女は女のまま、男を女に見立てるのです。~現象を学説に合わせて歪曲しないBL論の試み

  13, 2016 10:23
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衝撃的な表題ですが、こう考えれば、BL(と呼ばれるようになった表現分野)に寄せられた疑問は、あらかた解決できるのです。

なぜ女性が主人公ではないのか? なぜ(二次創作BLは)女子マネージャーを素材にしないのか?

なぜ男性に憧れ、男性と同じスポーツがしたくて(二次創作)BLを描いているはずの人々の筆から、男性がどんどん女性化してしまい、スポーツせずに男役と女役に分かれて恋愛ばかりしているという表現が生まれて来るのか? だったら最初から女性を描けばいいじゃないか……

これに無理に答えようとすると「少女漫画に飽きたから」「少年漫画に出て来る少女キャラクターは可愛くないから」「男性中心社会が悪いから」……

と、対症療法的な理由づけがエスカレートして行き、しまいに「もともと女性には感情移入できない。だって心のゲイだもん」になってしまって、本物を激怒させるわけでございますね。

でも、竹宮や萩尾や栗本など、プロ創作家の場合は、上記の答えは当てはまりません。なぜなら彼女たちの作品には魅力的な女性キャラクターも登場するからです。

もし、いわゆる「アニパロ」には登場しないことを特に解析したいなら、プロの作品とは分類を異にして論じる必要があります。この意味でも、プロとパロを同じ名前で呼ぶことは不適切です。

(いかに1990年代の研究者が実際の作品にも当たらずに、お粗末な研究をしていたかが分かりますね)

【タブーではないもののタブー視】

混乱の原因は、1960年代以来、実際に女性が男性化していた。端的にはブルージーンズを着用して学生運動の先頭に立っていたので、評論家たちの念頭にも「女性が男性化したがっている(のは分かる)」という意識があった反面、男を女にするという発想自体がなかった。

逆にいえば、それほどの盲点を鋭く突いたのが、一部の女流創作家だったわけです。

でも本当は、日本では、それはタブーではないのです。江戸時代以来「大世俗化」していた日本では、宗教的タブーがないのです。まして女形の伝統があるのです。

舞台の上では性的描写まで踏み込まないが、漫画なら描けるというだけの違いで、男を女に見立て、女役を演じさせるという発想そのものはタブーではないのです。

だから、そこに思い至らなかったとしたら、評論家のほうが欧米由来の分析方法に首まで浸かっていたことを反省するといいのです。

また一方で、みずから評論家などによる疑問視に答えようとした女流たちが「男を女にするなどといえば余計にバッシングされてしまう」と思って自分の発言にブレーキをかけた。あるいはトランス説に逃避したなら、やはりここにあるのは男尊女卑のプレッシャーだったのです。だから「悲しい」のです。

トランスゲイなら悲しがってる場合じゃないのです。「なぜ俺たちが差別されなきゃならねェんだ!」と激怒するところなのです。

じゃなくて、女性が差別され、自分でその差別を受け入れてしまっているから、もの悲しいのです。それを男性が読んで「悲しい」といってしまえば、二重の欺瞞があることになるのです。気をつけましょう。

【BLの目的はBLです】

もし女性が男子になって一緒にスポーツやりたい(が出来ないので漫画を描いて補償にする)と思うなら、男性顔負けのスポーツ漫画を描くことが最大の喜びとなるはずです。

リトルリーグでもジュニアサッカーでもいいですから、ルールをよく調べて、その盲点を突くような戦術を考え出し、ふつうに少年漫画を描いて、男性読者から「女神降臨」と言われればいいのです。

それを「女のくせに」と言われたら、そのとき初めて「差別です!」と言えばいいのです。「女にだってサッカーが分かるんです!」って。

二次創作者が「男性漫画家が描いた女子マネージャーは可愛くない」と思うなら、可愛く描きなおせばいいだけのことです。男性キャラクターは耽美的に描きなおしてるんですから。

また男性社会に復讐してやりたいと思うなら、美少女戦士が悪い男をやっつける話を描けばいいだけのことです。

もし巨乳美少女には違和感あるというなら、スレンダーな女子を描けばいいです。スイーツ(笑)大好きのぽっちゃりさんが探偵として活躍し、えらそうな警察官の鼻を明かす話を描いたっていいです。

大勢の少女読者が勇気づけられ、単行本を買ってくれて、あなたの自立を支えてくれるでしょう。

もし「少女がいい人を見つけてお嫁さんになる」というプロットは欺瞞的だと思うなら、すなおにその気持ちを描けばいいだけです。

すでに1970年代後半に、女性が新聞記者や看護師として自立する漫画が描かれていたのですから、その後なかなか出世できないとか、育児との両立に苦労するとかいう続篇を描けばいいだけです。

そう考えると、竹宮恵子『風と木の詩』には、一つ決定的な欺瞞があって、オーギュストは女性に騙されたのだから、彼女より若い女性を自分の意のままに操るのが本当の復讐であるはずです。

そこで「少年に差し替えた」といえば説明になるようですが、なにもそんな無理をしなくても、少女が調教される物語を描いて、男性向けの雑誌に売り込めばいいだけです。プロも同人も食べて行くにはそれで困らないはずです。

そこで「女がこんなものを描くなんて」と言われたら、そのことを憤らなければなりません。でも実際には「少女の被虐物語を描かせてもらえないので、やむを得ず好きでもない少年を描いたので、つらい日々だった」ということではないはずです。

研究者たちがこの話題を取り沙汰したのは1980年代後半から2000年頃にかけてですが、いかにもお粗末なのです。議論になってないのです。

議論の当事者がBLに積極的な価値を認めておらず、なぜ少女たちがこんなものを喜ぶのか分からないと思っていたから、代償機能で説明することしか思いつかなかったのです。

【認めるところから始まります】

少女キャラクターの代用だと考えるから「でも少女漫画の少女は充分に自由なのに?」という疑問につながってしまうのです。

少女を少年に差し替えるというなら、少年が軍人になったり、パワーテニスプレイヤーになったりしなければならないはずです。なぜ恋愛描写に偏っているのか?

テニスプレイヤー少女に感情移入できない人のための代用品ではなく、「男性社会において女に見立てられる(ほどの)美少年」という存在にピンポイントに魅力を見出したと思えば何の疑問もないのです。

1970年代の女流が世界史上初めて「女性と少年を差し替えた」ということをしたのではなく、先にそれを実行していたのは、ストレート男性です。

逆にいえば、そのようなキャラクターに魅力を感じなければ「少女漫画の代用品だ」と言われて渡されても、読まないわけです。女みたいな男なんて違和感あるわというだけなのです。

魅力を感じて読む人にとっては、そういう少年キャラクターが存在する傍らで、活発な(ただし可愛くない)少女キャラクターがマネージャーや応援団長として頑張ってくれることは、別に構わないのです。彼女なりにいい相手を見つけようが、キャリアウーマンになろうが、好きにすればいいのです。

だって読者女性自身が高校を卒業したら好きに生きて行くつもりなんですから。1970年代以降の世の中で「高校を卒業すると同時に見合いさせられて、泣く泣く嫁に行くつもり」なんて子はいないんですから。父兄の注意を聞かず、彼氏のエスコートを受けず、「女の子」だけで(八つ墓村をはじめ)どんな観光地にも繰り出し、新作スイーツ(笑)を次々に試し、可愛い化粧品を買って、自由に生きていくつもりなんですから。

逆にいえば、同性の自由を応援することとは別の楽しみとして、美少年趣味が存在する余地があるのです。というか同性(=自分自身)の自由と権利を信じるからこそ、相対的に不幸な異性というモチーフを楽しむ余裕が生まれるのです。

もし、可愛くない同性の自由と権利を信じていないなら「こんな可愛くない子でさえ男に狙われる」という絶望を描き、社会変革を訴える物語が生まれてくるはずです。が、その必要はないのです。すでに女性の自由と権利を信じているからです。

だから、美少年に与えられるテーマは最初から性愛なのです。同じ雑誌に掲載されていた「少女がイジメ環境から善意の人によって救い出され、みずからの努力の甲斐あって自立する」という根性物語の差し替えではないのです。

哀れな少年が成人または上級生の(強引な)性愛の対象であることから卒業して、立派に成長していく物語ではないのです。柳沢吉保の出世物語ではないのです。

すでに1972年の時点で「男装の軍人」というキャラクターが成功していた以上、逆に料理や掃除や育児を男性キャラクターが担当するという発想があっても良かったのです。

男性も筋力自慢の人ばかりではないのですから、家庭教師や修道士として、子どもと一緒に花を育て、文字と礼儀作法を教え、科学者として自立させてやったという物語でもいいのです。

女性が革命を起こして大統領に就任し、その陰で男たちが平和的な活動に従事するなら、フェミニズム的ユートピアのはずです。

じゃなくて、実際に描かれたものは、女流自身の恣意的な選択によって、美少年に性的・愛玩的な役割だけを与えることだったのです。美少年を社会の再生産事業から切り離し、自分の愛玩物として、その成長を止めてしまうことだったのです。

このへんで男性がゾッとして、女性が「ロマンだわ」と思うなら、いずれも当然なのです。それは男性にとって強い被害者意識と忌避感を覚えさせる(女性の)意志であり、嗜好なのです。

だから(何回も言いますが)トランス男性がゾッとしないなら、そのほうがおかしいのです。

それは、要するに女性の恣意性の発露であり、女性上位表現の一種にすぎない。能動性キャラクターは女性の道具であり、鞭の一種である。

男性が銃の手入れをしたり、ナイフを研いだりするように、道具に愛着を持ち、磨きぬくのは当然です。銃身やナイフの柄に装飾を施すこともある。だから道具と言ったからといって価値をおとしめたことにはならない。攻めキャラクターのディテールにこだわるのは当然です。でも冷静に機能を分析すれば、道具です。

くり返しますが、女流自身が、女性に許された・期待されている・義務とされている様々な活動の中から、性的・愛玩的要素だけを美少年に与えたのです。それは女性の恣意性の表現であり、女性上位表現の一種なのです。だから女性を解放的な気分にさせ、強気な口調を生むこともあれば、礼儀知らずなハイテンションを生むこともある。

いっぽうで、ストレス解消になったと感じ、明日も仕事に行けると思うことができる人もある。大事な心の支えだと思う人もある。根本的に創作物の基本機能とは、現実逃避とストレス解消です。男性における暴力映画嗜好も同様です。当方のBL・同人論は「こういう具合に危険だから早く規制しろ」という話ではありません。「利点と欠点をわきまえて、適度に楽しみましょう」と呼び掛けるものです。

「酒は飲んでも飲まれるな」みたいなものです。

そこまで見切った上で、それをどうして少女向けに公開したのかと問うならば、当時の編集長に当たってみろというだけなのです。漫画家自身は成人していたんですから「成人の同好者に読んでもらうつもりで描きました」で済むのです。あとはそれを誰が「少女向け」と称して市場に流したのかという話なのです。

出版社は「ボツ」にすることも出来た。新時代の成人女性向けの雑誌を創刊することもできた。なぜそうしなかったのか? これに答えられるのは出版社だけです。

いい歳した学者や評論家が「だって私はお母さんがトラウマなんですもの」とか言っても意味がないのです。研究対象は自分自身ではないはずです。

調査フィールドを間違えた研究ってのは、お話にならんのです。



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