2013年12月、岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』ダイヤモンド社

  02, 2016 10:21
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副題:自己啓発の源流「アドラー」の教え。

声を荒げる必要はありません、一緒に考えましょう。(p.136)

約290ページ、A5ソフトカバー。2015年3月の時点で第24刷。「2014年 年間第1位 70万部 この一冊からアドラーブーム!」という帯が掛かっております。70万部……なかなか出なくなった数字ですね。

擬古文というのはよくありますけれども「擬訳文」というのがあるとは思いませんで、何度か表紙に戻って「書いたの日本人だよなァ」と確かめることを繰り返しました。

哲人は京都に住んでいるのだそうで、時々「この国では」と云っておりますから、あくまで日本人同士が会話しているという設定のようです。

哲人のほうは、それでも大人の男性らしい自然な日本語を用いておりますけれども、青年のほうはちょっと芝居がかっちゃっていて、翻訳劇の「くさみ」を感じるところではあります。

とはいえ、文章自体は平易ですから、時間的余裕さえあれば、一日で読了可能だと思われます。云ってることもむずかしくはないです。「トラウマは言い訳にすぎない」ということに気づいてしまえば、あとは連鎖的に引き出されてくる結論です。

が、トラウマというのは便利な概念であるというところがミソ。

おそらく「トラウマを明確に否定します」などの哲人の台詞だけを抜き出して並べたら、読む人は「このおっさん、いきなり何を云い出すんだ?」というふうに思うでしょう。

「あとがき」で岸見も云っている通り、この本の価値は、そのような読者代表として徹底的に「トラウマ原因論」にこだわり、自分自身を掘り下げる青年を登場させ、描ききったところにある。

古賀は聞き書きのプロですが、聞き書きのテクニックのみによって出来ることではなく、「先生のプラトンになりますッ」と云いきった彼には、相応の自負があったのでしょう。

何かにつけて顔色を変え、すぐ怒鳴り散らす人物を見て、観客のほうは冷静さを取り戻すというのは映画『12人の怒れる男』が最大限に駆使した技法でしたね。

もっとも、この青年が哲人の一言半句に反応し、きちんと理解した上で毎回律儀に奮然とする様子は(もちろん創作上のお約束なんですけれども)、だんだん可愛らしく感じられてくるわけでございまして、哲人も彼の来訪を楽しみにしていたのだろうなと思わされることです。

【曲解するほうが楽】

作中の青年は、親の期待に応える良い子である必要はないと云われると、悪いことをしなければならないと思い込んでしまう。

それは「不良らしい不良になる」という、誰のものとも知れない期待に応えようとしているのですね。他人の敷いたレールに乗るほうが楽だからです。

でも、アドラー(または岸見)の云うことは違いますね? 親の好まない職業を選んだ上で、自分自身の怠け心に打ち勝ち、技能を修得し、それによって世のため人のため役に立つ人になることが人生のタスクだ、というわけです。不良ごっこしている暇などないのです。

これは中世なら当たり前に理解されていたことのはずです。いまほど社会保障が充実していなかったから、子どもは必ず手に職をつけて独立しなければならなかった。親方を敬愛することは大事だけれども、いつまでも親方に依存してはいられない。

皮革を型に沿って裁断するのも、そのための道具を磨いておくのも、自分に与えられた課題です。「母親が悪夢に出てきたので仕事ができなかった」なんて言い訳しても、ぶん殴られるだけです。

アドラー(1870-1937)は、フロイト(1856-1939)と同時代を生きた人で、今ほど便利な社会に住んでいたわけではありませんが、すでに彼の時代に、プチ・ブルな若者における「大学は出たけれど」というモラトリアム問題が発生していたのでしょう。

(日本では二葉亭四迷が『浮雲』を書いていた頃かもしれません)

人間、誰しも保護者に育てられたことだけは疑いないから、社会に出た際の不都合を保護者のせいにするのが楽なのです。だからトラウマ原因論はなかなか克服されない。まさにそのほうが都合が良いのです。

「母親がトラウマだから~~」という人は、その母親から独立するために教員免許を取るということをしない。死に物狂いで漫画を描いてプロになるということをしない。

おそらくアドラーも、岸見も、古賀も、トラウマ原因論をふりかざす人に疲弊させられたのでしょう。あるいは、それは自分自身だったのかもしれません。

【わが良き友よ】

フロイトの時代には、強迫神経症の患者は天罰と見なされ、拘束着を着せられて精神病院の片隅で一生を終える可能性があった。彼はそこから患者を自由にしてやりたかったのです。決して、トラウマによって自縄自縛に陥らせるためではなかったのです。

病の原因が天罰ではなく、まさに対人関係によって生じた症状であり、奇跡を待つのではなく、人間の努力によって治癒が可能であることを証明したのです。人間のものを人間に返したのです。

でも、その後が良くなかった。世間が短絡したのです。話を本末転倒させ、トラウマを「イメージ利用」したのです。劣等感と劣等コンプレックスを混同したのです。その基盤は、もちろん言い訳を必要とする庶民の心です。アドラーは、そこを突いた。

とすると、アドラー自身はフロイトを尊敬していたはずです。世間に向かって「フロイトを利用するな。俺の友達はそんなことのために精神分析を創設したんじゃない」と云ってやりたかったはずです。

彼自身は「人間は無意識のうちに自分の得になるように計算している」と云っているのであって、もし、それが神霊による導きであればオカルトですが、そうではなく、無意識の存在そのものを最大の前提としているのです。

とすれば、アドラーにとって、自分の学説を成り立たせている最大の恩人は、フロイトなのです。

いっぽうで、フロイト自身が(橋本治が指摘したように)父親のトラウマに悩まされていたようですから、アドラーとしては「自分の足元を見てみろよ……」と云ってやりたかったのかもしれない。そして離れていった。彼自身がフロイトに依存しまいとしたのでしょう。

【大世俗化時代】

ところで、どうやらアドラーは、佐伯彰一と同じことを云っている。

神なき後の大世俗化時代・非行文化の時代に、すべての死者たちとの心のつながりを取り戻すことが、新たな倫理の創設につながる。

目指すところが同じなのです。「神は死んだ」と叫んで、アナーキズムに突っ走るのでは、神が死んだことを言い訳にしているだけです。

神が死んだからこそ、人間同士がどうあるべきか、人間が考えるのです。ヒューマニズムとは、日本では弱者のための福祉のように短絡されていますけれども、そもそも神を否定することなのです。

「神の眼にどう映るか」だけを気にしていた時代に別れを告げて、人間自身が「人間とは何か」と問い直す。

それは神によって土塊から作られたのではなく、蛇によって堕落したのではなく、かつて猿だったものであり、処女から救い主が生まれることはあり得ない。

かつ美しく、かつ気高く、性愛は人生の喜びの源であり、裸体は原罪の象徴ではなく、地球は廻っている。神の怒りは大気の放電に過ぎず、フライバイしたハヤブサは「こんなこともあろうかと」充分に準備した人間の努力によって還ってくると。

自然科学も、人文主義も、透視図法も、笑うことさえも、中世の敬虔なキリスト教徒にとっては恐るべき叛逆であり、不遜であり、犯罪だったのです。

でも、その勇気を(最初に)持つことのできたルネサンス期の巨人たちは、まさに「嫌われる勇気」を持っていたのでしょう。そして彼らはキリスト教的中世を飛び越えて、古典古代の哲人・芸術家たちと魂の交歓を持ったのです。

現代文明の礎を築いた巨人たちがユダヤ人だったのも、キリスト教というマジョリティから自由になりたかったからに違いありません。しかも彼らの生きた時代は帝国主義とアナーキズムの時代だった。

お国のために死ぬって良いことか? 明日の庶民の幸せのために今日の庶民を殺すってなんだ? 名誉ってなんだ? 他人から認められるってそんなに良いことか? 団結って必要か? 個人の生の意味ってなんだ?

この問いは、彼らにとって、現実逃避でもモラトリアムでもなく、まさに危急存亡を賭けた、生きるための闘いだったのです。

そして、確かに(ある程度の)人間は神から自由になった。そして行動指針を失くしたままなのです。誰しも「保護者に育てられた」ことだけは疑いないから、すべての不都合を保護者のせいにするのが楽なのです。

岸見は30代に入って子どもが生まれた頃に、アドラー心理学と出会ったとあります。子どもを持った人は、なんの役にも立たない赤ん坊が今日も元気だという、ただそれだけのことが嬉しいという、生きとし生ける存在そのもののありがたみを肌で知るのです。

だからこそ、母親のせいにする人は「お母さん大好き」と云っている。そう思えば泣けてくる。しかし一歩を踏み出さなければなりません。日本人の老後は、まだまだ長いからです。

最終的に知に到達できるかどうかは問題になりません。(p.292)

【内的革命】

生活環境の厳しい場所で、目上の人から嫌われ、コミュニティから排除され、食糧と燃料を分けてもらえなくなれば、個体と家族の死に直結する。

中東は、紀元前から杉の伐採が行われていたので、砂漠化が早かったのです。そこで生まれた宗教は、戒律がひじょうに厳しい。それに逆らうことは、具体的な死を意味する。

でも社会が変化し、食糧生産の効率が良くなり、流通が拡大し、都市が裕福になると「そこまでする必要ないんじゃね?」という見直しの気運が生まれる。ごく大雑把に云ってしまえば、これがルネサンス。

アドラーも、岸見も、医師または大学教員または文筆家として、名声と収入を得ており、相対的に便利な近代(現代)都市に住んで、いつでも常設市場やコンビニで買い物ができる。いまや千年の都もすっかり「文明化」されているのです。

逆にいえば、青年の云うとおり、上司に嫌われたら仕事をもらえない、一つの共同体に埋没する必要はないと云われても、こう不景気じゃ転職もできないという時には、アドラー理論は受け入れがたい。でも重要なことは、そういう時こそ気持ちの持ち方・発想の転換だよという点です。

「あの上司の機嫌を良くするため」ではなく、「社会全体に貢献するために働く」と考える。そのことによって実際の仕事は変わりません。ネジを回すだけだったり、キーボードを叩くだけだったりする。でも、それによって、どこか遠くで「便利になった」と喜んでいる人がいる。そう考える「だけ」です。

でも、その考え方を変える「だけ」のことが、云われないと分からないほど、現代人は捉われている。何に? 復讐心です。

実際の世の中には、まだまだ不幸を自慢することによって他人を支配しようとする人が多い。「俺がこれだけ頑張ってるんだから、お前も頑張れ」というわけです。職場の上司、お局さま、学校の先輩、父親、母親、姑。

重要なのは、彼らの存在を言い訳にして、自分が他人を傷つけない。自分をも傷つけないということです。

【諦める勇気】

第三者に向かって「あんたも苦労しなさいよ」というのでは虐待の連鎖です。自分自身が「当てつけのために死んでやる~~」と思う必要もない。

いやな上司に「どうすれば思い知らせてやれるか」と考えていたら一睡もできなかったというよりは、他人を変えることはできないと諦めて、音楽でも聴いたり、甘いものを食べたりして気分転換し、よく眠ったほうが明日の自分のためにいいですよ。

明日、いい仕事ができれば、それが第三者に認められて、いやな上司のいない職場へ転属になるというふうに、道が開けるかもしれない。でも、そのような奇跡を待つだけで、何もしなくて良いというわけではない。自分自身の「課題」は充分に果たすわけです。

いざ転属となったら、自分自身が努力したことが認められた以上、ほかの人に悪いと思う必要もない。「一緒に不幸なままでいてほしい」という他人の期待は、他人の課題。

当たり前っちゃ当たり前のことを云っているだけです。それが対人関係の悩みによって当たり前に進まないことを、元に戻そうとしている。

対人関係そのものではなく、対人関係の「悩み」です。自分の気持ちの持ち方しだいですよ、と云っている。これは、対人関係そのものが本当に問題であるという場合には通用しないのです。

すなわち、具体的に邪魔する人、材料や情報を供給してくれない等のいやがらせをする人、刃物を持った人に付きまとわれているという場合には、さすがに「気にしない気にしない」とか云ってる場合じゃない。

じゃなくて、自分の気持ちの持ち方を変えるだけで問題解決が可能なときに限って「じゃあ気持ちの持ち方を変えましょう」という話なのです。そこで「いや、変えたくない! ふくしゅうしてやるッ!」ってのは良くないよというのです。

空爆の被害を受けた子どもに人生の意義を説いても意味がない。一般論など存在しない。アドラー(または岸見)の云う通り、もともと適用できる人にだけ適用できるという、限定的な話なのです。

【敗戦国ルサンチマン】

「復讐してやる~~」という気持ちは、確かに甘美な陶酔をともなうのです。自分が強くなったような気がする。人生に目的ができたような気がする。目の前が明るくなったような気がする。瞋恚の赤黒い焔に照らされて。アドラー(たち)は、それを「倒錯」と呼ぶ。

耽美派のファンとしては、倒錯なんて言葉自体が魅力的ですが、それは創作の中の人の話。現実の精神を健全に保つための「ガス抜き」としてのみ、倒錯的な創作物も認められる。多くの創作家が楯にする理屈ですね。

でも現実において復讐をあきらめることは、痛みをともなうのです。「それじゃつまんない」と思ってしまうのです。だから、アドラー流は、日本においてはもう一つ広まらない。

なぜなら、個人のレベルで「目上の誰々が悪い。復讐してやる」と思うことは、民族・国家のレベルでいうと「欧米に戦争で負けたから仕方がない」という責任逃れとルサンチマンになるからです。

日本人は「どうせ」と思うことに慣れてしまっている。勉強したって意味ないじゃん、どうせ外人とまともに戦っても勝てないんだから(ずるいことをしても)仕方ないじゃん、みんなやってるじゃんと思うことに慣れてしまっている。

厄介なことに、日本人にとって「大きな共同体感覚を持つ」ということは、「どうせ」という敗戦国ルサンチマンを自分のものにするということなのです(!)

でも、そろそろそんな自分にも疲れて来たと思う人も増えたから、今ごろになって「アドラーブーム」なのです。

そう考えると、哲人が「千年の都」に住んでいることにも意味はあるのです。敗戦によって形成された戦後民主主義社会よりも、もっと大きな共同体感覚への回帰を象徴しているのです。草木国土悉皆成仏。それは縄文人を通じて、はるか大陸の奥地の三万年前の先祖にまでつながっているのかもしれません。

歴史や人類学を勉強する意味はここにあります。「いま、ここ」の意義を明らかにするために過去を知るのです。それが数万年前からの様々な偶然の積み重ねと変遷の結果であり、あまたの先祖の血が流された跡であり、そこに自分がいる。

それが他に替えがたい固有の価値であることを知った者は、自他を比較することをやめるのです。「いま、ここ」を生き始めるのです。

ただし、くりかえしますが「その歴史的変遷の結果がこの戦争と公害で穴ぼこだらけの国土ってどーゆーこっちゃ」と思う人に「ありがたいと思え」と云うことはできない。

アドラー=岸見の云うことは、もともとある程度恵まれている人が、それ以上欲しがらないということなのです。足るを知る。それはやっぱり、宗教なき大世俗化時代の新しい倫理なのです。

【出家】

本当に誰からも承認されないと、アドラーも岸見も古賀も、診察代や印税をもらうことができませんから、職業上の業績を承認される必要はあるのです。

でも「承認を求める心」が自己目的と化し、言い訳となり、倒錯となってしまった時には、要するに「百薬の長」のはずの酒を飲みすぎたみたいなもんだから、いったん断酒しなさいというのと、同じ話です。

だから、むずかしい理屈ではないのです。でも、ここで「諦めがつくためには、すでに充分に愛されたという記憶が必要だ」と云い出すと、愛が足りなかったアダルトチルドレンは立ち直ることができない決定論に陥ってしまうのです。

おそらくアドラーたちなら「それも諦めろ」という。愛されなかった過去は取り戻すことができないのです。それにこだわる自分を捨てろという。そう考えれば、恐ろしい学説です。

ここまで来ると、なんか出家するような気分になってくる。みずから救うために親子の縁さえ断捨離する。人生を仕切り直す。門をくぐったら振り返らない。

禅の修業は肉体的にハードなのだそうですけれども、おそらくそれも無駄な思考を削除するためなのです。断食によって生きるか死ぬかの瀬戸際まで追いつめられたとき、だれが昔話をしたいのか。

【分離する勇気】

子どもが登校拒否に陥ったとき、親の基本姿勢は「騒がない」ことなんだそうです。(参考:『娘が学校に行きません』2013年、野原広子)

だからって何もしなくていいわけではない。アドラー=岸見も「サポートしてやることは必要です」と云っている。本人の心が疲弊しただけなら、いつかは回復する。そのためにも栄養バランスの良い食事は必要です。明らかにイジメっ子がいるなら教員と相談する必要がある。教員に問題があるなら他の教員(校長など)に相談する必要がある。フリースクールを探すのも一つの方法かもしれません。

重要なのは子ども自身に向かって「早く、早く」と行動を求めないこと。それを云うなら子どものほうだって「お母さんこそ早く私のためにフリースクールを探して来てよ」と云いたいかもしれない。親には親のなすべきこと、大人にしか出来ないことがあるのです。それは子どもが手伝ってくれるわけではありません。

母親自身が「タスク」から逃避し、責任転嫁する人間である場合には、子どもがそれを見習って逃避的な人間になる。ここでそういう原因論を採ってしまうと、「うちはおばあちゃんもそういう人だったから仕方がない」で終わってしまう。解決方法がなくなる。ここで、アドラー=岸見が云うことは「分離しなさい」なわけです。

どの親も、自分自身の親に対して子どもです。判断を親に丸投げしたい。うちは実家の親も頼りにならない人だったから仕方がない、と思いたい。

でも、親が自分の親からも、子どもからも分離する。自分でスケジュール調整して「相談所へ行こう」と思う必要がある。実家に電話して「どうしよう」と泣いてもいい。親の親が健全なら、その心のサポートはしてくれる。でも職場に半休願いを出すのは自分です。

アドラー=岸見の云うことは「親のせいにすることを諦めなさい」なのです。親に責任転嫁し、親の口から「私のせいでごめんなさい」と云わせるという復讐の甘美な夢を諦めなさい、なのです。かなり、きついことを云っているのです。親を諦めろと云われたら、多くの人が分離不安を覚えるに決まっています。

親を恨んでいる限り、人生は親と二人三脚です。困った時には、いつでも「お母さんのせいだから」と、母の影に寄りかかることができる。「私じゃなくて、お母さんを逮捕してよ」と、母の陰に隠れることができる。

とても楽な人生です。母の影に支配されて苦しいと思っているのは自分だけです。その苦しそうな顔を他人に見せて、同情を引こうとすることも諦めなさいというのです。

そういう処世術しか知らずに生きて来た人が、愕然とするのは当然です。もう明日から、いや今日この瞬間から、どうしたらいいか分からなくなってしまう。足元が崩れ去ったような気がする。青年が怒鳴り散らす通りです。怖いのです。

逆にいえば、それが問題の根本です。一人になるのが怖い。だから「他者からの承認は必要ありません」なのです。

【やめる勇気】

じつは、本当に思いつめ、追い込まれた経験のある人は、この境地に自分から到達することがあるのです。ある日ふと、自分から「もう悩むことをやめよう」と思うのです。

自分以外の(血縁を含めた)他人に責任転嫁して、自分は世界で一番不幸だと思っている間は、ある意味、幸せなのです。自己陶酔しているから。

でも、本当にそのことに疲弊すると、糸が切れたように「もうやめよう」と思うことがあるのです。さまざまな依存症にとらわれる人々が、グループ療法などに参加するのも「もうやめよう」と思ったからですね。

おそらく、アドラーたちも「もうやめよう」と思うほどに悩んだのです。そのこと自体が「あなたは一人ではない」というメッセージになっているかと思います。

なお「共同体へのコミット」という点については、『就職の流儀』(2007年、越智 通勝)が同じことを云っておりまして、自分を成長させるために会社に入るのではダメなんだそうです。まず、会社をいかに成長させるか? 自分は会社に何を与えられるか? と考えるのが本当の就職活動なんだそうです。その「ギヴ」があって、後から「テイク」が戻ってくるのだそうです。

昔の人は「情けは人のためならず」と云いました。「お陰さまで」という言葉も知っていました。本音と建前の使い分けだって、自分の精神を健全に保つためと考えれば、偉大な知恵です。

先祖の知恵を大切に致しましょう。道なき道を切り開いた先輩たちを敬いましょう。お国の未来を思いましょう。しかも世界を見渡しましょう。しかも、個でありましょう。

誰かが、始めなければなりません。他の人が協力的でないとしても。(p.282)

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