2016/09/29

BLにも恩人がいます。

日本でウーマンリブ大会が開かれたのは1970年11月。三島由紀夫が市ヶ谷へ突入したのと同年同月です。

1971年8月には、不世出の美少年子役ビョルン・アンドレセンが映画『ベニスに死す』公開キャンペーンで来日してテレビ出演し、日本の女流漫画家たちに多大なインパクトを与えました。

1972年4月には川端康成が魂のトンネルを抜けて行きました。このとき、男性ナルシシズムに支えられた純文学上の「耽美」は死んだと云えるでしょう。萩尾望都『ポーの一族』の発表が始まったのは、この年の半ばです。

1973年以降は、オイルショック不況となりました。印刷用紙が不足し、漫画雑誌もページ数削減などの対応を余儀なくされました。ふつうに考えりゃ、読者の少なそうな漫画なんて新規に連載させてる場合じゃないです。

が、この時にあって「少女が主人公ではない少女漫画」という不思議なものの誌上公開が続々と許されたということは、出版社が女性パワーに賭けたのです。この当時の編集者も社長も男性です。

それを読んだ結果「目覚めて」、アニパロを描くようになったというなら、二次創作BLファンが「アメリカにも、ウーマンリブ運動にも、男性にも、なんの恩義もないわ」ということはできません。

出版社が二十四年組の原稿を「女のくせに」と一蹴していれば、その後の展開はなかったのです。実際に売れるかどうかは、売ってみるまで分からないのですから、公開前に決断を下してくれた男性陣には足を向けて寝られないというべきでしょう。

1961年までさかのぼっても、森茉莉の作品が世に出たのは、新潮社が通したからです。推薦文を書いたのは三島由紀夫でした。

この時点で、すでに女性だけで「ノヴェル・マーケット」が立ち上げられており、アニパロ小説がブームになっていたというなら立派なものです。

あなたはその時どこにいましたか? まだ生まれていませんでしたか? だったら、えらそうなことは云えません。

現在のBLの源流とされる有名な女流作品というのは、同人誌として流布したものではないのです。多くの人に影響を与え、同人活動を活発化させたものとして挙げられるのは、やはりプロ作品で、それは出版社を通っているのです。

しかも、成人女性による婦人運動・女権運動が盛んになった後に、BLの時代が来たのです。なにもないところから、とつぜん少女たちだけで始めたわけではありません。

同人活動の自治を主張したい気持ちは分かりますが、歴史を否定してはいけません。それはひじょうに危険な全体主義に通じる発想です。

多くの女性は、自分に政治的決定力があると思っていませんから、全体主義は危険といわれても、何が危険なのか分からない。

でも、何ごとも自分を基準に、自分の都合に合わせて世界のほうをねじ曲げようとする心は、周囲の敬遠を招き、自分自身を孤立させるのです。


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