村上隆のリトルボーイ論は克服されつつあると信じたい。

  15, 2016 10:20
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「シン・ゴジラとエヴァ」というキャンペーンイラストを見て「相変わらずファンの神経を逆撫でするのが得意だなァ」と変な感心を覚えつつ。

村上のリトルボーイ論は、日本のサブカルが「下手である、田舎くさい、洗練されていない、子どもっぽい」という点に掛かっているわけでございます。

子どもっぽいといっても無垢な童心が表現されているというのではなく、中途半端に「性」に関心を持ち始めた中学生が自己満足できるレベル。彼は、そういう自らの学説を証明するサンプルとして、等身大フィギュアを提出したわけで、眼の付けどころは良いのです。

日本の戦後民主主義文化を見ていけば、必ず「アメリカの核の傘の陰で、モラトリアム性とルサンチマンばかり肥大させている」といった概念が浮かんでくるものです。

だから彼の作った人物フィギュアは、わざとバランスの崩れた、稚拙な絵柄をイメージモデルにしている。あれらは、1980年代に本当にローティーンが同人活動を始めてしまった頃の、その絵柄の典型を抽出したものです。

だから、その後のサブカルの進化・多様化を知っている者からすると「いまさら間違ったステレオタイプを広めないでもらいたい」という苛立ち、誤解された・侮辱されたという気分を持つのは当然なのです。

……が、むろん村上はそこまで読んでいるし、欧米の美術ファンにとっても「織り込み」済みです。

日本政府は(勘違いして)上品ぶった大作アニメを海外に売り込もうとしたけれども、その陰には、女子どもまで一緒になって(下手なくせに)エロだのグロだのいうものを描いては闇取引するアンダーグラウンド市場が存在して来たことを、世界はちゃんと知っている。

それを芸大で勉強した者が諷刺したら、アングラ当事者が本気で怒ったと。そこまで含めて面白いパフォーマンスなわけです。

あれは、あくまで芸大で勉強した村上個人のセンス、世相を見抜く眼が芸術的として評価されたもので、日本のアニメが評価されたわけでもなければ、サブカルが評価されたわけでもない。等身大フィギュアという壊れやすい物・失敗しやすい物を具体化する技術力も、凡百の同人は身につけていないものです。

ただし、あくまで「日本のサブカルは下手である」ことに立脚している。

でも、ゲームがモーションキャプチャーというものを取り入れて以来、バランスの良い美しい人体を描くことのできるゲーム制作者・アニメーターが増えましたね。漫画家も、漫画同人でさえも、腕を上げています。

もし、日本のサブカルがアメリカの陰で永遠のモラトリアムをむさぼる畸形なら、それが優れた義肢を得て、なめらかに歩き出したようなものかもしれません。

自分自身が創作家・イラスト制作者などではないサブカル評論家たちは、自分にできる最上の方法でクレームしたのです。すなわち、言論の力で。

そのいっぽうで、表面的には黙っていたが、ひそかに「ふざけるな。今に見てろ」と思ったクリエイター達が大勢いたのかもしれません。



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