Misha's Casket

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1977年10月、野村芳太郎『八つ墓村』松竹

八つ墓明神はお怒りじゃ!

原作:横溝正史(角川文庫版) 脚本:橋本忍 撮影:川又昂 美術:森田郷平 音楽:芥川也寸志

ロケハンの大勝利。撮影地は岩手県から沖縄まで。撮影期間1年余。上映時間約2時間半。ですが、市川昆の話法とは真逆というべきか、もうちょっと編集してもいいんじゃないかという部分もあるので、日本酒でも注ぎながら、おおらかに構えましょう。

1977年というと、20代の観客は戦後生まれ。とくに団地育ちは山林にも古民家にも懐かしさを持っていない。じつは晩婚化と少子化は戦時中から始まっており、親戚一堂が集まって大宴会を開くということにも実感がないという人は結構いたのです。

という「現代の」観客の心を、因習の残る山深い村に連れて行くために、帰郷の道程は20代の青年である主人公の視点から、時間をかけて描かれます。やや使いすぎ感のある芥川音楽が(いろんな意味で)不安な気分を高めます。

金田一役は渥美清で、まだ顔立ちに若さがあり、キリッとした表情もあって、なかなかにカッコいいです。麦わら帽子装備で、村の伝説を調べる民俗学者みたいな顔して登場。その後も丹念に足で調査する姿が示され、柳田以来の流行もあったのでしょうが、山村を物語の背景にすることの多かった横溝自身が日本の歴史・民俗に関心が深かったのでしょう。

が、名探偵ものの常として「これ、金田一さん要らないんじゃ……」と思われることもないことはなく、西村寿行なら主人公みずから、えらい目に遭いながら事件の全貌を明らかにするところです。

おとなの女たちが、みずからの解釈をつけ加えつつ、村の過去について延々と長台詞を述べるという知的な役回りを担当しているのが印象的で、そのぶん「探偵役がかぶってる」とも思われるわけです。

けれども、「なにも出来ない僕と女たち」という、後のアニメ作品に通じる世界観がすでにここで示されていると考えるのも一興かもしれません。

1973年頃に東映の「男を売る」路線がひと段落した後、こういう「女は怖い」という描写が急に増えたような気がするわけでございまして、ウーマンリブの時代に男たちが何を思ったかが暗示されているようですが、本作の翌年には西崎のヤマト(『愛の戦士たち』)が破格の記録を樹立して、宮崎駿も映画監督として活躍し始め、アニメと美少女の時代になるわけでございます。

中年女性が主役級の演技ができた、最初で最後の時代だったんじゃないかなって気も致します。

予告篇は原作者のインタビューになっておりまして、若い女性から電話をもらって「八つ墓村へ観光旅行に行きたいが、どこにあるのか」と問われたというエピソードが紹介されておりました。おそらく若い人どうしでドライブなど計画していたであろう、活発なギャルの様子が眼に浮かびます。

同じく予告篇には「『砂の器』のスタッフが描く新しい恐怖」とありますが、恐怖部分は歌舞伎以来の伝統的残酷フィクションで、特撮・特殊メイクの技術も1960年代と変わりませんから、おおらかな気持ちで拝見しましょう。ただし、たいへん丁寧で、熱がこもっていることは確かです。

俳優萌え的には、尼子衆の戦国出で立ちが素敵です。1977年現在の描写は、リアリズムも何も、実在古民家と実在鍾乳洞を使い、上述のようにホームビデオ撮りっぱなしに似た冗長さを感じるほどですから、フィクションにおける写実性・作り込みの追及という要素は、この落ち武者たちに傾注されているわけで、たいへん見事です。

冒頭だけ見ると時代劇みたいなわけですが、一転してジャンボジェット登場。これで「1977年現在なんだな」と分かる。もし鉄道だったら昭和初期の話と見分けがつかないので、うまい導入部だと思います。

呪いが実現される「現代」というのは、じつはいつでもいいわけで、あえて昭和初期を選んで二重のノスタルジーという手もありそうですが、今回は若い観客が最も感情移入しやすいところに絞ったのでしょう。

絞るといえば、たいへん遠いところから急激に絞り込むカメラワークが印象的です。カメラそのものの性能が上がったことによるのかな、と思いました。

犯人の動機を暗示する場面も序盤から映し出されており、ミステリの撮り方として反則という要素はないわけで、手堅い脚本ではありますが、時々「自分がとんでもないことを言っちまったことに気づかずに『帰らないで』という女には困る」とか、「いま正に帰ろうとしている人物にしがみついて『帰れ!』というお婆さんにも困る」とか「主人公に対して名乗ってもいない金田一がバス停で始める話じゃないだろう」とか、モニョる場面があって、ロマンスの表現も頂点に向けて上手に盛り上げたとは言いがたく、流れはあんまりきれいではありません。

金田一が捜査に加わった経緯も、大滝秀治を使って撮っておいて、切り貼りすることもできたはずで、ときどき絵が退屈になってしまっており、その代わり観光案内的には見事という要素を考えると、監督がたいへん真面目な実証主義・ドキュメンタリー路線で、あまり娯楽作品の作りには慣れていない方なのかもしれません。

【主人公と観客】

ここでは自分の運命と向き合う主人公が若い成人で、第三者として関わる探偵役が中年ですが、これらをすべて高校生(だった小学生)に演じさせているのが現代の漫画・アニメ作品。

欧米映画はスーパーマンが新聞記者な通りで、社会人が基本ですが、日本のアニメは宇宙の敵と戦うことも、探偵も、チャンバラも、17歳にやらせることになってるのです。

これに対して、ある程度以上の年齢に達した読者・視聴者が感情移入しにくい(くだらないと感じる)のは当然なのです。

くだらないと感じるのは、自分がのけ者にされたように思うからで、負け惜しみを言いたくなるのですね。

あえて例えれば、探偵役が外人さんで、悪い役はすべて日本人ということになっていたら、やっぱり日本人の観客は気分が良くない。

ここでBLの話もあれですが、あれは元々のアイディア源が戦前の男性が書いた純文学(自伝的教養小説)だったもので、男ばかり出てくる話を女性が感情移入しやすくなるように、わざとアレンジして描いているわけです。

つまり、創作物を面白く感じる基準は、やっぱり鑑賞者の自尊感情が満足されることなのです。

ということは、もし若い連中のアニメがくだらないと感じるようなら、中年男性が感情移入しやすいようにアレンジした新作を上梓すればいいわけで、今からでも遅くないので各位奮励努力しましょう。



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