自分を遠くから見てみる観想療法の陥穽。

  27, 2016 10:24
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自分自身の姿を、幽体離脱したようなつもりで遠くから見てみましょうというのは、内省とか内観とかいう精神的作業をイメージ化したものです。

哲学・論理学に慣れていない人々にも「自分で自分を分析する」ということを分かりやすくしたものです。

それによって、自分の姿が滑稽であることが分かったら、もう不適切行動をやめるということを期待しているのです。眺めて終わりにしては意味がないのです。が、ここで女性が陥りやすい陥穽があります。

「一人ぼっちでスマホを握りしめ、異常なツイートを流し続ける私って可哀想。誰のせいでこんなことになってしまったの?」

という自己憐憫と責任転嫁の気持ちを起こしてしまい、またその気持ちをツイートし続けるという悪循環を起こすのです。

すぐ責任転嫁するってことは、責任を取りたくないからですが、そのこと自体が「だって女の子だもん」というナルシシズムの満足に通じるのです。

「女性特有のナルシシズム」ってやつァまことに厄介で、「可哀想な私って可愛い」「自分を可哀想がっている私って可愛い」「責任転嫁したがる私って可愛い」「なにも出来ない私って可愛い」という自己満足に浸ってしまうのです。

弱々しくて、無責任で、グズでノロマな亀の私って、最高に可愛い~~!

何重にも自我を分離し、自分を客体視することを重ねても、結論が「可愛い」に落ちてしまうのですorz

もちろん、そのように育てられてきたからです。だから、このタイプが「母親がトラウマ」といっても、じつは本当に早くそういう母親から独立したいとは思っていなかった。それほど悲惨な家庭ではなかった。

むしろ、介入的なお母さんにほめてもらうために頑張るという共依存の状態にあったのです。だからこそ、困った時はお母さん頼み。

【劣等コンプレックス的ナルシシズム】

性自認というのは人間にとって重要なもので「男に生まれてよかった」または「女に生まれてよかった」と再確認することは、脳にとって最高の「快」になるのです。だからこそ、性別違和な人は不断に苦しんでいる。

「心は男」というつもりのBLファンは、時々「こんな私でもやっぱり女なんだわ」という自認を更新するために、わざと不適切行動を取って「女だから仕方がない」という劣等コンプレックスに浸ることがありますから、自分で注意しましょう。

お母さんのトラウマのせいではありません。あなた自身がそういう生き方を(愉しいから)選んでいるのです。

自分にもその可能性があると思ったら自戒してください。こういうことは「世界中にたった一人しかいない」ということはありません。さまざまな心理学・メソッドなどというものがある通り、多くの人が似たような症状で悩んでいるのです。

だから、気づいた人からやめるのがいいのです。

【直輸入の弊害】

世の中、子どもをやる気にさせる方法・部下の心をつかむテクニックなど、さまざまな啓発本・ハウツー本が出ていますが、翻訳書の場合、あらかた使えませんね?

「ふつう子どもに(または部下に)そんなこと言わないよ」ってなことばかり書いてある。急に言われたほうも、キョトンとするだけですね。

自分が求めていたのは「岸見アドラー学」だったのだと古賀が言ったように、何々分析・何々療法・何々心理学といったものは、海外由来の場合、生活習慣と発想の枠組み(言語の構造)そのものが違うので、そのままでは日本では通用しないということがあります。

それに気づかずに、心理学を応用した占いのようなものを丸暗記して「これを友達に試してみよう」と思っても、友達のほうは答えようがないということがあり得ます。

そこで「この問題に答えられないあなたは、まだ何々の準備ができていない」など、分析っぽいことを言われても、意味を成さない。

そういうことに分析する側のほうで気づく必要があるのです。たとえて言うと、専門家の話を子どもに分かるように言い直してやるテクニックみたいなものです。

「なにが分からないのか分かる」ためには、自分が依拠しているテクストそのものの批判が必要になります。それが西洋人の生活習慣に基づいていること、キリスト教徒に特有の発想であるといったことに気づく必要があります。

あえて引き合いに出せば、歴史学がマルクス主義に染まっているなんてことは、学説そのものを引用し続けているぶんには分からない。学説史を概観して「この時点から一斉に学者たちの言うことがおかしくなっている」と、一段高いところから、または流れの外から、気づく必要がある。

さらにいえば、そのマルクス主義そのものが、自分で口を極めて非難しているはずのキリスト教と同じ一神教の発想によって、レーニンの遺体を「聖遺物」にしてしまっているといったことは、日本人だからこそ気づくことができるはずなのに、日本人のマルクス主義者は気づいていない……ってな具合に、何重にも批判し、自分が同じ症状に陥っていないかどうか、確認する必要があるのです。

が、まさにそういうわけで、日本の学者・評論家が、自分は外人さんの言ったことを繰り返しているだけだということに気づかないということは結構あります。とくに1980年代から1990年代前半にかけて、海外の学説を翻訳紹介するだけで、日本では最高の学者という顔ができたのです。

そして勿論、その学説を新聞・雑誌の記者が利用し、読んだ素人読者が鵜呑みにして、友達に向かって試してみると。そういうことが繰り返されてきたのです。その中に浸かっていると、自分が何をしているのか分からないことがある。だからこそ、幽体離脱したような気持ちになって、自分自身が夢中で読み、信じ込んでいるテクストそのものを批判するのです。

自己啓発術の場合、アドラーの流れを汲んでいることが分かれば、必ずしも英語で書かれた質問一覧・ロールプレイング的対話例一覧を直訳して日本人に試してみる必要はないことが分かる。

重要なのは「自分を遠くから見てみよう」と思いつくことそのものです。つまり、我に返ることです。

「SNSを通じて、自分を棚に上げて、見も知らぬ他人に向かって『どうせ本物の彼女いないんでしょ?』と厭味を言ってるって、何やってんだろう、私?」と気づくことです。

こう言えば、日本語として自然ですね?

その必要に気づきもしない人は、やっぱりお題目を唱えているということになってしまう。専門用語を使いこなしているつもりで、自分自身がそれに振り回されてしまう。気をつけましょう。



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