1976年-1984年、竹宮恵子『風と木の詩』小学館

  07, 2016 10:20
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これこそ三島由紀夫に読ませたかった。論じている内に40周年を迎えてしまったなァと、ふと思い出したので、改めて述べておきます。

あの作品最大の評価ポイントは、全体の構成だと思われます。

まず巻頭言によって全体が回想録であることが示され、第一部序盤で第二部の主人公になる人物の存在が暗示された上で、第一部と第二部が時系列的に倒置しており、第三部を最後まで読んだところで、セルジュという若者が、その後の人生をまっとうして回想録を書いたことに読者が気づく。巻頭言へ戻る。

ロマン主義時代の教養小説を意識した、この大掛かりな額縁構造を、26歳の女流が構想し得たことがすごいのです。

しかも、主人公セルジュが有色人種でありながらフランスの貴族である。それは既成の秩序への諷刺を示している。

彼の両親が体現した、民族・階級対立の克服。パスカルというキャラクターが体現した個人主義(肝臓のアルコール処理能力で男らしさを測るなんてくだらない)、パットという少女キャラクターが体現した女性の自尊心。

すべてが「自由」を志向している。1970年代の26歳の極東の一女性であった作者自身が、戦前の男性陣が打ち立てた文学の構造を自家薬籠中のものとして、存分に使いこなしながら、全身で「もっと自由を!」と叫んでいる。

その対立概念として、階級的特権意識や男女の性差に寄りかかって卑怯な生き方をする男女をも、鮮やかに、忌憚なく描いているわけで、しかも服装・家具調度などの時代考証が正確である。描画も的確である。

読者各自が「いま自分がこれを構想できるか。表現し得るか。自分は26歳のときに何をしていたか」と考えたとき、その真価の大きさに気が遠くなる思いがされるほどのものでありましょう。

これを「女子ども」というなら、まさに恐るべき子どもだったのです。でも実際には子どもではありませんね。すでに実家を出て、スランプに悩みながら、一層の練達と名声を願う成人の漫画職人であり芸術家である人の野心と、たゆまぬ努力の結晶です。

途中、ちょっと乱れたようなところもあるのです。せっかくのオーギュストという名キャラクターが単なる作者にとって便利な悪役のようになってしまっている。おそらく連載の長期化にともなって作者に迷いが生じた。

まだ幼い少年二人だけでは、話がもたなかったのです。他のキャラクターを主人公にしたサブストーリーにすり替わってしまう。これは他の作者にも見られる現象ですね。

並行して、少女を主人公にした作品を描くことでギアを入れなおし、第三部に向かうことができたといったところかと思われます。

すべてを通して読まないことには理解できない物語なのです。まさに「ものがたり」の名にふさわしい長編なのです。その部分をあげつらうことは侮辱でしかない。まして奇妙なレッテルを貼るべきではない。パロディと混同するべきでは、断じてない。

本当は、連載当時を知っているベテラン同人たちは、まさにこの竹宮恵子と混同されては困る・迷惑がかかると思ったからこそ、自分たちが自虐したのです。

その意を汲むことができなかったのは、自分を「まだ少女だから大目に見てもらえる」と思うことによって甘やかすことに慣れてしまった人です。大学の先生だろうが、評論家だろうが、記者だろうが同じことです。

でも、男性に認められることによってしか女性がおとなになれないということはないはずです。他人の価値観を生きることをやめましょう。自分の眼で作品を確かめましょう。それが昨日の自分より、一歩前に出ることです。

これは、おとなによってこそ、充分に咀嚼されるべき傑作です。

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