大きな共同体感覚とは。

  13, 2016 10:22
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人間心理の中で最も卑しいのは、性的な想像をする心ではなく、自他を比較して優越感を得ようとする差別意識だと思っておくといいです。

実在児童や女性の虐待・性的被害というのも、加害者が自己満足のために他人(自分の子どもでも自分自身とは別の個体)の人権を利用したということですから、差別意識に還元することができます。つまり弱い者イジメです。

女性は腕力に乏しいので他人に具体的に「手を出す」ってことが少ないのですが、そのぶん精神的に自他を比較して、言論上のテロリズムみたいになることが多いといっていいでしょう。

学級・部活動・職場などの雰囲気を悪くさせ、協調性をそこなわせ、仕事を滞らせるのは、優越感を持ちたい人による陰口です。

あの子より私のほうがマシという優越感は、保障をほしがって、第三者を巻き込もうとします。あなたもそう思うでしょと同意を求め、どっちの味方につくのと選択を強要し、こっちの味方にならないと……と脅迫する。

そういうことをしていた人が、それを批判されると「だってみんなやってる」と言うのです。

【差別とは】

差別とは、AとBを区別することではありません。

赤い花に対して白い花。「どっちもきれいで嬉しいな」で済めば、白いほうが傷つくというトラブルは発生しないのです。

差別とは「赤い花は正しいが、赤くない花はきもち悪い」という気持ちです。

この「きもち悪さ」というのは、自分という個体の存続が脅かされるという危機意識によっています。根本的には生存競争なわけで、あっちが水・栄養分をゲットすれば、こっちは滅びるわけです。

自分と、自分に似た者(=遺伝子を共有するもの)だけが生き延びようとする心。これが奥底にあると思えばいいでしょう。

したがって、差別する心とは「Aと、Aではないものを区別し、自分の仲間ではないほうを排除しよう」という気持ちです。

たんに排除するなら「ガス室送り」ということですが、そこまでやっちゃいかんという気持ちがある時は、排除せずにおく代わりに「きもち悪い」という言葉で危機感を表明するわけです。

さらに「私のほうが、あの連中よりマシ」という優越感に転換することで、抑圧された危機感(に基づく攻撃欲)の補償にすることもあります。

【嫌われる勇気】

不景気な時には、民族主義が発生し、差別がきびしくなりやすい。二十世紀の教訓です。

似たような人で集まるというのは、血縁を擬態しているわけで、個体の生存確率を高めたいわけです。

そのグループ同士が(根本的には食べるものを奪い合って)互いに他を差別し、戦うので、逆に「仲間など必要ない」と思ってしまえば差別もなくなる道理です。個人心理学の要諦は、ここにあります。

「他人からの承認は必要ない」という個人心理学が、同時に(無機物まで含む)大きな共同体感覚の重要性を主張するのは、吉本隆明のいう「一万年もさかのぼれば島国の人も半島の人も大陸の人も大差ないよ」というのと同じ理屈です。

五億年さかのぼれば、みんなプランクトンだったとか、そういう話です。

これを、民族主義の吹き荒れる時代に主張するというのは、ものすごく勇気の要ることだったに違いないのです。

それを可能にしたのは、ウィーンという街の余裕だったのかもしれませんし、落ち目になりつつある帝国という、かつてのマジョリティの譲歩だったのかもしれませんし、周囲の動きに巻き込まれたくないという気持ちの表れだったのかもしれませんし、冷静な対応を呼びかけたい気持ちの表れだったのかもしれません。

【女性の社会進出】

女性は生物学的に(肉体の条件として)攻撃的にできていないので、どのみち攻撃性を満足させることはできない代わりに、服装・持ち物・交際相手など、本来は平和に基づく文化的産物であり、当事者同士の同意に基づく行動であって、他者との間に優劣がないはずのものをわざわざ比較して、自分の優越感を増長させるという傾向があるのかもしれません。

男女差別については「男も女も、それぞれの仕事を頑張っているので立派だな」で済めば、トラブルにはならないわけです。

「男ではないものには、男と同じ仕事はさせない」といった時、差別だということになるわけです。

「それ云っちゃいかん。男は黙っとれ」というのが、女性の弱者特権という考え方ですね。

逆に「女ではないものには、女と同じ仕事はさせない」というのが、ゲイに子育てはさせないという差別です。


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