血と薔薇族。

  20, 2016 10:20
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コミケは1980年代初期に分裂を経験しています。

すでにその時点で「アニパロ」作品の出展が増大しており、「同人活動は女のホモソーシャル」という性質も確立していたので、これ以降に参加した人にとっては「同人活動というのは、女性が男性からは何も教わらずに、自分なりのアイディアでどんどん書いていくものだ」と感じられるのは当然なのです。

今年49歳になる人は、1967年の生まれ。13歳になった時、1980年でした。1983年の大アニパロブームの時には16歳。購読者としても、新規出展者としても、中核となった世代です。だから、これより若い人々、つまり現在の40代以下の人々は、1970年代に起きたことについて、ほとんど知らないのです。

でも「アニパロの基は二十四年組作品」という公式説明がなされており、その二十四年組作品が戦前の男性作品を原案としていることは、漫画家自身の証言および作品から明らかです。

だから、それを読んで「目覚めた」と称する人は、男性作家の「孫」に当たります。自分自身がおじいちゃんの顔を知らない(=男性作品を直接読んだことがない)だけで、子孫には違いないのです。

このことは、二十四年組を読んでオリジナル漫画家(プロ漫画家)になった人、および森茉莉または栗本薫を読んで小説家になった人には、当たり前に理解されていることです。

森茉莉の場合「昔の希臘の貴族の男」に言及している以上、原案は五千年前まで遡ります。最低でも、1951年に日本で出版された呉茂一『ギリシャ神話』を読んでいます。

だから茉莉を読んだ人にとっては、真の原案は、古代に実在した男性の行動。少なくとも当時の男性詩人の夢想です。

ここで重要なのは「だからといって、現在の(ゲイを含めた)男性の云う通りに書いたり、修整したりしなければならないわけではないし、どうせコピーのコピーのコピーなんだから、もう描くなと云われる筋合いもない」という点です。

【1.歴史と現在、創作と現実の区別】

例えばの話「日本人のルーツは三万年前に大陸の何々地方に住んでいた」という歴史を確認したからといって、今の日本人が現在の何々地方の人々の家来にならなければならないということはない。ここの区別が必要なのです。

ここを勘違いすると、あわてて「私は明治文学なんて読んだことないわ!」と叫び出しちゃうのです。

勘違いする人というのは「男性文学の子孫であることを認めると、男性から何か云われる」という被害妄想を持ってしまっているのです。でも当方の意図は逆です。

いったん百年前まで突きつめるのです。その上で「百年前に成立したステレオタイプを再生産するという創作活動は、してはいけないのか?」と問うのです。

すると「いや、ミステリーだってそういうことはやっている」と云うことができる。

警察から証拠を借りて刑事事件を解決するなんて探偵は、実際にはいないのに、多くのミステリー作家が、そういう探偵がいる約束になっている世界を描いている。

ホラー作家やアニメ脚本家だって、実際に妖怪を見たことがあるわけではないのに、妖怪がいることになっている世界に住んでいる少年少女の物語を描き続けている。

創作物を「事実かどうか」を基準に断罪し、発禁にする権利は誰にもない。つまり「創作の自治」を主張することは、ゲイに質問することなど何もないということと裏表です。ここ重要です。

これが分からない人が、わざわざ新宿二丁目へ押しかけて、ゲイに向かって「漫画みたいなことって本当にあるの~~?」と質問してしまう。そのいっぽうで、他の男性に向かって「どうせ現実の女と交際できないくせに」と厭味を云うわけです。

男性に質問したり、喧嘩を売ったりする人は、要するに「かまってちゃん」です。自分自身が創作物だけでは満足できないのです。だから、もし「どうせ本物の巨乳には興味ないんでしょ?」と厭味を云うなら、揉ませてやればいいです。話を戻しましょう。

個々人が口々に「私は二十四年組を読んで目覚めた」「私はパタリロを読んだ」「私は高河ゆんを読んだ」と云っても、人それぞれなのは当たり前というだけであって、意味を成さないのです。

じゃなくて、一番最初まで、いったん時計を戻すのです。

では、BLが再生産し続けているイメージとは何か? じつは「男同士は異常」ではありません。日本の戦前の男性作品には「そういう奴もいる」と書いてあるのであって「奴らは異常だから、やっつけろ」と書いてあるのではない。金井湛くんは自分の身を守っただけです。

BLが再生産しているのは(端的には)「ストレート男性がストレート男性にいたずらすることもある」という、百年前の知識です。

では、そこから「憎からず思う」という情緒が生まれることは絶対にないのか? あるものとして、続きを描いてみよう。

これは「戦艦が空に浮くものとして描いてみよう」とか「人間と妖怪が友達になれるものとして描いてみよう」という創作上の挑戦であり、そうであるに過ぎません。

ここまで突きつめたとき「表現の自由」を主張することができる。

BLの場合は、未成年者の購読には相応しくない・または他人のトラウマを刺激する場面が含まれている(ことが多い)からゾーニングが必要だとされるけれども、「百年前の純文学を下敷きにした新作を書く」ということ自体が悪いわけではない。

では、なぜ突きつめるのだったでしょうか? 実在ゲイ男性からのリアリズム志向による批判を防ぐとともに、女性のほうから彼らに迷惑かけないためです。

というわけで、まずは戦前の男性作品がルーツの根本であることを確認しました。これで終わりにはなりません。なぜなら「アニパロ」というものがあるからです。誰が最初にアニメキャラクターを利用することを思いついたのか?

それはトランスゲイ男性の生まれつきの志向による、やむにやまれぬ表現だったのか?

【2.アニパロの母】

誰が最初にアニメキャラクターを利用することを思いついたのか?

それが完全に女性の自発であることを証明するためには、最初にコミケへアニパロを出展した人が、ギリシャ神話も、森茉莉も、二十四年組も読んだことがなく、アニメ番組を見ている内に、ひとりでに「組み合わせ」ることを思いついたという証拠を提出する必要があります。

ただし、インターネットも無かった時代に、アニメは好きだが、森茉莉も二十四年組も読んだことがないという人、したがって美男同士の物語が流行しつつあることを知らないという人が、コミケの存在だけは知っていて、そこへいきなり(まだ流行が始まってもいないのに)パロディ作品を持ちこむというのは、ちょっと考えにくいのです。

あるとしたら、男性と一緒になって「アニメ研究会」に所属しており、手塚・石ノ森なら読んだことがあって、『COM』へ投稿するつもりでSF漫画を描いていた(ので初期コミケからの招待状を受け取った)という、硬派な漫画ファンです。

そういう女性が「青年が大勢登場するSFアニメ番組を見ている内に我慢できなくなった」というなら、これは確かにトランスゲイかもしれません。ただし、この場合「自分を登場させる」のが本筋です。

【3.先輩と友人への配慮】

男性アニメファンの場合、好きな女性キャラクターがシャワーを浴びている絵を描くなんてのは、よくあることです。そういうイラストが「グラビア」として市販雑誌に載ったこともあるそうです。

その続きを描くとしたら、男性キャラクターが風呂場をのぞくというのが自然です。一般向けなら、水ぶっかけられて終わりですが、アマチュア同士で共有される肉筆回覧誌・私家版の範囲なら、もう少し踏み込んだ描写をしても、とりあえず編集者によって「ボツ」ということはない。

この場合、自分自身を「兵士A」として登場させ、彼女に対して思いを遂げるというのが最も自然な設定・描写なのです。

一般的な傾向として、男性はリアリズム尊重です。旧海軍の軍艦名を利用したゲームでも、美少女なら何でもいいわけではない。ちゃんと軍艦の性質を調べた上で、それを活かしたキャラクターデザインをする。補給艦の名を持つ少女は、他のキャラクターに対して「回復」の機能を果たすというように。

この基盤にあるのが、じつは「同じ男性の仕事に敬意を払う」という謙遜・遠慮の気持ち。あまり自分勝手なことはしないのです。

じつは、女性同人も同様で、他の女性同人のオリジナル作品について、勝手に利用するということはない。「キャラクターをお借りしてもいいですか」とか「お借りしました」と挨拶する約束です。

プロ漫画家に遠慮するのも「少女漫画家になりたいから」ではないのです。だったら小説家には遠慮しなくていいことになる。実際にはそうじゃない。おなじ女性である以上、漫画家に対しても、小説家に対しても、遠慮するのです。

話を戻すと、男性が女性キャラクターにいたずらするというパロディを描く場合、原作中の男性キャラクターを悪役として利用するよりは、自分自身を(少なくとも「影」として)登場させるのが一番自然なのです。

おなじ男のアニメファン同士で、女性キャラクターについて「何々ちゃんっていいよな」という話なら出来る。でも男性キャラクターについて、イメージを壊すということは原則、しない。キャラクターではなく自分以外のファンに遠慮するのです。

これが男性同人が「組み合わせ」を描かない根本原因です。

【4.トランスゲイ説の矛盾】

トランスゲイというのは、根本的に男性ですから、発想がストレート男性と同じです。作中の男性キャラクターに恋して、寝込みを襲うというパロディを構想したとして、自分自身を「兵士A」として登場させるのが最も自然です。

そして、この場合、おなじトランスゲイ男性以外には「この気持ちを分かってもらえない」と思うはずですから、「女性は読まないでください」と云うのが本当です。つまり、コミケには出展しない。

これが、トランスゲイ説の抱えている根本的な矛盾です。

「カミングアウトすれば差別されることを恐れて、こっそりと小説を書いている」という話なのですから、そんな小説を売り出すことはないはずです。まして、アニメキャラクターを利用して、原作者や原作ファンとの間にトラブルを起こすリスクを取ることは絶対にないはずです。

まず最初にトランスゲイの人権団体を立ち上げて、その中でのみ回覧するという手段を取るのでなければ、恐ろしくて発表できないはずです。

同人というのは対面販売です。万が一、原作ファンが怒鳴り込んで来たとき「トランスゲイなんです~~」とは云えないと思うなら、そもそも出展しなければいいです。

もし「すでに多くの女性が出展しているので、トランスゲイの俺も女性のふりをして出展させてもらった」ということであれば、本人はトランスゲイでもいいですが、ほかの多くの女性については、なんの説明にもなっていません。

(1990年代の解説書というのは、プロとパロを混同しているので、説明になっていないのです)

【5.定型の利用】

つまり、生来の性的志向に基づく自己表現としては「組み合わせ」というアイディアは生まれて来ない。

生まれて来るのは、すでに「男同士」という物語の定型を知っていて、そこへ他の作品のキャラクターを当てはめる・キャスティングするという「遊び」が思いつかれた時です。

そして、それが同様に「すでに定型を知っている人」によって、難なく受け入れられた時です。

ストレート女性にとって、若い男性が二人も登場して、毎日ケンカしていたのに、いざという時には協力するという物語を観て「いいわね、男同士って」と思うことはよくあるのです。

「男同士の友情って、見ていて気持ちのいいものだわ」というのは、かなり古い(1950年代の)映画でも女性の台詞として表現されています。脚本家は男性ですが、実際に女性がよくそういうことを云うものだという印象が、脚本家にも、監督にも、観客にも共有されていたのでしょう。

つまり、女性が男の友情を(嫉妬しつつも本気で引き離そうとするのではなく)称賛するということはある。根本的には女性が平和志向で「仲良きことは美しきかな」と思うからです。

ただし「その二人の間で恋が芽生える」という発想は、やはり滅多なことでは生まれて来ない。タブー意識・差別意識があれば尚更です。そもそも、サッパリしているからこそ、それは恋愛ではないはずです。

でも他人の作品によって「そんなこともあるんだ!?」と知った時、解禁ということになります。だからこそ「吊橋理論で同性愛が芽生えることって本当にあるの?」という質問も生まれて来る。

質問の背景には「とても実際にあるとは思えないが、そういう話をどこかで読んだことがある」という記憶があるわけです。

でも、もともと自分自身の中に男性自認があって、実際に林間学校などで男子生徒と協力して登山コースの難所を乗り越えた時、強い愛情を感じたという経験のある人(トランスゲイ)なら、そんな質問をするまでもないのです。

少なくとも質問者にとって、まったく実感がない。だからこそ「新宿二丁目まで行って訊いてみよう」となってしまう。

もう、新宿二丁目で余計な質問をする女が大勢いると(ゲイコミュニティから)云われた時点で、その人々自身がトランスゲイではないことは明々白々だったのです。なんで気づかなかったのか。

【6.男性社会による薫陶】

ここまでで分かったことは「BLのルーツは戦前の男性作品である」「トランスゲイからアニパロは生まれない」の2点です。

逆にいえば、それはトランスではない=生来の女性自認者が戦前の男性作品を利用した、実体験の記憶をともなわない、創作上の技法です。

もし戦前の男性作品を下敷きにしていることをもって「パロディ」と云うならば、さらにそれを下敷きにして、アニメキャラクターを適用した創作技法は、パロディのパロディということになります。

アニメに対してパロディであると同時に、戦前の男性作品に対してパロディのパロディなのです。この二重性が同人作品の理解を難しくするので、やたらと余計な分析が生まれたのです。

なお「誰が最初にアニメキャラクターを利用した作品を出展したのか」については、1975年から1978年頃までの出展作品をすべて調べる必要があります。研究の名において協力を求めることができるとしたら、本物の研究者です。還暦に達した同人当事者たちの協力が得られるようでしたら挑戦してみてください。

では、次はその「パロディのパロディ」の変遷について。

1980年代後半以降の同人作品について「なぜ少女の書いたものがこんなに過激なのか!? 彼女たちに何が起きたのか!?」と心配しても、あんまり意味はないのです。男性中心社会によって豊富な資料が与えられていたからです。

少なくとも成人に達していたベテラン同人が資料を購入し、それを利用した作品を後輩たちがまた利用するという「コピーのコピーのコピー」が可能だっただけです。

1980年代は、ゲイコミュニティがエイズの媒介者として迫害される恐れがあったので、反動的に人権運動を活性化させており、彼らに関する出版物が飛躍的に増えたのです。当事者による誇り高き名著もあれば、共感的な作家が書いた社会派ミステリもあれば、ポルノグラフィを主とする雑誌もあり、医師による啓発書もあり、ライターとか文化人とか称するタイプのストレート男性による偏見だらけの自称解説書もありました。

また、映画界にはヴィスコンティ、パゾリーニ以来の蓄積があり、『アナザーカントリー』があり、『カラヴァッジォ』があり、『モーリス』その他(けっこうあるのです)があった以上、たとえ二十四年組がいなかったとしても、誰かが描く。

防ぎたければ「女は観るな」という他ないけれども、映画会社・劇場がそれを公式声明として発表することはできない。

男性は、そもそも視聴しないか、評論の仕事としてやむを得ず観たとしても「俺にゃ関係ねェ」と思う他ない。女流は当事者意識がないからこそ、同工異曲の作品を何本でも描いてしまう。ここ重要です。

当事者意識があれば残酷な作品は描けない。プライベートな心理を描いた自伝的作品なら面白半分の少女たちに読んでもらいたいとは思わない。読んだ挙句に「異常」とか「やばい」とか云われたいわけがない。

本当の当事者からはBLは生まれて来ないのです。少なくとも、それを読んだ挙句に新宿二丁目の人々をからかうという行動は生まれて来ない。

問題発言の含まれる作品は、非当事者である少女自身が一次または二次資料(先輩の作品)に接した感想が「異常」だったから、そのまま書いちゃった、というだけです。

じゃ、なぜ異常だと思いながら描くのか? ひと目見てきもち悪いと思ったのなら、視聴なり読書なりを中断して、見なかったことにすればいい。

それでも描くことを「カネのため」と云うなら、新宿二丁目は絶対に同人を許しません。これは肝に銘じておくといいです。

ここで「女が一人で生きていくのは大変なんだよ!? 協力するのが当たり前でしょ!?」と云うならば、彼らにとっては、勝手に同人になっておいて、勝手に押しかけて来て、急に説教する変なオバサンでしかありません。

同人が唯一彼らと合意できることは「暴力反対」だけです。

同人はもとより「ペンは剣よりも強し」で、ゲイも武闘派ではありません。だから実力行使・正面衝突ということにはならない。レインボーパレードがコミケに突入して「薄い本」を没収したということもない。機動隊に出動して頂くまでもありません。

積極策としても、消極策としても、できるのは、一線を引いて共存することだけです。

【7.硬派の少女漫画化】

二十四年組が描いたような男子校物語は、そのイメージモデルが洋画や翻訳小説として与えられたことはないので、日本の男性作家が書いた自伝小説の要素に西欧的な味つけを加えて美化したものです。

西欧では行間に落としこんだからこそ「クィア・リーディング」という技法が成り立つくらいで、宗教的≒市民道徳的に大問題とされる話題ですから、明示的に題材にする作家もおりませんで、1969年以前の映画には、その話題は一切なかったと云っていいでしょうし、「ストーンウォールの反乱後」の1970年代にも、映画にトランス的キャラクターが登場すれば「不気味な連中」という扱いでしたが……

日本では古い映画にも芝居の女形が登場し、美的なものとされておりましたし、「衆道」という伝統があって、戦前の男性作家が書いた時点で「硬派」と呼ばれ、男の友情の最高の形態として美化されており、タブー意識が低かったのです。

森鴎外も尾崎士郎も、本音では違和感を持っているんですけれども、だからといって「硬派」を差別してやった・攻撃してやったという思い出話ではなく、出版社としても、その話題が含まれているなら引き受けないというわけでもない。

じつは「異常」とも「禁断」とも思われていなかったからこそ、女流がイメージ利用することも可能だったのです。これくらいなら俺にも分かると思っちゃうストレート男性も結構いたのです。

ただし、具体的に何をやっているのか分からなかった。それがゲイコミュニティ側の情報公開によって過激化が可能になったというのが1980年代以降の現象で、またそうであるに過ぎません。

【8.血と薔薇族】

薔薇は西欧においては女性名詞ですし、シューベルトの歌曲(になったゲーテの詩)や『不思議の国のアリス』に例があるように、擬人化される時も女性です。

いっぽう、伊藤文学というストレート男性が、街角で密会する男たちを憐れんで、きれいな名前で呼んでやったというのが「薔薇族」で、これは日本独特の現象です。(雑誌の創刊は1971年7月。)

西欧でゲイボーイを意味するのは三色スミレ(パンジー)であり、色としては紫です。西欧のシンボル体系の中に薔薇が男色を象徴するという発想はありません。日本(少なくとも伊藤本人)において、薔薇が秘密を象徴すると思われていたので、独特の用法が生じたのです。

で、その言葉を知っていて、なおかつ「血と薔薇」をモチーフにした吸血鬼漫画を読むと、「美少年同士が薔薇の花とともに秘密の愛を交わしている」という連想もまた生じやすいわけで、薔薇が禁断の美少年(同士の愛)を象徴するというのも、日本独特の用法です。

ギリシャ神話には薔薇にまつわるエピソードはありませんし、アンドレセンも『ロッキーホラーショー』も『サテュリコン』も、1960年代における森茉莉の小説の登場人物さえも、べつに薔薇園に住んでいるという話ではありませんでしたね?

西欧のゲイコミュニティが日本のゲイ漫画を指す言葉は「Bara-manga」。彼らは「日本の仲間だけが自分のことを『Bara』という」と思っているのであって、自分たちのことを「Rose-pride」とは申しません。正解は「Rainbow-pride」です。

薔薇園にたたずむ美少年は禁断の愛の世界の住人であるという「イメージ」は、美少年と「血と薔薇」と『薔薇族』がゴチャ混ぜになったことによって、1970年代に生まれて来たもので、これは日本独特なのです。

これを最も有効利用したのが魔夜峰央だったろうと思われます。じつはその他の女流作品には、あまり「薔薇と美少年」というモチーフは登場しないのです。唯一登場するのが青池『イブの息子たち』(1975年連載開始)で、これは青池の作風からいって、わざと混同したのです。

図式化すると:薔薇族→血と薔薇→ヴァン・ローゼ族→ダイヤモンド輸出機構の美少年スパイ。

それは最初から、ストレート男性における勘違いを利用したジョークの一種であり、そのステレオタイプ化であり、コピーのコピーのコピーだったのです。ゲイに質問してみることなど何もありません。伊藤も青池も魔夜も、ストレートです。

この動きに同人を含めて考えても構いません。すでに同人(のほとんど)がトランスゲイではないことは証明済みです。

だから、ストレート女性の同人が、美少年と「血と薔薇」と『薔薇族』(とアニメキャラ)を混同し、その流行を察知したプロが自作に利用したという経緯は、おおいに考えられますが、本論の結果には影響しません。

すなわち、それはトランスゲイによる自己表現ではなく、ストレートによる創作技法です。だから(トランス)ゲイに質問することは何もないし、彼らから「リアリティがない」という理由で発禁を求められる筋合いもない。

ここまでで、1978年。これ以降の作品は、すべて「コピーのコピーのコピー」です。

ここで、ゲイコミュニティとしては「そもそも我々が密会しなければならないのは、ストレート社会が我々を差別するせいだから、秘密を意味する薔薇が同性愛を象徴するという用法も差別的であるので撤回されたい」と云うことができます。正しい主張です。実際に薔薇族という言葉は現在では殆んど使われなくなりました。

ただし、少年というのは性愛の対象にされるべきではありませんし、吸血鬼の犠牲になるべきでもありません。だから、まァ百歩譲って「薔薇が少年の不可侵性・少年趣味の禁忌性を象徴する」とは云えるかもしれません。

少年(のイメージ)を愛好する人々の胸の内にだけ、秘密の薔薇が咲いているのです。きれいに云ってみました。

ここまで、要するに「BLは男性の影響を受けて生まれて来た」という話です。

【9.百合の逆転の可能性】

歴史に「if」は無いとはよく云われますが、もし女性に男性の書いたものを全く読ませず、女教師によって裁縫と女流の和歌ばかり教えておいたら、それでもBLは生まれて来たか?

可能性はゼロではないのです。「私たちがお姉さまとのおつきあいを楽しんでいるように、男の子もお兄さまと恋文をやり取りしているに違いないわ」という逆転の発想は生まれ得る。そう考えると、強固な女性同士の連携と、男性への興味の両立も説明できるようです。

ただし、本当に女性同士で恋愛情緒を交換する一方で、男性の話題をタブー視するような女学校生活をエンジョイできている人からは、直接には生まれて来ない。とすると?

あくまで、男性への関心を共有する女性同士の「ガールズトーク」の一種として生まれて来るのです。その中で男性社会の裏側に関する「禁断の」情報が共有されたというのが本来の姿ですが、男性(による創作物)からの影響を一切排除して考えたいとすると?

自分自身には「エス」の相手がいなくて、「同級生の中に女同士で恋愛してるやつがいるので、からかってやるつもりで男同士に差し替えてやった」といったことになります。

この場合、BLは男性ホモソーシャルへの皮肉ではなく、女性ホモソーシャルへの皮肉ということになり、従来の学説は崩壊します。あらら。

そしてこの場合、お姉さまからお声がかからない程度の少女がBLに逃避するという残念な話になってしまいます。

【10.フェミっぽい同人】

上記の仮説は「自らの女性性に違和感があって、自分以外の女性をロールモデルとして受け入れることができず、女性キャラクターに感情移入できない子がBL派になる」という説との整合性は良いです。

女学校へ通いながらも、女性ホモソーシャルから落伍し、男に生まれれば良かったと思っている子からBLが生まれて来る。そういう伝統的な解釈によく合致します。

そして、そういう不遇な少女ばかり集まったのがコミケである。だから彼女たちは少女漫画が読めない・ふつうの女性ではない(トランスゲイである)という認識とも合致してしまいます。

そして、この説によれば「口唇愛期→同性愛→異性愛」という発展段階の途中で挫折して、異性愛に進化することができなかった(から「ノンセクシュアル」である)という主張が存在することも納得できるようです。

前提が間違っていても、間違いに気づかなければ、その前提に沿って立てられた仮説は、当然ながら全て正しいということになる。かつて、同人活動を「少女のホモソーシャル」と見た人々は、以上のような、それなりに一貫した論理を持っていたのです。

ただし、1970年代には、この発想はなかったのです。

なぜなら、プロの少女漫画と美少年漫画が同じ雑誌に掲載されていたからです。その中から「美少年漫画だけを選り分けて読む読者」という存在が認識され、そういう少女は特別におかしいという問題視が生まれたわけではなかったのです。

1980年代の吉田秋生、秋里和国などの作品も、少女漫画と一緒に少女向け雑誌に掲載されていましたね。

その後、1990年を境に「コミケ、アニメオタク」という存在が「犯罪者予備軍」という(間違った)イメージで報道されるようになりました。

ゲイコミュニティから「新宿二丁目の店で失礼な質問をする女性がいる」というクレーム文書が発せられたのが1994年。

「女性のアニメオタク」という存在が注目され、盛んに論じられるようになったのは1996年頃という声があります。とすると?

同人のイメージが悪くなっていた時代に、新宿二丁目で余計な騒ぎを起こした人がいたので、社会学者などが「そういう子は母親がトラウマになっているから仕方ないんですよ」と言い訳した、ということになります。

逆にいうと、余計な騒ぎを起こす人がいなければ、BLがトラウマやコンプレックスと結びつけられることはなかったのです。つまり、BLをトラウマと結びつけ、フェミのおもちゃにしてしまったのは、「トラウマ、トラウマ」と騒ぐ人自身です。

他人の話をすぐ真に受けて、「本当にそういうことってあるの!?」と騒ぐ人です。「新宿二丁目へ行って訊いてみなくちゃ! 女性の弱者特権だから、ゲイは答えてくれるはずよ!」と思っちゃう人自身です。

フェミっぽい同人が騒いだから、ゲイがマジで怒ったので、本物のフェミがしゃしゃり出て来たのです。つまり、妹が不始末をしでかしたので、お姉ちゃんが出てきたのです。

では改めて、フェミっぽい同人とは?

1980年代前半まで、同人界では「絶対に本物を怒らせるな。新宿二丁目へ行くな」という注意事項が共有されていました。当然ながら、フェミっぽい同人とは、それを知らない人です。

男女雇用機会均等法が改訂された1985年以降、女性の社会進出が本格化するとともに「積極的な女性」というイメージ利用が盛んになり、ワンレン・ボディコン・ハイレグ・アッシー・メッシーといった流行語が生まれた時代に……

「女の自由」の名のもとに、本来のサークルという形態を経由せずに、自分勝手にコミケ(を筆頭とする同人誌即売会)に個人参加し、最初から金目だの、もともとアニメファンではないなどと勝手なことばかり云った挙句に、編集部がかばってくれるというデマを広めた。

そういう人の、少なくとも一部が、1990年代に成人した途端に新宿二丁目へ乗り込んで、酒を飲んで騒いだのです。そして「フェミニズム」は、これを弁護したのです。

自分たちを含めて、そういう若い女性は、まだ1980年代に少女だった頃、母親の無理解に苦しめられたので、大人になりたがらないのは当然である、と。だから社会のルールを守れないのも当たり前であると。ゲイに謝る必要はないというわけです。

だから、このタイプの人は「フェミニズム」を目の仇にすることはできません。自分の口から「同人はフェミとは別よ。社会学っぽいBL批評はもうお断りよ」と云うことはできません。

まさにその「こういう漫画を読む少女は母親のトラウマに苦しめられている(だから罪に問わないでやってほしい)」というフェミニズム批評によって、すごく助けられているからです。

べつに、フェミならフェミでもいいのです。本気で弱者特権を主張して、ゲイバーに居座るなら、それはそれで確かにその女性の「表現の自由」です。

ゲイは暴力的な人々ではないので「強制排除」ということはしません。溜息をつきながら「仕方がない」と思っているだけです。女性自身も「ゲイに殴られる心配はない」と思って居座っているわけです。

ただ、だんだんにお店から本来のお客さんが減って行って、やがて完全閉店に至るというだけです。女性が自分の人権運動のつもりでゲイバーで頑張っても、ゲイからは愛されないし、感謝もされないというだけです。

【11.トラウマ目的論】

たとえばの話、テレビドラマの真似をして犯罪を起こす人がいたら、逮捕されるべきは脚本家ではありません。日本中の視聴者でもありません。実行犯です。

その人自身はトラウマのせいで精神に異常をきたしており、判断力を失っているのかもしれないが、他の人が全員「異常行動予備軍」とは限らない。

本当は、トラウマがあったからって、BLを読む必要も、同人になる必要もないのです。

男女の話がいやなら、天文学研究家になったっていい。誰からも揶揄されません。風景写真家になったっていい。SNSで人気者になれます。保育士になって大勢の子どもを育てたっていい。絵本作家になれば何十年間も印税を受け取ることができます。

にもかかわらず、自分から「私もトラウマ~~」って云っちゃう人はなんなんだ。

アドラーふうに云うと、本当は、たんにBLを読むことが楽しくて、やめたくないので、トラウマがあることにしていると考えたほうが良いでしょう。

この場合「べつにコンプレックスなんか無くたって、今どき誰でも普通にBLくらい読みますよ」って話にしちゃえば、トラウマだのコンプレックスだのを口実に新宿二丁目を騒がせるタイプはいなくなると思われます。

いっぽうに、本当に女性社会における人間関係の困難を抱えており、「もともと自分は女性ではない」と考えることに慰められるという人もあるので、この「女性自認が低い女性からの自然発生説」は、同人当事者・BL読者当事者にも受け入れられてしまうのです。

伝統的に(洋の東西南北を問わず)男尊女卑が根強いですから、男性が男性社会から落伍したからといって「俺も女になりたい」とか「女に生まれれば良かった」とは、なかなか云わないんですが、その逆はあり得るわけです。

「男に生まれていれば、女の苦労をせず、威張りながら楽に暮らせた」と思うわけです。

でも、あくまで憧れどまりだから、もし本当に男に生まれていれば、今度は男性社会の苛酷かつ具体的な暴力性に巻き込まれ、えらい苦労して、結局落伍する可能性のほうが高いということまでシミュレーションしてみないわけです。

とくに戦争に駆り出される心配の少ない戦後日本では、口先だけで「男はいいなァ」と云ってしまえるわけです。

【12.まとめ】

長々と論じてきたので、ここらでまとめましょう。

「薔薇が似合う(少女漫画チックな)美少年は、禁断の愛の世界に住んでいる」というのは、漫画家の頭の中で創られたイメージであり、完全なフィクションです。

それも萩尾望都自身ではなく、他の漫画家です。ここ重要です。ここに同人を含めてもいいです。(青池は『らぶり』を通じて同人界と交流があったと見ていいでしょう)

その発想元の一つになったのは「薔薇族」という言葉で、これはストレート男性による勘違いです。

アニパロとしてのBLというのは、その「薔薇が似(以下略)」という創作的定型に、他の作品のキャラクターを当てはめるという、パロディのパロディであり、当然ながら時系列的に最も後発です。

だから、それは完全に女流の自発であるということはできません。女流の先輩を通じて、必ず戦前の男性作品につながっています。だからこそ、現代の実在男性に質問することは何もありません。

それは、あえて例えれば、光速を超えて宇宙を航行する戦艦など現実には存在しないし、これからも建造されることはないだろうし、艦名以外に旧聯合艦隊の旗艦とは何の関わりもなく、江田島の卒業生に「ワープ」の質問をしても「知らない」と答えるだろうというのと同じです。

庶民のために悪い博徒を斬ってくれる良い博徒など、昔も今もこれからも存在しないというのと同じです。それらについて、NASAに問い合わせてみる必要もないし、暴力団事務所へインタビューに行く必要もありません。

でも「俺も見たよ。ビデオを全巻そろえてるよ」という本物さんがいる可能性はあります。JAXA職員の何人かは『ヤマト』のファンに違いありません。彼らは「こんなこともあろうかと!」という動画を見て大喜びしたことでしょう。何もかもみな懐かしい。だからといって、お仕事の邪魔をしてはいけません。

同様に、二十四年組漫画について、ゲイと語り合うということができる可能性はあります。ただし、彼ら自身のプライベートに踏み込むべきではありません。

女性に弱者特権があるかどうかは微妙です。ある点では女性のほうが依然として不利であり、ある点ではゲイのほうが憲法上でも民法上でも不利です。

また、新宿二丁目にいるのはゲイばかりではありません。レズビアンもトランス(性別違和)もいるし、その親御さんが加わっている可能性もあります。

若者の世話を焼こうと思ったら「うちの子に何か御用ですか?」と云われる可能性を覚悟しておきましょう。ストレート女性の被害者ブリッコを良い気持ちで見てくれる「当事者」は、一人もいないと思いましょう。

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