Misha's Casket

ARTICLE PAGE

『居酒屋兆治』再考。~残侠映画の夢の後。

ネタバレリーナに取りつかれないことには出来ないお話なので、未見の方はご注意ください。




腕力に乏しい女の復讐は、男の心に後悔と自責の念という重荷を背負わせることなのです。

そのためには言葉を刃物のように使うこともあるし、自らの命を投げ出すこともある。将来を思って酒をやめることはいつでも出来るわけですが、将来を諦めた者による緩慢な自殺である場合には、目的を遂げるまで、やめることはない。逆にそれが生きがいになってしまう。

生きがいといえば、井上造船は、それこそ新宿二丁目にでも辿り着けば舞台人としての人生があったかもしれない。『残菊物語』のように旅回りの小劇団に加わるということも出来たかもしれない。自分で旗揚げしてもよかったはずです。今でもそういう活動をしている役者さんは本当にいます。彼も女形がなかなかに決まっております。

でも造船所を継ぐことをハッキリ断ることも、家出することもできなかったわけですね。

カラオケそのものの普及期だったので、新しいものに触発されて「夢」を思い出してしまうということは、新しいものの普及期には必ず起こることなのかもしれません。いい中年がオンラインゲームに注ぎ込んだなんて話も想起されますね。あれも当然ながら、それまであんまり遊んだことのない人だったのでしょう。

また、生身の女性も40歳すぎた頃から「まだ若いと言えるうちに、もうひと花咲かせたい」と焦ってしまうことがあり、周囲を驚かせるような行動に出ることもあります。

いっぽう、いちばん自由に気楽に生きているかのように見える男は、野球の夢を諦めたあと、肉屋の婿養子。たぶん配達と御用聞き(まだあったでしょう)を担当して、街じゅうの人に頭をさげてまわっているのです。酒癖の悪い人も、函館の片隅で小さなタクシー会社を経営しているわけで、自分のほうが客から因縁つけられることも多いのでしょう。

いまより貧乏になることを恐れて、小さな町を飛び出していくことができないというのは、計算高い女の発想のようでもありますが、おおかたの庶民男性の真実の姿でもあります。

左とん平(の役)は、女に愛されない男の典型ですが、じつは男に愛されない男の典型でもある。映画俳優にはなれても、ヒーローにはなれない。じっさい、仁侠映画でも高倉・池部の陰には、その後も鳴かず飛ばずの「モブ」としての男優が大勢いたのです。

【仁侠映画とは】

仁侠映画を成り立たせる最大の要素である侠客というのは、たがやす畑を持っていない。親から受け継いだ漁船もない。人間社会が重層化・異質化した後で必然的に生じた、相続から弾かれた次男・三男以下。または親の代からして、残す物などない。

明治以来の日本は、国際政治に目覚めると同時に帝国主義の時代だったのと、たちまち植民地化されずにやっていける程度には産業革命の下地があったもんだから(江戸時代の間に国内市場が充実していたのです)、あとは兵隊を増やすだけだったので「産めよ増やせよ」が合言葉で、中絶は禁止されたのです。避妊の知識も道具も、まだない。

はじき出された半端な命。生きていく手段がないから博打でかせぐ。元手が尽きたら違う町へ移って「この土地の親分さんに顔を通す」ということをすれば、寝床と食事だけは提供してもらえる。それがなければ野たれ死にしていた命だから、親分さんに拾ってもらったも同じ。好きに使ってやっておくんなさいとなる。だから一宿一飯の恩義。渡世の義理。

女子は女子で、遊里に売られるのでなければ、産業戦士として紡績所の職工部隊に組織されていく様子が『日本侠客伝』でも描かれていましたね。

あの頃には半纏を着た侠客たちは、その監督官として見回りしていたわけですが、やがて『続 飛車角』の時代(昭和初期)になると、まとめて満州へ送られたわけです。自分自身が鉄道敷設の労働力として。

そもそも帝国主義の時代は医療の改革期でもあり、抗生物質(ペニシリン)の普及期でもあって、母体と幼児の死亡率が下がったので、各国とも食糧と燃料の不足に陥ったわけです。だから植民地を取りに出る。増えすぎた人口を維持あるいは消費するために「公共事業」が行われ、そのために人口を増やすという自転車操業だったのです。

任侠映画は、日露戦争・日中戦争の影にあった、もう一つの男の生き様あるいは死に様を描いている。堪えがたきを堪えた挙句に、最後は誰の命令でもなく自分の意地を通すのです。

じつは、ヒロイズムもロマンチシズムもなく、最前線で、あるいは演習中にバタバタと斃れる兵士であることに対するアンチテーゼ。だから同じように日本刀をふるう国粋主義のようでありながら、反権力・反保守派。笠原和夫の脚本に顕著ですね。

【後期戦中派】

1983年の庶民はどうかってェと、それこそ女のくさったのみてェにグズグズ言ってるわけです。男一匹、飛び出して行くことができない。

現場が機械化される前は、石炭流しでも、石炭を掘り出すほうでも、建設現場でも、流れ者を使ってくれるところがあった。まだ1960年代には「この土地の親分さんに顔を通す」という話が本当らしく思えた。そういう「イメージ」さえ成り立たなくなったのです。

1945年に20歳前後で復員してきた男たちが定年退職しつつあり、世の中は戦争を知らない子どもたちの次の世代が、あられもない姿で踊り出していた。

ちょうどその間にいた、終戦の時にはまだ子どもで、1950年代に青年期で、金の卵と呼ばれるには遅く、高度成長の波に乗るには早かった。どうにも恰好のつかない世代に、よくぞカメラを向けたという話なのでした。

思えば仁侠映画の背景にも、街を出て行けない庶民の生活は描かれていたわけで、マキノさんはそれを決して意識から追い出さずに、むしろ積極的に明るく撮ってやったけれども、降旗さんはあんまりやってこなかった。あくまで背景だったのです。

これはまさに高倉・池部の「ご一緒」道中のひっくり返しなわけで、これで監督にとっても観客にとっても、俳優にとってさえも、世界観のバランスが取れたのかもしれません。



Related Entries