し「俺にもやってよ」と云う。

これを喜ぶ女性がいるのであれば、男らしくない男、女性化した男の何が嬉しいのか?

三島由紀夫に云わせりゃ女性のナルシシズム。フェミニズム批評に云わせりゃ男性社会への皮肉。女の支配欲の表れということもできるかもしれません。

百合に近いという声もあります。昔の女学校の「エス」を引き合いに出す人もあります。そういう女のホモソーシャルに男子を加えていると見ることもできるでしょう。

そしてこの前提にあるのは、強固な女性自認です。

かつての評論家たちは間違えたのです。女の子が男の子になりたがっていると思った。でも、それはすでに描かれていたのです。

【3.男装の麗人の逆転、敗戦国ルサンチマン】

二十四年組による美少年漫画が流行した1970年代後半というのは、池田理代子『ベルサイユのばら』(1972・73年)およびそのタカラヅカ舞台化(1974年)が大ヒットした後なのです。

二十四年組に漫画家としての自負があればこそ、男装の少女の二番煎じを描くわけには行かなかったのです。

『ベルばら』に対抗し得るオリジナリティとして提出できるのは、「女役の少年」なのです。物語の原案としては、日本の場合、かなり古いところまで遡ることができます。

現代的なイメージモデルは、1971年8月に与えられました。映画『ベニスに死す』の公開キャンペーンで来日したビョルン・アンドレセンです。

男の子になりたい女の子ではなく、女の子のように男性から想いを寄せられる男の子。さらに一歩進めて、とうとう女の子にされちゃった男の子。

作中で実際に手をくだすのは男性ですが、それをキャスティングし、演出しているのは女性です。男性読者が二重の意味で、ゾッとするのは当然です。

でも、これに集英社への対抗意識に燃える他社が価値を見出せば、流行のでき上がりです。

なお、1970年代において価値を見出した出版社の責任者たちは、女性ではありません。フェミニズム学者ではありません。おじさん達です。

それも、1970年代において50歳代に達していた社長・編集長と考えると、1920年代の生まれです。まさかの復員世代が「女性の自由」にゴーサインを出したのです。これがBLの本質。

じつは、貴族階級出身の金髪少年というのは、順調に成長すれば世界の政治的指導者・金融の支配者・芸術の正当な継承者として日本人の前に立ちはだかる存在です。

それが男の玩具となり、恥ずかしいことをされて、麻薬漬けになって急逝する。

おなじ男と思えば見過ごしにできないはずが、犠牲者が金髪であり、描いたのが日本の女流である限り、日本人男性にとっても「よくぞ描いた。俺の胸のつかえも取れた」といえる構図なのです。

これを利用したのが村上隆。手を叩いて面白がったのが西欧の前衛美術ファンという、ひねくれた連中。ジャパニメーションの時代が来たと思って勘違いしたのが日本の政府。まァそれはいいとして。

敗戦の記憶がまだ抜けなかった1960年代・70年代という、長い歴史上で見れば際どい一点において、男女の利害が一致したところに成立し得たのが、女流による「耽美」という表現であり、それを(男性の手で編集し)市販するという行動だったのです。

二十四年組がどこへ原稿を持ち込んでも断られ、泣く泣く自費出版したものを、少女たちがわずかなお小遣いを出し合って支援したという時のみ、BLは完全に女性の自発だということができます。が、事実はそうじゃないのです。

【4.解釈が簡単になります】

女性の男性化ではなく、男性の女性化という要素に重きを置くと考えると、いわゆる女体化、妊娠エピソードなど、全てが簡単に理解できるのです。

読者自身が強固な女性自認を有していると考えれば、「ピンクハウス」や「ゴスロリ」に装うこととも矛盾しません。(奇抜なお洒落に挑戦する人はごく一部でしょうが)

また、女性を男性化する必要はないわけですから、既存の女性キャラクターには(二次創作の)手をつけないこと、少女漫画やレディコミと並行して制作・鑑賞できることとも矛盾しません。

実際に、1990年頃までは、少女向け雑誌に少女漫画と美少年漫画が併載され、同じレーベルとして単行本化されていたわけで、べつに少女漫画読者と美少年漫画読者が誌上バトルなんてこともありませんでした。

どこの業界とも同じように、原型は初期の段階ですでに示されていたのです。

【5.女性の男性化との相関性の有無】

重要なのは「男性の女性化」です。イメージとしては、少女だらけの秘密の花園に男子を迎えて、自分たちの妹にしちゃったというところです。

とすると、漫画家・読者自身がサッカーをやりたいかどうか、マネージャーになりたいかどうか、女性として自己実現できた(という自認がある)かどうかといった要素と、かならず反比例の関係にあると云えるかどうか?

つまり自分自身がサッカーを始めたことで異性化願望を満足させることができたから、もう疑似的な妹は要らないということになるのかどうか?

レディコミを買ってもよい年齢になったから、もう妹みたいな美少年は要らないということになるのかどうか?

むしろ自分自身が男勝りな女性として活躍できればできるほど、逆に男性が女役を演じることを面白がり、可愛がるはずです。

また、もともと自分自身の女性自認・自己愛(うぬぼれ)が強いからこそ、自分が男性に合わせるのではなく、逆に男性を自分の領域に引き込むのですから、女性として充分に自己実現できている人ほど、BL(化)を喜ぶとも云えるはずです。

くり返しますが、これによって、BL読者(の一部)が性適合手術を望まず、男装せず、少女趣味なドレスに装うことが理解されます。

従来の「男になりたい女の子のはずなのに実際にサッカーを始めないのはおかしい」という考え方よりも、仮説と現実に矛盾がないならば、後者のほうが正しい、的を射ていると考えることができるでしょう。

つまり「自分が男になりたいかどうか、男らしい職業につきたいかどうかに関わりなく、男が女役を演じることを歓迎する」というのが本質です。

これを趣味と呼ぶのか、特殊な性志向と呼ぶのか、異常心理と呼ぶのか、究極のウーマンリブと呼ぶのか? それぞれのお立場によって違うのが当然です。

他人を批評することは自分を語ることです。ここでわが身を振り返って、自分は何と呼びたいタイプか、自分自身を定義することができます。

【6.自己批判できなかった人々】

運動部マネージャーの少女はマネージャーの仕事に励み続ければよいわけで、性愛遊戯に参加する必要はありません。あるのは女役の少年です。

これ、遡って森茉莉作品でも同じキャラクター構成なわけで、中年女性は中年女性らしく瞋恚の炎を燃やし、二十歳の娘さんはその年頃の娘さんらしく純真です。べつに男装するわけでもなければ、男勝りの青鞜派でもないのです。

くり返します。少女が男になって、男社会のドラマに飛び込んでいくのではなく、男性を女役に仕立てて、女流好みの恋愛ドラマに引きずり込むのです。ウーマンリブ時代の「少女が(子どもを産みたくないので)男になりたがっている」という解釈とは逆なのです。

どっちかってェと「男に子どもを産ませちゃえ」という発想に近いわけです。

ウーマンリブ時代を引きずっていた時代(1990年代まで)は、評論家自身が「女性なら『ベルばら』のような男装の麗人のドラマに憧れるはずだ」という偏見に捉われていたのです。

三島や寺山修司と同世代で、戦後女性の社会進出に眼を見張った人々が退官するのが1990年代ですから、この頃までは評論界全体に1970年代の印象が残っていたのです。

そして「その逆を思いつくことはあり得ない」という偏見にも捉われていたのです。

その背景には、当然ながら「男性の女性化というアイディアは受け入れがたい」という彼ら自身の自尊心があったわけです。

だからこそ「女は怖い」という思いから、現象の本質から目を背けようとしたのでした。

【7.いもうと自認の現実化】

ここで重要な問題が発生します。強固な女性自認を有し、「女の子」らしく装い、男子を自分の妹のように可愛がる女性にとって、疑似妹の相手役となる男性は誰か?

自分のお兄ちゃんです。自分の云うことなら何でも聞いてくれて、面白いものを見せてくれるお兄ちゃんです。

BL嫌いの男性は「女王様が男を調教する話を描けばいい」と云います。

でも、女王様が自分で鞭をふるうことに疲れて、家来の男を呼べば、同じことです。そして男性を顎で使う女王様を少女化すれば、当然ながら、お姫様です。

影の形に添うように、美少年のかたわらにたたずむ前世紀の美少女。

前々世紀になってしまいましたが、BLファン(の一部)がアンティークなドレスに装うのは、いいセンスしてるのです。アイラインとマスカラで強調した眼で本質を見抜いているのです。

ここまではいいです。

まだまだ賃金差別と性的いやがらせを克服できない実社会において、どっこい生きているという成人女性が、たまには我がまま放題なお姫様気分を味わったって良いことです。そのための創作物です。

ただし、これを新宿二丁目へ持ち込むと「ゲイのお兄ちゃんが私の代わりに人権運動してくれる」と期待するオバサンになっちゃうのです。

同人も、市販BL読者も、社会学者も、自称人権運動家も、厳重に自戒しましょう。

母親のトラウマは関係ありません。トラウマがあっても自分で気をつけることはできます。少女でも現実社会できちんと行動することはできます。

「男性が少女を搾取するべきではないわ」という大人の女性自身が、少女を口実にしてはいけません。

なお、ゲイを女性の人権運動の補強として利用するのは1980年代フェミニズム的発想なので、若い人が真似すると、若い人もオバサン属性になってしまうので、注意してください。

【8.男装の麗人の男流漫画化】

オスカル・フランソワの時代には、剣術と馬術で良かったんですが、物語の時代が下ると男装軍人も航空機に乗ったり戦車を操縦したり、はては自分自身がサイボーグになっちゃったりするわけで、女流はこういうメカニックを描くことが致命的に苦手なままですね。

だから、現代では男装の女性軍人を描くのは男性漫画家の仕事になっています。

編集者の入れ知恵もあったかもしれませんが、基本的には漫画家の自発でしょう。画家が(同性愛者でない限り)異性を描きたがることは、ルネサンス以来の基本です。

逆に女流は女性化の守備範囲を広げたわけで、いまやBLにおいて女性化される男性キャラクターは美少年ばかりじゃないというわけです。

そして、この動きは、テレビバラエティ番組にかつての任侠・極道映画のスターが登場し、若い女性観客から「可愛い」と呼ばれるようになった現象と、軌を一にしています。

(記憶が確かならば、1990年代から見られるようになった現象です)

つまるところ、創作物は社会全体の風潮を象徴表現したものであり、それだけ取り上げると社会から突出しており、過激すぎ、異端的に感じられますが、じつはちゃんと基盤に根ざしているのです。

【9.自然な変遷】

創作家は、演奏家とちがって、同じ作品をくり返し読み上げるだけというわけには参りません。永井荷風が云った通りです。新作には必ず新機軸を盛り込まねばならない。意図的にやるのでない限り、誰々の二番煎じと呼ばれてはならない。

だから、時代がくだるにつれて、創作物のバリエーションが増えるのは当然です。金髪少年が犠牲者だったものが一世を風靡した後には、それが加害者側にまわるという話が出てくる。

さらにその後には、被害・加害の関係ではなく、対等な友情のような恋愛や、プラトニック物語が希求されるようになる。当然の動きが起きているだけです。

なお、かつての加害者キャラクターが貴族詩人だったのは、文学の素養があった女流作家・漫画家たちにとって、フランス象徴派詩人が最高の憧れだったからです。

貴族で美形で金持ちで。それは、どんな行為も許される・あの人ならいいと云ってもらえるという特権の象徴です。

男性は、昔から、そういう人物を中年以上のタヌキ親父として描き、最後には天罰を受けるという結末にして、教訓物語という一応の体裁を保ってきました。

意外なようですが、これこそ男性一流の(ほかの男の厳しい目を意識した)含羞の表現であるかと思われます。

でも、女流は美化してしまった。暴力が愛に変わるというプロットをステレオタイプ化してしまった。

まさに、ここに「女性特有のナルシシズム」が表現されていると見ることができるでしょう。自分の「趣味・遊び」は、特権であり、美しいのであり、認められ、許されるのです。(だから異常だとは云わない道理です)

それさえも、創作物としては確かに許されると云えるでしょう。こういう時の背景にあるのが現実の不如意であることも、女性読者に限ったことではありません。

問題は、つねに、現実と混同すること。

現実の人間に対して、挨拶もせず、わざと失礼なことを云ったり、怪我をさせたりしている内に、お友達になってもらえると期待する異常な心理。

「女の子だから大目に見てもらえる」という弱者特権意識が、時おり、SNSや新宿二丁目で暴走するのです。

少なくとも初対面に近い職場の人々に対して「私の薄い本を買ってみたくないですか~~!?」と、やっちまうのは自粛しましょう。

【10.BL読者はBL読者で充分です】

男女の合意のもとに「耽美」の名で通用していたものが、パロディ同人界の隠語を取り入れて、奇妙なレッテルを張られるようになったというのが、BLの歴史です。

1970年代の耽美作品の読者は、とくに少女漫画の読者と区別されてはいなかったはずです。実際に同じ雑誌に掲載され、続けて読んでいたんですから。

いっぽう、「ヤマもオチもない」というのは創作物そのものを分類するための語であって、人間を名指すための語ではありませんでした。

名指した時点で差別ですから、差別が始まったのがBLの歴史と云ってもいいでしょう。

これは、やっぱり女性の社会進出が本格化し、男性の地位を脅かすようになった世相を反映し、男性の過剰防衛意識・先制攻撃意識を刺激しているのでしょう。

どこまでいっても、ジェンダー論であることから離れることはできません。

最初に名指した側の当事者がゲイコミュニティだった、さらに用法の間違いを広めたのが社会学者だったというのは、残念な経緯ではあります。

そして、自虐とは差別の内面化ですから、差別意識が旺盛ということであって、自虐する人は他人を差別します。「どうせあんたも何々のくせに」という偏見をもって他人に話しかけるものです。

さらに、自虐は被害者特権という意識を生み、過剰に露悪的な言動と、実在性的マイノリティへの甘えを生むものです。

だから、そろそろ自虐ごっこも克服するのが良いと信じるものです。

もしジェンダー論からBLを解放したいのであれば、BL読者は「BL読者」という、フラットな呼称にするのが良いのだろうと思います。創作物の読者にすぎないことを明示することができます。

「BL女子」って言い方も考えられるんですが、女性が読んでいるとは限りません。BL女子で定着すれば、逆に男性には「BL男子」と名乗ることを強要するという意味になるので不適切と信じます。

もし、BL読者は女性で何パーセント、男性で何パーセントという統計を出したいのであれば、自発的な合意のもとに協力者を集め、調査範囲を「何歳から何歳までの何人から得た統計」として公表したうえで、単純に一般化はできないという但し書きをつけるのがモアベターです。

ミステリーなら、そのカテゴリ名は「ミステリー」であり、ファンは「ミステリー読者」です。わざわざ「殺人マニア向け」なんて書きませんね?

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Misha

Author:Misha
スマホ時代にさからう評論系長文ブログ。冷静に通読できる大人の読者様を想定しています。

「若い人」に直接呼びかける文章は、18歳以上のヤングアダルト対象です。高校生は受験を最優先してください。

書く人は、新旧とりまぜて映画とアニメを見ながら文芸書に取りくんでみたり、昔の漫画を思い出したり、お国の先行きを心配したりしております。

記事中の色つき文字は、映画中の台詞・挿入歌からの引用です。あらすじは、あまり申しませんので、楽しみに御覧ください。取り上げる作品は、暴力・エロスなど特殊な要素を含んでいることもあります。

ときおり、耽美・BL・同人・LGBTに言及します。いずれの分野からも、偏見と差別と自虐がなくなるといいと思っております。

「二次創作の責任を二十四年組に押しつけるな」「実在同性愛者に甘えるな」が基調です。

全体として、二十四年組ファンが社会学者に物申すという珍しい構図。一部勘違い同人を叱責することによって全体を守るという意図もあり、ときにかなり辛口です。

記事は時々予告なく手直し・削除・分割しております。保存は個人的閲覧の範囲で、お早めに御随意に。転載・改変利用は固くお断り申し上げます。

解題


Casketとは、玉手箱。

でも検索すると棺桶がならびます。来世まで持っていきたい好きな作品の記録帳とご理解ください。