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仁侠映画とBLの構造的類似。

「いい男がいっぱい出てくる」という表面的な類似の話じゃないです。それは一目瞭然ですから、わざわざ指摘するのは、一見すると眼に見えない、構想過程における構造的類似です。

また、当方の使う「BL」という単語は便宜的な総称です。詳しくはカテゴリ「閲覧前注意」先頭記事に、用語の確認があります。さて。

まず、少女漫画を読めないからといって、BLを読む必要はありません。世の中には本当に性的な話題が苦手で、BLも読めないという女性がいます。創作物を読まずに評論文を読んで現実を研究したり、自然科学の実験に没頭したり、身よりのない子ども達のために料理や洗濯をして、毎日いそがしく暮らしている人もいるはずです。

「母親がトラウマになっているから、二次創作BLでカネもうけせざるを得なかったので、新宿二丁目へ来てしまった」という寝言は、ゲイには通用しません。彼らのほうが世の中を知っています。

【無意味ゆえの娯楽性】

女性にとって、男性同士の恋愛感情も、性交の詳細も、無意味です。知ったからといって、なんの役にも立たない。だからこそ、娯楽たり得る。

それはちょうど、映画観客の誰も本気で暴力団に殴りこもうと思っているわけではないのと同じです。鶴田や高倉の太刀さばきを何回観ても、なんの役にも立たない。ただちょっと見た目にカッコいいから、観た瞬間だけ「いいなァ」という情感が生まれるだけです。

それが自分の脳にとって「快」であると思っている人にとって快であるだけで、暴力映画だからきもち悪いと思う人にとっては、きもち悪いのです。

「BLをよく読んだ(または書いた)から同性愛に詳しい」と思い込んでゲイバーへ乗り込んでしまう人というのは、ゲイにしてみりゃ映画の真似をして日本刀をふり回す人と同じなだけです。

日常生活から遊離した、精神の飛躍。だからこそ現実に真似してはいけない。

ゲイにとっては同性を愛することも、性的関係を持つことも、自分自身の大切な現実だから、他人の暇つぶしの娯楽として利用されれば「軽んじられた」と思う。尊重されなかった・人権を無視されたと思うのです。

「べつに関係ないけど、ただちょっと話を聞いてみたいだけ」とか「見てるだけでいい」というのは、人権侵害たり得るのです。この配慮ができない人が「私も性的マイノリティよ」というのは困るのです。

【意味は後づけ】

「うちの隣りがゲイバーだった」とでもいうのでない限り、女性が日常生活の中で男同士の可能性に気づくことは殆んどないのです。

それが創作物として現れて来たのは、女流が成長する過程で戦前の男性作家の作品を(古代の伝説まで含めて、文学史上の必須教養として)読んでいるうちに「そういうこともあるんだ」と知ったからですね。

それは、最も根本的には、たんに新しい知識であることそのものによって面白く感じられるのです。その瞬間にきもち悪いと思わなかったならば、感情移入して「いない」からです。

もし女学校で変な遊びが行われているという話だったら「そんな学校に入学したくないわ」と思うはずなのです。それこそトラウマになってしまって、せっかく女学校に合格しても行きたくないと言うはずなのです。

そうじゃなくて旧制の男子校の話なら、自分にとって関係ないから、目新しさそのものによって、面白く感じられるのです。

で、知識をそのまま描けば「野暮ったい地方出身の若者と、坊主頭の下級生」というだけです。おそらく本物の同性志向男性であれば、それでご満足なのです。

とはいっても、それはもともと「明治時代の同性志向男性の実態をキンゼイ的に報告した」ということではなく、ストレート男性同士における逸脱行為の暴露ですね。鴎外自身は「都会の学校ではそういうこともあると知って、俺は本当に驚いた。できればそういう習慣は、もうやめにしてもらいたい」という気持ちですね。医師でもある人による冷静な記述です。

ゲイがそれを読んで興味深いと思ったなら、彼らも「ストレート男性をイメージ消費した」ということになる。ただし彼らは、おそらく書いてある通りにイメージする。

でも、それじゃ済まさなかったのが女流ですね。自分好みの(洋画に出てくる子役などを参考に)比較的女性的な容姿をもった若者を登場人物として構想し直したのです。しかも、そこには明らかに「男と女みたいね」という連想が働いている。

男同士の性愛という人間関係があり得ることを知って、それに女性が共感しやすいように、女性的な要素をつけ加えたのです。

それはちょうど、ばくち打ちという存在に映画監督が「庶民のために悪を討つヒーロー」という要素をつけ加えて撮影したのと同じです。監督自身も、スタッフも、俳優も、実際にはそんなヤクザは存在しないことを知っている。

『人生劇場』の時点では、あくまで侠客同士の縄張り争いであり、当事者同士の喧嘩出入りに過ぎないのです。そのままでは観客にとって「俺には関係のない世界」というだけなのです。違和感または疎外感を感じさせられるだけです。

でも、マキノ雅弘が「町じゅうの庶民から愛される若き親分」という要素をつけ加えた。

なんでその必要があったのか? 観客が時代劇にも無国籍にも食傷して、鞍馬天狗と多羅尾伴内の次のネタが必要だったからです。(たいへん大雑把に映画史を総括)

1970年代後半に女流漫画家の何人かが美少年路線に舵を切った時というのは、池田理代子『ベルサイユのばら』の大成功の陰で、もう何を描いたらいいか分からない時代だったのです。

ベルばらは、タカラヅカ舞台化がアントワネット篇とオスカル篇に分かれている通りで、お姫様ものでもあり、男装の美少女ものでもあり、人妻不倫ものでもあり、未婚成人女性の自由恋愛ものでもあり、その全ての到達点であり、金字塔なので、他の女流は困っちゃうのです。

1970年代初頭に竹宮・萩尾が美少年を描き始めた時も、水野英子・わたなべまさこが少女漫画の限界を突破した後だったのです。

若手が先達の逆を行くようなアイディアを出すのは当然でもあり、勇気の要ることでもあり、それ自体は創作上の意欲として、称賛されてよいことですね。

しかも1971年10月の時点で「いい歳したオッサンが金髪美少年を追っかけまわす」という映画が封切られたのですから、日本の女流の仕事としては、そのオッサンを妙齢の美男として構想し直すだけです。

そして、そこに男性のリアリズムではなく、女性ナルシシズムが満足する要素をつけ加えていったわけです。美少年が日増しに男らしくなっていくのではなく、日増しにか弱くなり、いよいよ周囲から執着され、愛され、永遠に記憶される。

描かれたものを素直に読めば分かるだけのことで、これがトランスゲイなわきゃないのです。だったら田亀源五郎を参考にして男らしい男を描けばいいだろってだけです。

田亀が登場して、それまで(内藤ルネなどによる)美少年趣味に偏っていた日本ゲイアート界を刷新したという説があるようですが、田亀が1985年頃に漫画家活動を始めるよりも前から、三島剛・林月光などがいたので、本当にトランスゲイとして、ゲイの世界を知ってりゃ可能なのです。

話を戻すと、つまり女流は「他から与えられた男同士という定型に、わざわざ女性ナルシシズムを付加して、女性が感情移入しやすい創作分野を新たに創出する」ってことをしたわけです。

1961年の森茉莉の時点では、おそらく本人が無意識的だった。新潮社も真実を見切れなかったから「男色小説」という分類を与えたのです。茉莉は怒ったそうですが、おそらく男色家を自認する御仁のほうも、ひそかに「一緒にするな」と思っておいでだったことでしょう。

竹宮恵子はもう少し意図的で「女性の内面表現」とか「女性キャラクターを少年に差しかえた」とか言うことができた。ただし女性の内面表現が、なぜ少年の形を取るのかを言うことができなかったから、後のトランスゲイ説につながって行ってしまったのです。

1970年代の雑誌編集者は、男色という言葉は使わないが禁断の愛であるって言ったのですね。この時点では「おとなが子どもに手を出して、悪い癖をつけてしまった(吸血鬼にしてしまった)」という話だったので、確かに禁断なのです。

でも、吸血鬼にされた少年が、どんどん容貌魁偉な怪物らしくなっていくのではなく美少年なまま。女役にされた少年が、どんどん肉体だけは男らしくなって「オカマちゃん」と呼ばれるようになるというのではなく美少年なまま。女流が「愛らしい」と観た存在を、そのまま定着させただけです。つまり自分自身の価値観を最大限に賛美した。

ナルシシズムと言われると「自分自身が美少年になりたがっている」と思う人も多いかもしれません。でもナルシシズムの表現は、それだけではない。たとえば茶碗や刀剣をコレクションして飾る人は、自分が茶碗になりたいんじゃなくて「俺ってセンスいいだろ」と自慢しているわけです。

女流に即して言うと「女みたいな美少年に目をつけた私ってセンスいいでしょ」と言っているのです。ゲイ側としては、百歩譲って「勝手にしろよ」です。

彼ら自身は(ストレート男性の好戦性と違って)武闘派ではないので、あまり直接「アヤつける」ってことはないけれども、女流がぼくらを分かってくれたと思って感謝していることは絶対にない。まれに「俺も美少年が好きだ」と思って読む人がいるというだけですね。

どこまでいっても、この女流と本物の間の深くて暗い川が埋まることはないし、えんやこら舟を出す人も、男性側からは、あまりありません。

【読者もいろいろ】

男性同士という定型を利用しながら女流ナルシシズムを強調した表現自体は創作上の工夫であり、それが無修正で出版できることは「表現の自由」です。同性志向男性から「俺たちの好みに合わせて、もっと男らしく描け」と言われる筋合いはないと言える。

それにどのような意味を見出すかは、また読者それぞれの自由です。

男性の肉体への好奇心が満足されるという価値しか見出さない人がいるかもしれない。「計算高い女心よりも男心のほうが純粋でいじらしい」と思って、情緒を感じる人がいるかもしれない。もしかしたら「きもち悪いからこそ面白い」と思う人もいるのかもしれない。時々「自分も同性志向男性だ」と思っちゃう人もいますね。

互いに他を駆逐せず、どれを取り上げても一定の真実であるという解釈は、すべて部分解釈なのです。不適切な感想であっても、その人自身がそう思っているということ自体は、嘘ではないわけです。

あえて例えれば、月面の陥没による陰影を見て「人間の顔みたい」と思うか「うさぎが餅つきしてる」と思うかの違いみたいなものです。どっちが正しいかで喧嘩しても虚しいのです。

統合的な説明があり得るとすれば「それぞれ勝手に自分の思い入れを自然現象に付加している」というだけです。

正確にいうと、月の陰が実際に餅ついてるように見えたんじゃなくて、月には兎が住んでいるという伝説があったので、うさぎのように見えることにしたという自己暗示の一種ですね。人間の横顔というのは擬人化の一種ですから、「蟹」というのが最も即物的な比喩なのかもしれません。

美少年ものに即していうと、母親のトラウマによってこういう物を読まざるを得ないと言った人があったから、自分もそんなような気になるという人が出てくるだけです。

それを俺らんところへ持ち込まれても……。今日も本物さんが溜息をついていなさるのかもしれません。できるだけ早いとこ、女性のほうで目を覚ましましょう。

はばかりながら、当方は当初から、これを言うために、女流表現はストレート男性の創作物から派生したものですと申し上げているのです。

すると、まさに新宿二丁目へ乗り込んで「トラウマ、トラウマ」と騒いでいる人がクレームしてくるので、世の中、変なところで「筋」は通っているのです。

(ダメなりに筋の通ったクレームできる人は、認知機能に根本的な障碍があるわけではないです。すなわち、頭がおかしいわけではないです)




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Misha

Author:Misha
スマホ時代にさからう評論系長文ブログ。冷静に通読できる大人の読者様を想定しています。

「若い人」に直接呼びかける文章は、18歳以上のヤングアダルト対象です。高校生は受験を最優先してください。

書く人は、新旧とりまぜて映画とアニメを見ながら文芸書に取りくんでみたり、昔の漫画を思い出したり、お国の先行きを心配したりしております。

記事中の色つき文字は、映画中の台詞・挿入歌からの引用です。あらすじは、あまり申しませんので、楽しみに御覧ください。取り上げる作品は、暴力・エロスなど特殊な要素を含んでいることもあります。

ときおり、耽美・BL・同人・LGBTに言及します。いずれの分野からも、偏見と差別と自虐がなくなるといいと思っております。

「二次創作の責任を二十四年組に押しつけるな」「実在同性愛者に甘えるな」が基調です。

全体として、二十四年組ファンが社会学者に物申すという珍しい構図。一部同人を叱責することによって全体を守るという意図もあり、ときにかなり辛口です。

記事は時々予告なく手直し・削除・分割しております。保存は個人的閲覧の範囲で、お早めに御随意に。転載・改変利用は固くお断り申し上げます。

解題


Casketとは、玉手箱。

でも検索すると棺桶がならびます。来世まで持っていきたい好きな作品の記録帳とご理解ください。