2016/10/20

タブー視と非タブー視の混同。~BLの構造と大学のフェミニスト

そもそもBLというのは、異なる価値観同士を組み合わせることによって生じたのです。どういうことか?

「戦前の海外の寄宿学校における、下級生を女に見立てた、青少年同士の逸脱行為」という創作物は、実際に日本の女流が海外の男性から体験談を聞きだし、それを基にドキュメンタリー漫画を仕上げたということではありませんね?

海外に関する知識と、同時代の日本ではそういう風習もあったという知識を組み合わせ、重ね合わせて構想されたものです。

それは言うまでもなく日本人が海外(なかんずく西欧)に憧れて、その歴史でも文学でも音楽でも風物でも貪欲に勉強し、摂取した結果であると同時に、確かに「デカンショで半年暮らし、あとの半年ァ寝て暮らす」という旧制男子校寄宿舎の自由・自治の気風に現代(1970年代当時)の女流たちが憧れたものでした。

その女流たち自身はどんな暮らしをしていたかというと、もう高校を卒業すると同時くらいから連載を抱える漫画家として、机に縛りつけられていたわけです。

それは「結婚を否定し、自立の道を確立してなお不自由である」という成人女性の心の叫びだったのです。

さかのぼって森茉莉はどうかというと、1960年代の世にあって、離婚後独居する中高年婦人という、決して余裕があるとはいえない生活の中で、古代希臘と現代フランス映画を重ね合わせたわけです。

そこにはやっぱり「おとなの男は自由がきく」という憧れがある。近代世界システムが地球を支配する過程で生じた「白人の男性が世界でいちばんえらい」という価値観への追随と憧れと怨嗟がある。(茉莉の美男作品は、いずれも後味の良いものではないですからね。)

ただし、外人さんが読めば「わが国の学生たちの間でこんなことがあるはずがない。日本人は勘違いしている」とか「失礼だ」って言うかもしれない。現代ゲイ・リヴ視座からすると「女性がぼくらを搾取している」って言うかもしれない。

実際に日本のゲイコミュニティから後者の指摘がなされた時、マルクス主義的フェミニスト達が一言もなかったことが示しているように、女流は完全に「その発想はなかった」のでした。

日本では、「衆道の契り」ということは、べつに奨励されていたわけでもないですけれども、少なくとも文芸の世界では、ひた隠しにされているというわけでもなく、日本人なら男女を問わず、教養があればあるほど、歴史や古典文学に詳しければ詳しいほど「そういうこともある」と、わきまえている。

BLとは、確かに日本国内においては(有閑マダムばかりでなく)若い女性がだいぶ自由になり、さまざまな学問に触れ、視野を広げた証なんだけれども、国際的には配慮も遠慮もなかった時代の産物なのです。

それはマジョリティの横暴ではなく、「私たちなんか誰からも相手にされていない」という、マイノリティ意識に基づいていたのです。そういう視野のせまさを、寺山修司などの成人男性から見ると「少女の内面」ということになったのでした。でも実際には、二十代に達した(三十代になんなんとする)成人女性が描いた・書いたものでしたね。

極東の島国の成人女性が、イギリスのハードロックや、アメリカの怪奇と幻想文学や、独仏の象徴主義詩人に憧れ、日本国内では「女だてらに」と言われるほど研鑽を積んでも、先方がこっちに関心を持ってくれることはあり得ない。エリオットやイェイツやポーを論じるケンブリッジやハーバードやスタンフォードの教授たちが日本の漫画を読むことは考えられない。

そういう、やる気と無力感の共存から生まれて来た、不思議な表現がBLであり、もっと言えば、日本の漫画文化そのものなのです。これが今なお「BLしか読めない女の子の弱者特権」という意識に通じているわけですね。

で、この「本来タブーとされている場所に、それをタブーとしない文化を持ち込んでしまう」という奇抜な組み合わせの発想を、そのまま繰り返すと、組織的ゲイフォビアで有名な海外の警察における恋愛物語や、同性愛を深甚な宗教的禁忌としている国(地域)における恋愛物語が日本の女流の筆から生まれてしまい、他からは「おかしい」とか「世の中を知らない」という批判が生まれることになるわけですね。ここまでがBLの本質論。

【フェミニストとの関係】

BLを弁護するのが、いわゆるフェミニストですが、大学というところは、じつは男尊女卑の牙城の一つなのです。

BLを論じたゼミ生・准教授といった比較的若手の女流研究者たちは「女が教授になることはタブーである」という世界に身を置いていて、その価値観に対して「あら、いいじゃない。私たちの価値観からすると、女が教授になることはタブーじゃないわ」って言いたいわけです。

そうです。BLの成立経緯と構造が似てるわけです。だから、自分ではBL漫画やライトノベルを描いてコミケに出展したことのない人々が「私たちのものです!」なんて叫ぶのです。

(できればもう少し研究して、プロとパロディと混同しない用語を創出してほしかったです)

ウーマンリブ大会が開催された1970年というのは、1960年代後半に吹き荒れた新左翼運動がひと段落ついて、大学に平和が戻り、大学進学率が急上昇した年なのです。しかも世代全体の人数は団塊に較べて格段に少ない。つまり相対的に多くの女子が大学へ進学したと考えることができる。

この人たちが「アラフォー」に達して、まさに教授昇進の壁にぶつかるのが、1980年代後半から1990年代。BLが男性社会に対する批判であるとか、皮肉であるとか称された頃に当たるわけです。本人たちとしては、BLを弁護することによって、当事者意識を味わっていたのです。

いっぽう、同人を自称する人々はどうかというと、べつに大学当局に殴り込みをかける必要はない。オリジナルBLであろうが、二次創作BLであろうが、好きに描けりゃいいだけのことで、読みたいほうとしても読めりゃいいわけです。

要するに規制されなければいい。規制されないために最も必要なのは、そもそも注目されないことですね。誰も存在さえ知らなければ、それを規制しようとも言わない。だから「フェミとは別」なのです。

BLを男性中心主義社会に対する女性中心主義革命として位置づけ、BL弁護を(自分の出世のための)マルクス主義的社会批判に利用する・話題をすり替える人々に対して、同人は自治権を主張したいわけです。

【そして新宿二丁目との関係】

「禁断の愛」の実質が、未成年者への暴力または未成年者同士の暴力である場合には、ゲイコミュニティにとっても禁断なのです。

「昔はそういうことが(ストレート男性によって)美化されていた」ということを女性が知って、知った通りに描いたわけです。それを初期には「耽美」と呼んだ。

「美にふける」と書いて耽美ですから、あんまり良い意味じゃないわけです。サドや潤一郎や鬼六やパゾリーニに使われる時のことを考えれば明らかで、たんに美人が出てきて、貴族階級の話で、地の文の言葉遣いが詩的というだけではない。冷静に考えると気分の悪くなるような性愛遊戯が描かれている。読者でさえも「うちの嫁さんがこんなオヤジに誘拐されたり、娘が同級生の男子にこんな悪戯するようじゃ困る」と言えてしまう。

そういう極端に空想的な趣味を表現した小説を、編集者が婉曲表現として「耽美派の一種」と呼んだのです。

1978年に『JUNE』が創刊された時も、物語の主人公が少年で、極端に空想的な趣味が表現され、それを少女読者に売ってやろうってんだから「禁断の愛」なのです。(なんで少女に売ってやることにしたのかについては出版社に訊きましょう。調査フィールドを間違えてはいけません)

が、ここで勘違いが起こった。主人公および読者の年齢にかかわらず「同性愛」であることを禁断と見る読者がいて、その価値観を新宿二丁目(に多いとされるゲイバー)へ持ち込んだわけです。で、面と向かって同性志向男性をからかったり、批判したりした。

だから、ゲイ側は「若い女に『同性愛は禁断だ』という偏見を植えつけるな」というクレームを発した。両方で勘違いしたわけです。

すると「禁断でなければいいんでしょ」というわけで、18歳以上の成人キャラクター(大学生など)同士の明るい未来を志向した物語が生まれた。それはそれでいいです。それ自体はゲイコミュニティにとっても悪い話じゃないです。

ただし、これによって尚さら現実のゲイの世界への関心が掻き立てられてしまう。しかも「禁断じゃない」という前提だから、二丁目探訪記を観光ガイドに仕立てて、一般女性の興味を煽るライターなども出てきてしまう始末となったわけです。

良し悪しです。露出によって権利が認められるようになったという点は確かにある。でも過渡期の混乱は、まだ続いている。

「タブーとされているところにタブーではないという意識を持ちこむ」という技法は、女性はお呼びでないはずの店に「いいじゃん別に」と言って居座る・余計な質問をしてまわるという態度をも生むわけです。

たぶん、ゲイ側が言うべき言葉は「禁断という言葉を使うな」ではなく、そっちの禁断の趣味と、こっちの健全な愛を混同するな、だったのです。

で、同人とその固定ファンはできるだけおとなしくしているつもりなのに、ゲイコミュニティからは「同人作品のせいで変な女が増えた」というクレームが発せられて、しかもそれがフェミニストのところへ行っちまって、三つ巴の大論争に発展するのですが、じつはこの論争に参加していないのが、実際に行ってしまった人なわけです。だから話がおかしなことになっている。

実際にお店で騒いだ人が若い成人(大学生など)だったのか、本当に少女(中高生)だったのかも確認されないまま、一部のフェミニストとメディアによって「少女は、少女は」という言説だけが流布されている。

でも現実問題を起こしてしまえば「表現の自由」では済まないのです。「女の子」が人権侵害したなら、尚のこと、厳しい再教育が必要なのです。なぜフェミニストが、ここに気づかなかったのか?

いい歳した自分自身を本気で「女の子」だと思っていたからです。それが「結婚していないから」という理由によるものなら、男性中心主義社会を批判する自分自身が「男性によって大人にしてもらう(=女は自分で自分を育てることができない)」という価値観に首まで浸かっていたのです。



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