他人の言論を封殺する権利があるつもりですか? ~過激同人が落ちる表現の自由の罠

  13, 2016 10:20
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世の中「ビジネスをジェンダー論で読み解くとどうなるか」という話が分からない人がいて困るのです。分からない人に限って、口を出したがるのです。

けれども、どんな社会現象でも、事物でも、フェミニズム批評的に論じることもできるし、経済効果を測定することもできるし、文化人類学的に位置づけることもできるし、自然科学的に論じることさえできるのです。

すなわち「BLの発生は生物学的必然性からは独立しているが、読んでいる間は大脳新皮質のこの部分をたいへん活性化させる」って。

切り口によって物の見え方が違うのは当然です。一つの基準だけを採用して、他の評価方法を切り捨てるというのは、たいへん危険な発想です。

それは「日本人が正しいといえば、外国人を排斥できる」という全体主義に通じる発想です。「私が正しいといえば、あの子をイジメてもいい」という学級・職場内権力闘争を正当化する発想です。「俺が正しいと思えば、施設を襲ってもいい」という犯罪者の発想です。

【他人の言論を封殺する権利があるつもり】

フェミニズム批評的に論じたい人には、その人の自由があります。

それに対して、同じフェミニズム批評の枠内で「男性中心主義への怨恨が表現されている部分は、23頁ではなく、53頁である」というなら、正しい反論です。

ただし、いずれも「私はそう読んだ」というだけの話ですから、それぞれに言いたいことを言った時点で終了です。どっちが正しいか、ひっかき合って決める必要はありません。ゼミ生がそれぞれ自分の意見に近いと思う教授を選んで、ついて行くだけです。

「経済効果からいうと、男性が青年誌を購読するよりも、女性がBLを購読するほうが効果的」と論じたい人には、その人の自由があります。

これに対して、数字を挙げて「いまや男性も購読している少女漫画が一番の有望株で、それに較べればBL市場は今なおニッチであるといえる」と反論するなら、正しい議論です。

数字を挙げれば、どちらが正しいかは見えやすくなります。ただし、データも読み方によって意味が違ってくるということがあって、これも結局のところ、それぞれに言いたいことを言った時点で終了です。

でも「この現象は経済としてのみ捉えることに決まっていて、ジェンダー論を適用することは私が許さない」というのは、お話にならないという以上に危険です。

自分になんの権限があるつもりで他人の言論の自由を侵害するのか?

ジェンダーという単語だけ知っていても意味がないのです。「同人やっていた」という人が、なぜ「表現の自由」ということが分かっていないのか? じつは、ここに過激表現派が落ちやすい陥穽があります。

【表現の自由の皮肉】

表現の自由とは、本来「政治運動する自由」です。すなわち、政治家を批判したり、戦争をやめろとか、革命を起こそうとか演説しても憲兵に引きずっていかれないということです。

けれども、「日本のサブカル」文脈における表現の自由とは、事実上、過激なものを正当化する魔法の呪文です。すると「BLにジェンダー論を適用することは私が許さない」とか言いだす変な人が生まれちゃうのです。どういうことか?

性的に厳しい躾を受けることの多い女性が、そのハードルを越えたことによって、もう何を言っても許されるという過剰な自信を持ってしまい、本来は「表現の多様性を尊重する」という話なのに、自分の我がままを言えば、それが通用すると思い込んじゃうのです。

もともとBLは(女性好みの)美少年&美青年&美少女という女流ユートピアを描いており、しかも女性キャラクターが社会の犠牲になる姿が描かれないために、女性に特権意識・全能感を保障するという機能があるわけです。

で、BLに軸足を置いた人は、他に対して批判的になりやすい。

女性がヒロインではないからこそ、読者をして、あらゆる苦役を免除されたお姫様気分にさせてしまうという逆説が仕込まれているわけですが、にもかかわらず「BL読者は女性キャラクターに感情移入できない」という偏見を自分で取り込んでしまうと、女性の自己満足的な姿を諷刺する作品に接することもないわけで、本当に自分に都合のよいBLしか読まないまま、(言論上の)爆弾かかえた中高年になってしまうということがあるのです。

つまり、弱者特権を勘違いするのです。

くり返しますが、たとえ多数決で「戦争賛成」と決まったとしても、少数の反対意見が弾圧されない・逮捕されないというのが本来の表現の自由です。多数決に勝つことはできない意見も尊重されるべきであるというのが弱者特権という考え方です。ポピュリズムに流れがちな民主主義の悪い側面に一定の歯止めをかけるものです。多数派に自分を振り返るきっかけを与えるものです。

本来、表現の自由と弱者特権は、民主主義の良心なのです。

が、それを逆手にとって権力意識を持ってしまう人もあるわけです。もう何を言っても許される・女の子だから大目に見てもらえると思ってしまう。

「わたしたちの文化においては、弱さは非常に強くて権力がある」(『嫌われる勇気』p.89)というわけです。

特権意識に浸ることは本人にとって気分がいいので、勘違いしたら勘違いしたままにするわけです。自分で自分の勘違いを正すために「女性の弱者特権とは本当にそういう意味かどうか?」と顧みることをしないのです。危険な状態です。

でも本当は、いったん「表現の自由」を守ると言ったからには(暴力の行使を示唆し、他人を脅迫するようなものでない限り)すべての表現の自由を支持しなければならないのです。

なぜなら、それは「誰かが恣意的な基準を持ってはいけない」ということだからです。BL女子(の一部)だけ天狗になって、他を断罪したり、差別したりできる気分になってしまってはいけないのです。


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