Misha's Casket

ARTICLE PAGE

「男性中心主義社会を肯定しているのか、否定しているのか」じゃないです。

問題の立て方がおかしいです。どっちか決めることじゃないです。

もともとBL(と呼ばれるようになった表現分野)は、肉体としては大人の庇護を受けながら、口先だけ逆らってみたり、いたずらしてみたりするという子どもの感性を表現しているのです。

が、それを書いて発表したプロというのは、若い人でも成人していたのです。(例:1970年代初頭における二十四年組)

いいですか? こっから先が重要です。それは本当に子どもが始めたことではなく、成人女性の始めたことだったのに、実社会における男と女の関係が、少なくとも論じた人自身の意識の上で、大人と子どものアナロジーになっていたから、「女のやること=子どものやること」に見えてしまったのです。

でも、本当に女性が「ン十歳」になっても子どものままでいていいという意味ではないのです。従来、ここが混同されていたのです。

著作権侵害または人権侵害によって告訴されれば「じつはン十歳だけど、心は子どものままだから」といっても通用しないのです。

本気でそれを言うなら精神鑑定が必要です。措置入院ということになれば、事実として職業を失うでしょう。子どもの判断力しかない人に、おとなの仕事(とくにおカネの関係)をまかせることはできないからです。労働者の権利として職場復帰はあり得ますが、おそらく配置換えされる。そういうことでしかないのです。

1980年代に実際の少女として「二次創作BL」を流行させたのは、1967年から1974年に生まれた人々です。いちばん年上の1967年生まれが1980年に13歳。いちばん年下の1974年生まれが1989年に15歳。

この間に「我も我も」と晴海(昔のコミケ会場があった地名)へ向かったのです。世代全体から見れば、ほんの一部ですけれども、迎えるコミケ会場としては、予想外の行列ができるくらいには。

本来「コミック・マーケット」そのものは、名前の通り、オリジナル漫画を出展するところです。「トキワ荘」組に追いつけ追いこせというつもりでプロになりたかった漫画同人たちが、オイルショック不況で市販雑誌が廃刊されたり、ページ数が削減されたりするようになったので、相互扶助を目指したものです。もともとアニパロ小説を出品するところではなかったのです。

そこへ性的描写を含むアニパロ小説が出品されたのは、どう考えても最初のうちはジョークです。それも本物の漫画同人に見つかって叱られないようにやる必要があった。だから自虐したのです。自虐語を最初にコミケ会場に紹介したのはプロ漫画家の同人会です。最初は「そういう意味」ではありませんでした。アニパロ小説を書く人々が、勝手に流用して、自分たちの作品を示す単語にしてしまったのです。

1980年代になってから参加した少女たちは、それを鵜呑みにしました。最新流行だと思って、真似すること自体に夢中になりました。誰も本来の意味なんて考えてみませんでした。だから「少女漫画家になりたかった」と言いながら「栗本薫より売れていた」なんて言うのです。本当に漫画を描いていたなら、小説家と自分を較べる必要はないはずです。自分で自分が何をやっているのかさえ理解していなかったのです。

その子どもっぽさを今に至るまで引きずると、やっちまうのです。

2006年に「思想大全」とか称して、女性の同人活動を解説したつもりの書籍が発行されましたね。あの年は、1967年生まれの人が39歳になった年です。

だから「負け犬よりマシ」なんて言葉が出てくるのです。書いた本人が、40歳を目前にして、結婚していないことに焦りを感じ、言い訳する必要を感じてしまったのです。

【劣等コンプレックスと差別意識】

もう一回いいますが、コミックマーケットとは、その名の通り、漫画同人の集まりが本来の姿です。俳句・写真などの同人同様、独創作品の発表が基本です。最初から「アニパロ」の出展を意図したイベントではありません。

そこへ小説の形の「アニパロ」を書く人々が入り込むようになったのは、自分たちだけで「ノベル・マーケット」を立ち上げる手間を惜しんだからです。

それでも「自分では絵が下手だけど、アニメが好きだから、コスプレの上手な人や、キャラクターの似顔絵を上手に描ける漫画同人さんと合流したい」というなら愛嬌があります。

でも利潤動機だけで、漫画をコツコツ描く手間を惜しんで、文章の形で「エロ」だけを書いて出品していたという人は、最も簡便な手段を取ったわけです。つまり、楽してかせごうとしたわけです。

このタイプが優越感を感じたい時(=劣等感を克服したい時)にも、最も安直な手段を取ります。すなわち、弱い者イジメです。

自分よりも条件の不利な人を笑いものにする。昔日の勢いをなくした先輩を笑いものにする。他人に「レッテル」を貼って、差別する。

人間として一番やってはいけないことばかりやっておいて、そのことを自慢する。陰口を言う仲間が大勢いたことを自慢する。一人で責任を引き受けることさえできない。結局、現在のフォロワーさんを失くすのです。

2006年の思想大全(自称)も、インターネット掲示板に投稿された文章の無断転載という安直な内容と、「負け犬よりマシ」という競争意識・差別意識によって、上記のタイプの典型例と言えます。

じつは、あのライター(自称)は「同人誌とはアニパロです!」と書きながら、それを出展した経験のある人ではありません。お買い物しただけです。

つまり、自分でケント紙とGペンとアートナイフを用意して、漫画の枠線を引き、人物と背景を描いて、ベタを塗り、トーンを貼って、削って、ホワイト修整して、乾くのを待つということをしていない。

「同人誌」を購入したのは1980年代前半のことだったそうです。その当時なら、確かに「アニパロ同人誌」というのは実質的に文芸誌だったのです。

まだ漫画文化が今ほど社会的に高く評価されておらず、出版社が新人育成キットなども発売しておらず、ストーリー漫画をきちんと描ける技量を持った人が少なくて、アニパロというものが流行しているから自分もやってみようと思った人々が手がけたのは「小説またはポエム+イラスト数枚」という形態だったのです。

だから、その時代しか知らない人は「コミックマーケット」に集まる漫画同人の話をしているつもりで、インターネット掲示板に投稿された文章に注目してしまう。漫画と小説の混同にさえ気づかない程度で「ライター」を称して社会現象を解説できるつもりです。

実際の出展者の多くが「こんなやつと一緒にされたくない」と思ったことでしょう。

で、その程度の低いライターから出た「負け犬よりマシ」という言葉がもう一つのポイントで、負け犬ってのは、ある程度の年齢に達するまで結婚しなかった女性のことです。なぜ、それとアニパロ同人を較べる必要があるのか?

本人が(自分も同人の仲間だと思ってるわけですが)結婚をひじょうに気にしているからです。誰からも責められていないうちから言い訳してしまう。そのことによって、かえって「コンプレックス」を露呈してしまうわけです。

その劣等感を克服するために、負け犬というレッテルを利用して、他人を差別するわけですね。勝ったつもりです。実際には、人間の品性として、自分の負けです。本人が自分で自分を面白がって、笑いに紛らせようとしているだけに悲惨です。

【BLの弊害を自覚しましょう】

BLというのは、女性の悪い面を女性自身の眼から隠すという機能があります。まさに嫉妬によって足をひっぱり合う女性同士が描かれていないわけです。

そういう女性たちを描けば、そういう女性たちが物語の中心ということになる。『青い山脈』みたいにですね。でも、女性社会の真実を描かずに、男性社会に関する空想を描くのがBLです。

だから、女性が自分を客観視することを覚えず、他人をおとしめて優越感に浸る姿の滑稽さ・不適切さに気づかず、利いたふうなことをいって、全能感を持ってしまうという(社会的に)致命的な弊害があります。

さらに、これに対して男性から批判があると「男が女のやることを批判してはいけません」という弱者特権があるつもりなもんですから、歯止めがきかない。

でも、女性の中にも「同類だと思われたくない」と思う人がある。じつは、これこそ女性同人のサイレント・マジョリティです。だから同人やっていた(つもりの)人が、自分こそ女性代表として、同人代表として、周囲から頼りにされているつもりで孤立していく。

それに本人が気づくと「誰も私わかってくれない」と歌謡曲みたいな被害者意識を募らせて、いっそう非行少女ぶりっこに磨きをかけてしまう。親のせいで、男のせいでという劣等コンプレックス(=言い訳)ばかり増えていく。周囲が付き合いきれずに離れていく。いよいよ本人が孤立する。

負のスパイラルの根本は、本人の「ちょっとでも威張りたい心」です。すなわち劣等感を感じている心です。劣等感とは主観的な思い込みです。要するに、自分で自分を寂しくしてしまったのです。だから負のスパイラルのどん底で痙攣的に笑うのです。傷ついていない振りをしなければならないのです。

1990年代のフェミニストは「男性(の創作家)に女性の生き方を教えてもらう必要はない」といったようです。では、女性は自分で自分の悪いところをまっすぐに見つめ、それを矯正した上で創作物を適度にたしなみ、実在の他人には迷惑かけないということが出来ているのか?

自分で自分をわざと傷つけないということが出来ているのか? 注目を浴びるためにわざと悪いことをするという公開リストカットみたいな生き方を選ばないことが出来ているのか?

ロリ漫画を読んで幼女につきまとう男が悪いなら、BLを読んで実在男性の跡をつける女は悪くないのか?

これは「こういう連中だから早く規制しろ」という話ではありません。「BL鑑賞・同人活動にはこういう危険性があるから、よく自覚した上で楽しみましょう」という呼びかけです。

「酒は飲んでも飲まれるな」みたいなものです。逆にいえば、不適切行動がやまないなら、いずれ「規制しろ」という話が出てくるでしょう。そうです。あなた次第です。

【そろそろ更新しましょう】

1980年代の同人は、その一部が本当に子どもでした。それが「エロ」と「カネ」という大人びた要素に触れることによって興奮してしまい、いっぱし都会の「ワル」になったような気分を味わったのです。

それをまた、男性中心主義社会に対する女性中心主義革命のように称賛し、煽った人々もいたのです。

映画から分かることは、1980年代の男たちが「女の自由」の本質を冷たく見切っていたことです。それは露出的な不良少女がオッサン達に面白がられ、彼らのビジネスに取り込まれていくことでしかなかった。放課後の少女の「自由」を利用した秋元康の成功例は挙げるまでもありませんね。

主婦の自立したい・自分のおカネがほしいという気持ちも、パート労働として整備されていったのです。

だからこそ、価値観を混同し、撹乱することを狙っているかのような表現が面白がられたのです。BLを(革命を志向する)非行少女論に落とすのは、男の評論家にとっても、女の評論家にとっても都合がよかったのです。いまの若い人が引きずられる必要はありません。

そして女の自由が男のビジネスに取り込まれていったからこそ、男性中心主義社会が成熟して悪いところばかり目立つようになると女性中心主義社会へ「移行」するというマルクス主義的ユートピア待望意識は、本当にミレニアム(2000年)頃まで存続していたといえるでしょう。

1980年代・90年代を肌で知っている人は、自分でも気づかない内に染まっているということがあるので、頭ごなしに口先だけで「同人はフェミとは別よ」という前に、自分自身の言動を徹底的に洗ってみましょう。

すでに「同人誌」の多くが成人向けを自己申告しています。それはもう「女の子」の読むものではありません。わざと不良少女ごっこする必要はありません。プロレタリア革命ごっこする必要もありません。

「なめんなよ猫」は可愛いものですが、1980年代の悪いところをリアルでリバイバルしてはいけません。自分より若い人々が見ています。彼らは、マルクス主義を歴史の1ページとして相対化できる人々です。


Related Entries