多様性とは、ぼっちになることです。

  06, 2016 10:20
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日本のアニメ番組では、かなり古い時代から、女性キャラクターの活躍が目立っていたのです。

なにも「お茶くみ」嬢というのではなく、みずからヘリコプターを操縦して主人公を助けに来てくれたり、正義の味方の一人として戦闘に参加したり。沖田十三の指揮のほとんどは森雪の解析を頼りにしていますね。

彼女達は、中年の指揮官に対しては賢い娘。若者たちに対してはロマンスのお相手。幼いキャラクターに対しては母親代わりと、八面六臂の活躍を見せるものです。

これは、ちゃんと性差を表していて、男性は分業制・チームワークですけれども、女性は実際に一人で何役もこなすものです。家庭においては会計担当。職場においては母親役。少なくとも男性の眼からはそう見える。

そういう描写は、彼らの「頼りになるなァ」という感嘆の気持ちを表しているのであって、べつにばかにしているわけではないのです。アニメーターにとっても大事なキャラクターであって、視聴者の中には「初恋の女性」という人も多いことでしょう。

だから、そういう女性キャラクターに感情移入すれば充分でしょ、というのが(二次創作)BLに向けられる疑問ですね。当方自身もそう思うからこそ考えてみた結果が、ここで展開している主張です。さて。

女性が男勝りに活躍できるようになれば、逆に「男性が女役を演じる」という表現が思いつかれるのは、時間の問題です。

じつは、これはアニメに限った話ではなく、1975年から放映開始された『8時だヨ! 全員集合』では、コメディアン加藤茶が女装して「あんたも好きねェ」と踊るのが、男児観客をおおいに沸かせたものでした。

もう、この時点でゲイコミュニティは悔しい思いをしていたかもしれません。ただし、彼らの世界にも「男尊女卑」があって、女装する連中が笑いものになるのは本人たちも覚悟の上だ(俺は奴らとは違う)という意識があるのです。だから、コミュニティ全体を代表する意見として、番組へ苦情が投書されたりすることがなかったのでしょう。

で、女流。

女性キャラクターは、男装といいつつも、髪が長い。正義の味方といいつつ、ミニスカート着用で敵を蹴り上げる。女性としての特質・美質を維持しているわけです。

だったら、逆に男性キャラクターも「男の色気」を残したまま女役を演じるという表現があり得る。とすると、多くのBLキャラクターが女装者ではないことが理解できる。

ここまでは、単純に論理的にひっくり返しただけです。まだ良いとも悪いともロマンチックだとも気持ち悪いとも云っていない。

どのキャラクター、どの役割分担にどのような価値を見出すかは、人それぞれなのです。

男装の麗人を「生意気で気に食わん」と思う人もあるかもしれない。女のナルシシズムと云って冷笑したい人もあるかもしれない。

「正義の味方なんて云って、結局ミニスカートを見たいだけじゃないの。女をばかにしてるわ」と思う人もあるかもしれない。

真に多様性を尊重するのであれば、すべての意見の存在自体を「当然そういうご意見もあるでしょうね」と認めることが第一歩です。

その上で、じゃあ自分はどうするか? という話になります。

誰も味方はいません。それぞれ違う意見なんだから「みんなゆってる」という魔法の呪文は使えません。

多様性の尊重とは、じつは、一人ぼっちになるということです。

だからこそ、あまり普及しないのです。多くの人が寂しがりやで、他人を指さして「みんなゆってる」と云いたいのです。

【同人こそ多様性を尊重しましょう】

男女とも「どうせ女は一蓮托生。プロもパロも同じこと」と云いたがる人は、やはり他人にくっつきたがる。責任転嫁したがる。権威を頼りたがる。「編集が~~」って云ってしまう。

少なくとも、それは自ら「表現の自由」を志向し、多様性の尊重を訴える同人の云うことではありません。まして同人やっていた性的マイノリティの云うことではありません。

この罠に落ちてしまう人は、意外に多いのです。「同人は一蓮托生!」と思っちゃうからです。

やたら連帯したがる自称マイノリティは、腹の中はマジョリティです。

マジョリティ家庭に生まれ育った、マジョリティ少年少女が「大目に見てもらえる」という意識で、創作界の藪の中に分け入ってしまうと、「だってみんなやってるもん。どうせプロはみんなパロ出身で、パロの味方だもん」と、本末転倒したことを言い出してしまうのです。

挙句に本物のマイノリティに甘やかしてもらえると思ってしまう。

現代は、価値観の違い・存在の違いを認めないという気持ちが、大きな悲劇を生んでいる時代です。せめて創作に関わる人は、他人の自由を尊重する人でありましょう。

「読んだだけだから関係ない」ってことはありません。同人誌即売会に、お客さんは、いません。

【11人いる!】

少なくともプロは、女役の少年を、オリジナルキャラクターとして創出しました。萩尾望都は『11人いる!』(1975年)で、フロルというキャラクターに、いずれは女性になって子どもを産むという(異星人の)設定を与えました。

しかも、同期として宇宙船に乗り込んだ中に、爬虫類のような皮膚をした異星人がいて「私もいずれ産む側になります」と云う。金髪だから、可愛い顔してるから女役だというステレオタイプ認識が発生しないように、周到に用意されているのです。

同じアイディアは、ル=グウィンも書いているので、「男性も産んでみればいい」というのは、女性の口から必ず云いたくなることなのでしょう。

ただし、それを書いた本人は結婚も出産もしていないということがあるので「要するに本人が男になりたいってことだな」とか「もともと男なのかもしれない」という解釈もまた、発生しやすい道理です。

ここはやっぱり、分けて考える必要はなく、女性の男性化と、男性の女性化がワンセットになっており、それを受け取る側(読者・視聴者)のほうで、一方は許せるが、一方は許せないという価値判断が発生すると見るべきでしょう。

フロルは、もともと女の子が少年化したタイプに見えるので、それがいずれは女性化するという、一人で二役やってるので、まさに象徴的なキャラクターということができるでしょう。

そして興味深いのは、続篇ではこのフロルが傍観者の位置にさがってしまい、物語は最初から最後まで男の子である「王様」と「四世」の相克に、男装の少女が一役演じるというものになったこと。

同時期に竹宮恵子も男性の活躍(『地球へ…』『私を月まで連れてって』)を描いていたので、女流が充分に実力をつけて、男性の活躍を真正面から描けるようになると、女役の男性というのは、現実味が低いということもあって「きらいじゃないけど、今回はちょっとお休みしててね」というような扱いになるのかもしれません。

すると、逆にそれだけを取り上げてステレオタイプ化させるという手法も生まれてきそうなもので、同人界で「アニパロ」が盛んになった頃と、ちょうど時期的に一致しているのではありました。

【50代はもともとの人数が少ないのです】

最後の問題は、なんで他人のキャラを使うんだよ、ということになるわけですが、これはもう、1980年以降に参加した人は、自分でも分かってないのです。

すでにそれまでに技法が確立していたので、最初から「そーゆーものだ」と思って読んだからです。だから、あわてて、とんちんかんな説明をしてしまうこともあります。

でもビデオデッキも普及していなかった時代に、アニメの話題は、オンタイムで熱心に視聴した人からしか生まれてきません。

だから確かに最初の時点では、アニメファンによる「遊び」だったのです。

それが著作権上の問題があることが認識され始めると、隠語の使用が始まったのです。

このへんのことがハッキリ出てこないのは、当時を知っている50代の人が、もともと(世代全体としても)人数が少なく、その後40年間同人界で生き残っており、気さくに昔話をしてくれるという確率が、限りなく低いからです。

(今年49歳の人は1967年生まれ。小学校を卒業し、晴れて中学生として保護者同伴なしで上京し、イベントに参加できるようになった時、すでに1980年。だから、いまの40代にそれより昔のことを訊いても、よく知らないのです)

でも、いくつかの現象をつなぎ合わせれば、見えてくるのはこうした経緯です。

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