1985年、湯浅赳男『文明の歴史人類学』新評論

  14, 2016 10:20
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副題:『アナール』・ブローデル・ウォーラーステイン

歴史はコミュニストの神学であることを止めなければならない。(p.286)

手元にあるのは1991年第5刷。このタイプの本で5刷なら売れたほうなのでしょう。

冒頭引用文は「1985年にまだこんなこと言ってたのか」と驚かされるくらいでしょうが、言ってたのです。川勝平太も1984年の本で似たようなことを言ってたわけですが、逆にいえば、風が吹き始める時というのがあるもので、この後5年たたない内に(少なくともコミュニストの)世界が激変したことは御承知の通りです。そうなってから改めて読む人が増えたのかもしれませんね。

まずは退廃したマルクス主義的歴史学をバッサリ斬って、返す刀で詰めの甘い『アナール』・ブローデル・ウォーラーステインを撫で斬りにする必殺・湯浅剣の残侠っぷりがなかなか爽快なわけですが、文章はまだるっこしいです。

そうです。副題に並ぶ綺羅星のごとき名前を賛美しつつ、その偉大な業績をやさしく紹介するという書ではございませんのです。ユーラシア大陸の東寄りに存在した帝国の個性を検証する一方で、西欧歴史学の偉人たちの足元が本人たちにとって懐かしき「ヨーロッパの城塞都市における市場」に浸かっているのを、サッと斬り払うのです。でも文章は(以下略)

311頁から始まる「小括」が、まとめ的内容なだけに文章も(比較的)スッキリしており、内容も「うっかり全文引用しそうになったけどそうもいかない」というほど濃いので、まずはここから読むといいです。

「いきなりすぎて意味が分からねェ!」と思ったら第二章へ戻りましょう。面白いのは第四章。白眉は第六章にあります。第一章は問題意識の前提となるマルクス主義的歴史学の迷走っぷりの概観ですから、……後回しでもいいです。

つまりウォーラーステイン万歳ではなく、じつはウィットフォーゲル親分の名誉回復を説く書であって、こういう「千万人といえども我ゆかん」みたいな論者は個人的に好きです。同時に、ジェーン・シュナイダーとシーダ・スコクポルを「女だてらによくやった」とほめる書でもあります。

ここでフェミニズムを持ち出さなくてもいいかというと、案外そうでもなく、「今まで男の人の眼が行き届かなかったところに眼をつける。男たちが遠慮して言わずにいたことを言ってやる」という対抗意識が良いほうへ作用すればいいのです。

根本的には、1953年に東大文学部仏文科を出た、新潟大学経済学部の教授(当時)が、語学力を活かしてフランス語と英語の論文を素で読んだ上、日本の書籍も渉猟して、学説史を解説してくれた概説書で、今なお若い研究者の導きになり得ると信じます。

単純に概説するだけじゃなくて、意地と懐疑と皮肉と含羞をにじませつつ、いちいち論駁してるので、構文そのものがややこしくなっちゃってるんですが、噛むほどに佐伯彰一の明朗さとはまた違った湯浅味の良さが沁みて参りますので頑張りましょう。

基本的に経済学者である湯浅自身が歴史学の再構築のために提案する「分析用具」は「権力財」という概念で、それが威力を発揮した東洋的専制国家が西欧に端を発する「近代世界システム」よりも遅れた社会の姿ではなく、いずれ近代世界システムに移行すべき仮の姿でもなく、独自の存在意義と歴史的発展の過去と未来を持つことを証明するために、ウィットフォーゲルを噛み砕き、引用することに筆を費やしたのでした。

それはやっぱり西欧歴史学への日本人研究家からの挑戦状という不適な面構えを持つものではあるのです。そしてまた「ロシア世界システム」を継承したソ連経済をも、神学的覆いを切り払って骨格だけにしてしまったあたりで、東欧に「春」が来たのでした。

よくよく考えると、ソ連経済がロシア世界システムに固有の性格を近現代に継承したもので、さらに中国経済も中華帝国システムに固有の性格を近現代に継承しただけなら、実際には社会主義を実現したのではないわけで、ほかの国で社会主義を実現しようとしても上手くいかない道理。

すなわち資本主義から社会主義へ移行することはないのです。神学崩壊。当方はスコクポルのように実証する手段を持ちませんが、湯浅の本書を読んだ限り、そういう結論になります。

映画の中には「革命が成功した国へ行ってみたい」という台詞もありましたが……。


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