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BLは、適度に楽しむフィクションです。

BLがトラブルとして認識されるのは、それで得た(偏った)知識が新宿二丁目へ持ち込まれた時です。

たとえば探偵小説のファンは、実際の警察による犯罪捜査の撹乱を願うものではありません。仁侠映画のファンは、実際の暴力団事務所を見物する素人が増えることを望むものではありません。ただそれだけの常識・約束が、BLでは守られていないのです。

とくに「同人やっていた」人は、サブカルパワーを過信してしまうことがあり、新宿二丁目に協力してやっている・繁盛させてやっているという独善的意識を持ってしまうことがあります。

現代では、SNSにおける言動、さらにTPP関連の話題として、二次創作全体・同人全体と混同した上で問題視されることも多いですが、それらは別稿といたします。(今回も少々長文です)

【1.もしも同人が新宿二丁目へ行ったら】

「きみは男性と交際するよりも、有名キャラクターを搾取し、同性愛をイメージ利用して、おカネもうけすることのほうが楽しかったんでしょ? 自分で選んだ道でしょ?

でも俺たちは、そういう創作物が流行したせいで、見知らぬ女性に跡をつけられたり、大事な人との時間を笑いものにされたりする被害が増えたんだよ。

きみがカネ勘定しながら笑っていた間に、俺たちは、せっかく新宿二丁目へ来てまで、女性にイジメられていたんだよ。どっちが不幸だと思う?」

これがゲイの言い分です。

同人が「その実行犯と私には直接の関係はない」と云っても、彼らは「じゃあいいよ」と云ってはくれません。

それはちょうど、女性が自分の生涯ただ一度の痴漢被害経験を元に「どうせ男なんてみんな同じよ! 一人も許せないわ!」って云うのと同じです。

「どうせ巨乳による肩こりの苦しみも知らないくせに、絵だけ描いて喜んでるんじゃないわよ!」って云うのと同じです。

ゲイに云わせりゃ「どうせ本当に異常だと云われる苦しみも知らないくせに『男同士は異常だ』とか書いてカネもうけしてるんじゃないよ」ってだけです。

同人が社会の被害者という顔をして、自分で自分になんとかセクシュアルだの、なんとかチルドレンだのとレッテルを貼り、同情を求めても、ゲイは共感してくれません。

同人は高い教育を受け、「表現の自由」の権利を存分に行使し、充分に自己実現できたのです。でもGLBTは、人生で最も大切なはずの、愛する人とともに祝福を受け、安心して生きる権利を奪われたままです。

ゲイの中には、おカネがない人もいます。家庭の事情・病気療養・障碍で実家を離れられない人もあるでしょう。彼らは新宿二丁目へ行くこともできません。そこで友達を見つけることも、恋人を見つけることもできません。

女性の中には、ときどき「我々はーーすべての抑圧にーー断固抵抗せねばならないーー」みたいな気分になっちゃう人もあるようです。

「男性が『女は新宿二丁目へ来るな』というのは女性差別だから良くない。ぜひ女性の権利を行使しなければならないわ」とか思っちゃうらしいです。声高に「どーーして行っちゃダメなの~~?」と訊く人もあるようです。

なに、行ってはいけないということはありません。

自分自身が上記のようなことを面と向かって云われて、赤っ恥かきたくなければ隠れてろってだけです。著作権について、えらそうなことを云わないのと同じです。

【2.フェミニズム的少女解釈の独善性】

もし、少女が夜遊びして成人男性を困らせたなら、大人の女性が云うべきことは、こうです。

「若い皆さん。BLもいいですが、まずは学校の宿題をきちんとやりましょう。まだ新宿二丁目へ夜遊びに行ってはいけません。実在男性の人権を尊重しましょう。お話の中の残酷はロマンチックに感じられることもありますが、本当のイジメはよくありません」

合わせて、少女たちの家庭にも注意を呼びかければいいです。これで新宿二丁目の被害はあるていど軽減されるはずです。

それでも彼らから「また中高生がうちの店に来て騒いでいる」という訴えが挙がるようなら、少年課の警察官を向かわせてもいいし、ゲイと大人の女性が協力して見回りボランティアを実施してもいい。

だって、未成年者に夜遊びさせないためなんですから、ストレート社会のためでもあります。でも、1990年代に性的少数派からのクレーム文書が発表された時、そういう対応は取られませんでした。では、何がなされたのか?

クレームを受け取った側である女性学者・評論家自身が「1980年代に(今でいう)BLに夢中になったのは何故か」という、言い訳をしたのです。

「あの頃」は、まだ母親たちに旧弊な意識が残っており、企業も女性の登用に理解がなく、少女(だった私)は将来を悲観し、他人の価値観による「女の幸せ」を拒否して生きる他なかった。

だからBLに夢中になりながら成長した少女が、成人すると新宿二丁目へ押しかけて、ゲイをからかうのは当然である。仕方のないことである。男性中心社会とお母さんがゲイに謝ればいい。あたし達は知らない。

こういう言い訳です。少女の深層心理研究に夢中になったのは当然です。自分のことだったからです。誰も実際に未成年である女性の心配などしていなかったのです。自分より若い性的マイノリティ男性の心を傷つける心配もしていなかったのです。

それが日本のフェミニズム? それが日本の大学教員?

ここで重要な問題に気づきます。

1990年代の時点で、すでに少女の非行問題ではなく、成人同士の人権問題であることの認識があったということです。少女論とは、「いま少女である人」の話ではなく、「むかし少女だった人」の話だったのです。

だから、現代の女性が新宿二丁目で無礼を働いた挙句に「私、まだ少女だから」と主張しても、自己弁護にはならないのです。ここで、同人全体の問題につながります。

もし同人というのが、モラトリアムで、アダルトチルドレンで、社会性が低く、善悪の判断ができず、自分から「まだ子どもだから。遊びだから」といえば許されると思っているような連中なら、そのうち漫画だけでは我慢できなくなって、漫画を描くよりも悪いことをするに違いないぞ、という話になるからです。

これは現代の同人にとって、致命的な「イメージ」です。もちろん「絶対にそうじゃない」と主張する必要があります。

だから、アダルトチルドレンだの、社会の被害者だの、弱者特権だのと云いたがる人々が、同人を自称したり、同人が使う隠語を自分を表すレッテルとして利用してくれたりすると、困るわけです。

とくに、同人自身が(トランスゲイという誤解を避けるために)食えなくなった少女を自称するようになって以来、こんどはそれを「フェミ」な人々が利用することが、混乱と被害を生んでいるのです。

【3.同人が自虐したわけ】

もともと同人(の一部)が自虐したのは権利問題を自覚していたからです。女の子であっても著作権問題を回避することはできないという覚悟があったからこそです。

1980年代・90年代の同人は、原作者が女性であっても男性であっても、その鶴の一声でジャンル壊滅という経験をしており、自分自身が「女の子」であることなど何の言い訳にもならないことを骨身に沁みて知っていたのです。

そもそも「表現の自由」は、男女にかかわらず万人に保障されています。だから同人も男女にかかわらず様々な表現に挑戦したのです。その上で、著作権というのは、それを侵害された人・した人の性別に関わらず適用され、詮議されるものなのです。

確かに「キャラクターの搾取」というのは、実在者の人権と同列に考えることはできません。でも原作者は「俺の著作者人格権が搾取された」と云うことができます。

それに対して、同人は「女の子だから別にいいでしょ」と云うつもりがなかったからこそ自虐したのです。ヤマもオチもないという隠語は、もともと創作物そのものを示す分類用語であって、人間を指す言葉ではありません。

「(理解できない人が読んでも)面白くないもの」を示す言葉はあっても、「それを描いた人物」が女性であることを示す言葉は、1998年に「トランスゲイ」という誤解が生じるまで、存在しなかったのです。

つまり、同人が自分から「こういうものを描いたのは女の子だから、大目に見てくれるでしょ」と云ったことは無いのです。後の時代の人・他業界の人々が、勝手に「何々少女」というレッテルを貼ったのです。

それを同人自身が真に受けちゃうようだと困るのです。

「BLはビジネスだ」と云う人もありますが、ビジネスだからこそ、権利問題は男女を問わず厳しく追及されるのです。フェミニズムの甘えは、同人には適用されないのです。だから「同人はフェミとは別」なのです。

にもかかわらず、弱者特権などと思っている人がいるようだと、同人のほうが困るのです。ここ重要です。

弱者特権が適用されたのは、1990年代に男性向け市販コミックの有害指定が起きた時、女性向け市販品についてです。出版社が「女性向けなら男性向けと同じ理屈で規制されることはない」という抜け道を見出したのです。同人には関係ないのです。もともと二次創作同人誌が名指しで有害指定されたことはないからです。

同人が恐れなければならないのは原作者による著作者人格権の行使。これだけです。それは女の子には適用されないということはないのです。

ここを混同すると「女の同人だから大丈夫」と勘違いする人が出て来ちゃうのです。また著作権を意識できていないと「あの子たちはモテないけど開き直っている」というふうな誤解が発生するのです。

そして、開き直った少女だから、どこへでも堂々と乗り込んで行く(これぞ新時代の自立した女性)という自己陶酔を生んでしまうのです。

でも、同人の自虐は、本来、甘えや開き直りの表現ではないのです。マジで見つかっちゃ困ると思っていたのです。その代わり、新宿二丁目にも迷惑かけるつもりではなかったのです。

もう1970年代のことを知っている人も少なくなったので、わざわざ現役同人に訊いてみなくていいです。「プロと混同されて注目されれば困るのは同人のほうだ」ということを考えれば、論理的に導き出せることです。

【4.1970年代の普遍性、1990年代の特殊性】

すでにご承知の通り、1990年代の「研究者」による解釈は、著作権問題を無視しており、女流でありながら男性同士を描くことについて(社会的非難が強いので)自嘲せざるを得ないというものでした。この延長線上にトランスゲイ説も飛び出したわけです。

が、二十四年組作品が小学館漫画賞を受賞して以来、市販品が訴えられたとか、禁止されるという話は一回も出たことがなかったのですから、「男同士だからダメ」という解釈自体が成り立っていなかったのです。

しかも1970年代には、少女向け雑誌に少女漫画と美少年漫画が両方載っており、後者だけが読者からバッシングされたということはなかったのですから、寺山修司のように「最近では全ての少女がこういう表現を求めている」と云うことができたのです。

実際に当時の読者は「わたし『イブの息子たち』を読んだことがあるからトランスゲイなのかしら?」なんて悩んだことはなかったはずです。『悪魔の花嫁』も読んでいたんですから。

なんでも読む女性の中には、スカートをはく人もあればズボンをはく人もある。伝統的に女性的とされる職業につく人もあれば、男性的とされる職業に挑戦する人もある。なにを読むかにかかわらず、現実の女性自身の人生は自由である。これで話が済んだのです。

でも、1990年を境に「アニメオタク」という存在・同人誌即売会という催事が(まちがって)悪いイメージで注目されるようになってしまった。端的には、ここから話がおかしくなったのです。

同人のほうでは、もちろん、いつの時代であろうとも、自分たちの問題性を的確に認識している。世間で『パタリロ!』がアニメ化(1982年)されようが、映画『モーリス』(1987年)が流行しようが、文庫が創設されようが、雑誌が創刊されようが、「私たちの作品は読まないでください」という自虐を続けざるを得ない。

ここで、同人活動というものを理解したい大人たちのほうには、なまじ1970年代の記憶があったわけです。

「最近では全ての少女がこういう表現を求めている」という印象が残っているから、アニパロを好む少女たちについて、プロの先生にお話を伺ってみようという姿勢になってしまう。

だからこそ、プロによる「バイアス」が掛かるわけです。あの子たちはおかしい。プロになりたいと云いながら私に挨拶もして来ない。コミュニケーション能力がない。コミケ会場に閉じこもって、わざと悪いことをしている。反社会的だ。引きこもりだ。親の育て方が悪かった……

すると社会のほうで「なるほど、最近はそういう若者が多い」と納得しちゃうのです。

【5.パロディの動機】

ここで、パロ同人のほうから創作動機を説明できると良かったのです。でも、ツイッターも無かった時代に、当事者には弁明の機会が与えられませんでした。(だから今ごろになって「好きキャラを受けにする」なんて自己分析が披露されているのです)

でも、例によって理詰めで明かして行くことは可能です。

まず、誤解されがちですが「カネ」は理由になりません。売る人にとってはそうでも、買う人は何が面白くて、わざわざカネを出すのかという問題が残ってしまうからです。

「エロ」も理由になりません。なぜ市販品よりも煽情的に感じるのかという問題が残ってしまうからです。

「市販品は生ぬるいから」というのも理由になりません。なぜアマチュアが描いたオリジナル作品よりもパロディのほうが刺激的に感じるのかという問題が残ってしまうからです。

コミケは本来「アニパロ専科」ではありません。プロを目指してオリジナル漫画を描く人々の集まり(の集まり)だったところです。だから、アマチュアが超過激なオリジナル作品を描いて、コミケで売れば、なんの権利問題もなく、原作ファンとのトラブルもなく、そのまま単行本化しませんかというプロデビューの誘いにもつながりやすく、一石三鳥の万々歳なのに、なぜそうしないのか?

「だからパロディのほうが売れるから」と云うなら、話が最初に戻ってしまいます。

つまり、パロディのほうが「有名キャラクターが自分のものになったような気がして嬉しい」という、ファン心理に還元されるわけです。原作ファンから見れば、とんだファン心理ですが、誰も「きらいなキャラが主人公になってるから買う」って人はない。

さらに、「もともと同じキャラクターのファンだった人とすぐお友達になれる。流行に乗った気分」というものもあるでしょう。お祭り気分、ミーハー心理、群集心理、地縁結合が失われた時代の新たな帰属意識の模索……。どんな名前をつけてもいいですが、ともかく原作そのものの流行によって、すでに大勢の読者・視聴者に世界観が共有されているがゆえの独特の興趣がある。

なお、ここで面白半分に「電柱もあります!」とか云っちゃう人もあるかもしれませんが、墓穴です。「だったら、もうアニメキャラを利用するのをやめろよ」という話にしかならないからです。

また新宿二丁目の常連が「私はアニメオタクではない。原作も読んでいない。エロだけが目的でアニパロを買っていた(または書いていた)」と云うならば、そういう人がゲイを見物しているというだけです。

自己満足クレームの前に、よく考えましょう。

話を戻すと、結論として「ひじょうに漫画・アニメを好きな、新世代の人々による自己表現」ということができる。だからこそ、ここで問題が一般化されてしまう。「では、なぜ今どきの若い連中は『二次元コンプレックス』になりやすいのか?」

モラトリアム、引きこもり、ニート、母親の過保護、父親の無関心、教師の無責任、テレビゲームの悪影響、バーチャルリアリティ、生命の軽視、リセットできると思っている、ほっとくと危険だ……

でも少なくとも同人は、自分なりの表現で(副次的に)収入を得て、立派に自活しているつもりです。もし本当に原作者から告訴されても、よく話し合い、和解するということもできる。

いわゆる「レッセ・フェール」の状態で置いてもらえれば、べつに精神を病むこともないし、傷害事件も起こさない。すでに未成年者ではないから、刑事責任能力を問われることも分かっている。まさか、傷害事件を起こしておいて「まだモラトリアムだから」なんて言い張るつもりはない。

多くの同人は、ふつうに大人なのです。1990年代なら尚更です。1970年代には中学生だった人も、1980年代には高校生だった人も、みんな成人している。同人誌即売会参加者の一部にすぎない「少女」だけに着目した社会学的・心理学的分析は、困るのです。

しかもそれが1990年代以降の少女と、社会的立場の弱い男性たちの明るい未来を志向した研究や提言ではなく、すでに歳を取った研究者自身が責任を負いたくないがための言い訳では、誰の益にもならないのです。

どーせ責任取りたくないなら、クレーム文書を同人界に丸投げしてくれれば、同人(=出展者)は「私たちは新宿二丁目へは行かないという約束を守っています。親愛なる読者の皆様は、創作物と現実を区別してください」と明言することができたでしょう。

実際に、現代のSNSにおいては、現役出展者・プロ創作家から、そのような提言がなされているはずです。それは今も問題が収まっていない証拠ですが、各人の立場の違いを明確に示すものであると思われます。

(当方と致しましても、さまざまな声を拾った上で、こういう話を始めているわけでございます)

以上をあえて図式化すれば、「表現の自由」を標榜するプロ創作家たちがいて、その陰に「同人」がいて、この人たちは実在者とは一線を引いたつもりで創作活動そのものに邁進している。(昔の同人は本当に合同誌を出版していましたが、いまの人は一人で一冊出すので、大量の原稿が必要であり、忙しいのです)

いっぽうに「リード・オンリー・メンバー」がいて、この中に、実在者に甘えちゃう人と、創作物批評をアクチュアルな政治運動につなげたい人がいて、あるていど重なっている。

当方は、この重なった部分という、かなりピンポイントを狙って批判していると。こういうことになるかと思われます。

百歩譲って、BLを読んで、新宿二丁目へ行ってみて、当事者の声を聴いて、署名や寄付くらいには協力するようになったと。映画祭を見て、パレードに手を振って、模擬店でお買い物をして楽しかったと。みんな同じ人間だという意識を持つようになったと。だったら良いと云えるでしょう。でも彼らに説教を始めちゃうってなんなんだ。自分のほうが可哀想って云っちゃうってなんなんだ。

【5.伝記作者】

こっからは、BL読者が間違いを起こしやすい理由を、BLの創作動機から説明するという話です。

だいたい以前にも挙げた話題のくり返しですが、この「明日のために」というカテゴリを、当方の基調をまとめ読みできるカテゴリとして一貫させたいので、再論させて頂きます。さて。

シャーロック・ホームズの物語というのは、ワトソンがホームズを見習って、名探偵になる話ではありません。

男性の人生の目的は、必ずしも自分が「なる」ことではなく、よき友人を持つことでもある。でも、持った途端に彼の真似をする人物というのは周囲から尊敬されない。腰ぎんちゃくなどと呼ばれる。

ワトソンは、あくまで医師です。

ある程度の観察眼と論理的思考力を持ち合わせた人物として、事件の問題点を指摘し、ホームズの思索を助ける(というか興を添える)役目であり、ごくたま~~に偉大な友人の真似をして事件の証拠を発見してみようとするけれども、「やっぱり私じゃ無理だった」なんていう。

ミステリー好きの読者は、まさに自分のことのような気がして、微笑ましい気分になるわけです。

BLというのも、最初に女性キャラクターが登場して「私の友人の話を聞いてください」と始めれば、読者が戸惑うことはないのです。

「私の幼馴染の少年が、都会の男子校に入学し、そこで不思議な少年に出会ったそうです」という伝聞の形式であれば、世にも不思議な物語を語る手法として、なんの問題もありません。

実際に「ストレート同士の間に『真実の愛』が芽生えた」というのは、世にも不思議な物語なわけです。だからこそ「吊橋理論で同性愛が芽生えることって本当にあるの?」という質問も生まれる。

(「ねェよ」と答えてやってください)

世の中には「女性自身が男子校に入りたいという気持ちの表現だろう」と解釈した人もありました。でも、必ずしも自分がサッカーやりたい気持ちとは限らない。「ほかの男の子がやってることを見てるだけでいい」かもしれない。

ほかの男の子が恋愛している噂を聞きつけて、跡をつけ回すのであれば、迷惑な探偵ごっこです。「ユース」の名前を新聞に書くのであれば、迷惑な暴露屋です。自分が情報通として注目されたいだけです。

この気持ちをそのまま新宿二丁目へ持ち込めば?

ショーの観客である限りは、良いお客さんです。でも本来のお客様が男性専科だと思っている店や、婚活イベントの扉を押さえつけ、「おカネを払えばいいんでしょ!」というのでは良い態度とは云えない。

「女性差別よ!」と云うなら、彼らには「俺らを正式に結婚させろ」という権利がある。

なぜ女性は彼らのためには法律を改正してやらず、自分の権利だけ主張するのか。憲法で男女平等が保障されているから?

だったら、ストレートとゲイの平等を保障していない憲法が間違っているのです。少なくとも、新宿二丁目でサービスを受けようという女性は、ゲイからのこの問いかけに答えなければならない。大学者・政治家・人権団体代表であれば、なおさらです。

「明日から政治活動してやるから、今日は酒を出しなさいよ。そしてあんた達のコイバナを聞かせなさいよ」というのは、良い取引ではありません。

男女平等だからこそ、女性も社会のマナーを守る必要がある。むしろ男性よりも女性のほうが、弱い人々に対して優しさを発揮すればいいです。女性の美点となり、誇りとなります。

【6.トランス的悪役への感情移入という自己満足】

創作物における悪役というのは、創作者にとって最も違和感のある人物なのです。

若い女性が書いたものなら、セクハラオヤジ。太ったオバさん。うるさい母親。勝手に若い男女の仲を邪推して「恥ずかしがらなくてもいい」とか「ちゃんと紹介しなさい」なんて、理解のあるふりをして、恩着せがましく世話を焼きたがる。ほんと、うっとうしい。

男性が書いたものなら、まずは権力者。金持ちの老人。この国を社会主義者に渡してはならん!(西村晃ふうに)

「だからって何をしてもいいわけじゃねェだろ!」と、相手の独善性を裁いた時、ヒーローは最高にカッコ良く、観客は最高のカタルシスを得る。

そういう表現がそろそろ陳腐化した頃に流行り始めたのが、女性的な男性の悪役だったのです。

いちおう男性の体格をしてるんだけど、わりに細身で女性的で、紫色のアイシャドウや真っ赤な口紅をつけており、「おほほ」と笑う。アニメなら声優は男性。

これはスタッフの殆んどを占める男性にとって、最も気持ち悪い、許しがたい、つぶしてもいい相手なわけです。

ただし、これは「男装の麗人」の逆転で、女性観客のナルシシズムに資することがある。一見すると真逆なものというのは、帝国主義と共産主義がそうであったように、根は同じなのです。

とくに、子ども向け番組のヒーローは、多くの場合日本人の青年だから、その敵役というのは、同級生以上の日本人男性をライバルとして、追いつけ追い越せというつもりで頑張っているウーマンリブ女性にとって、自己愛の象徴となり得る。

そこまではいいです。「紫の人が好き」という気持ちは本人のもので、誰にも禁止はできない。

ただし、これをGLBTが見ると、つらく、哀しいのです。

多くの場合、ヒーローチームは黒髪の日本人男女で、いずれは結婚し、子どもを持つことが前提されている。そういう人々が、化粧した男を指さして「気持ち悪い。許せない。やっつけろ」と叫ぶ。

やっつけられて、ほうほうの態で逃げ出す姿を「良い子」の視聴者が見て、大笑いする。

ゲイ(の少なくとも一部)は、一緒に見ちゃいられないでしょう。「自分もあのマンガみたいにやっつけられたらどうしよう。次はお前の番だと云われたらどうしよう」 

これが真の当事者意識です。この気持ちを、ストレート女性のほうで分からないなら、立場を逆転させてみるといいのです。

男性向けドラマの中で若い女性が「ボコボコにされる」という場面があって、男の視聴者たちがゲラゲラ笑っている。やっちまえとか云っている。

もし一緒になって笑っている女性があるとしたら、よほど創作物を突き放した目で見ることができる人か、自分も男になったと勘違いしている人です。

でも、ドラマを見終わった男たちが自分のほうへ振り向いて「次はお前だ」と叫んだら、ギクッとするでしょう。早く逃げなきゃと思うでしょう。ドラマの登場人物になった気分でボコボコにされたいわとは思わないでしょう。

当事者意識とは、被害者意識なのです。

悪役としてのトランス的キャラクターというのは、ストレート同士・女同士で「好き」と云っている限りにおいて、面白かったり、ロマンチックだったりするのです。基本が自己愛だから、好きという気持ちに陶酔的な興奮がともなうのは当然です。

二次創作BLというのは、設定上はストレート(女性の婚約者などがいる)として登場した男性キャラクターを、女役としてキャスティングし直し、新たな作品を描くものです。

それにはそれなりの技術と熱意が傾注される。誤解されがちですが「原稿用紙を買ってくるのもめんどくさい」という人は、二次創作同人にはなりません。二次創作同人というのは、男性中心社会に傷つけられて、生きる気力をなくした可哀想な女の子ではありません。

やる気のある人が(収入に結びつくことを励みに)一生懸命に描く。腱鞘炎になるかもしれない。読む人が読めば傑作です。「神」と呼ぶかもしれない。それはそれでいい。

でも、いずれも新宿二丁目へ持ちこむことではありません。

トランス悪役キャラクターが好きだからGLBTについて講義しますという先生も、当事者から見れば「全然わかってない」ということになる。

分かっていれば「トランス的人物を悪役として表現することに抗議します」となるのが本当です。

【7.女性特有のナルシシズム】

トランス的男性キャラクターへの感情移入は女性の自己満足にすぎない。

これは、残念ながら、ストレート女性側は云われないと分からないのです。自分自身の「好き」という気持ちに夢中ですから、それが失礼だと批判されるとは思ってもみない。

この基盤には「女性特有のナルシシズム」という要素があるわけで、自分は常に正しいと信じている。誰からも批判されないと思っている。自分が好きと云うからには周囲が同意してくれると思っている。

女性特有のナルシシズムと云ったのは、ずいぶん昔(昭和30年代)の男性評論家で、もともと女流の文筆家に関する言です。

詩作や古典研究にいそしむ女性たちというのは、富裕な良家の出身で、昭和30年代でありながら大学まで進ませてもらえたと考えることができる。

そういう女性たちの、少なくとも一部が「天狗」になりやすく、独善的で、意外なほど視野がせまい。批判に対して、すぐヒステリックになる。そういう意味です。

やはり、ひじょうに愛されて育った。我がままを聞いてもらえた。「頭がいい」と持ち上げられて育った。男性を凌駕したようなつもりでいる。

そういう心理を皮肉った言葉です。いまでは性差別的として印刷できない言葉かもしれませんが、女性のほうで自戒にするといいです。

少なくとも、GLBTを相手に発揮する要素ではありません。

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Misha

Author:Misha
スマホ時代にさからう評論系長文ブログ。冷静に通読できる大人の読者様を想定しています。

「若い人」に直接呼びかける文章は、18歳以上のヤングアダルト対象です。高校生は受験を最優先してください。

書く人は、新旧とりまぜて映画とアニメを見ながら文芸書に取りくんでみたり、昔の漫画を思い出したり、お国の先行きを心配したりしております。

記事中の色つき文字は、映画中の台詞・挿入歌からの引用です。あらすじは、あまり申しませんので、楽しみに御覧ください。取り上げる作品は、暴力・エロスなど特殊な要素を含んでいることもあります。

ときおり、耽美・BL・同人・LGBTに言及します。いずれの分野からも、偏見と差別と自虐がなくなるといいと思っております。

「二次創作の責任を二十四年組に押しつけるな」「実在同性愛者に甘えるな」が基調です。

全体として、二十四年組ファンが社会学者に物申すという珍しい構図。一部同人を叱責することによって全体を守るという意図もあり、ときにかなり辛口です。

記事は時々予告なく手直し・削除・分割しております。保存は個人的閲覧の範囲で、お早めに御随意に。転載・改変利用は固くお断り申し上げます。

解題


Casketとは、玉手箱。

でも検索すると棺桶がならびます。来世まで持っていきたい好きな作品の記録帳とご理解ください。