Misha's Casket

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その劣等コンプレックスは必要ですか?

1970年代までの映画には、大東亜戦争または太平洋戦争への言及があったのです。「若い奴がみんな兵隊に取られて、組がバラバラになった」とか「親父が南方で死んだ後、お袋が一人で苦労した」みたいな話が出て来たのです。

けれども、1980年代に入ると、戦争への言及がなくなるのです。新左翼運動(学生運動)の記憶も薄れて、24時間戦えるジャパニーズビジネスマンによる貿易黒字時代が来ると、日本が負けたことに言及するのは国辱だという意識が芽生え始めたのです。

それと入れ違いに、おなじ日本人の中で、男性に対して女性が負けているという意識が強まったのです。1970年代のウーマンリブ運動によって「家庭に縛られない個人としての婦人」という意識が高まったあと、でも男のせいで活躍させてもらえないという怨嗟の意識が強まったのです。

【本当は女性に負けたのです】

じつは、男女平等だと思っている人ほど、劣等感に悩まされるのです。だって女のほうが体も小さいし、声も小さいし、だから男と同じ仕事をやらせてもらえないから、努力したって無駄だし、どうせ私のせいじゃないし……

という劣等コンプレックスになりやすいのです。平等の意味を勘違いしているのです。

本当は、存在の権利において平等だが、できる仕事は違うので、できる仕事を頑張ればいいのです。

BLは、その源流とされる作品群が、1970年代初頭に実家を出て上京し、女だけで暮らすことが認められた人々から生まれたことが示しているように、女性の自由がすでに充分に認められたことによって生まれてきたものです。少なくとも表面化したものです。

BLは自由の産物なのです。すでに自由な人が「もっと自由に!」と言っているのです。

それを男性中心社会に負けたせいだと言い訳する人は、じつは作家の才能がなかったか、漫画同人として努力が足りなかったので、女性のライバルに負けただけなのに、男性中心社会が私を傷つけたから努力できなかったというふうに話をすり替えているのです。

これは「私はそうは思わないわ」という人には関係のない話です。まさにその意識を自分の中に取り込んで、言い訳にしてしまっている人に向けた話だからです。

その劣等コンプレックスは、本当に貴女のためになっていますか?

男が社会を支配しているから仕方がない、男性中心社会の代理人である母親が私を理解してくれなかったから仕方がないと言い続けるよりも、新しいアニメを見て、新しい二次創作を書けばいいじゃないですか?

「アニパロ同人も、もともとはアニメが好きな人の集まりだ」という話を聞いていられず、「キャラ好きな奴なんて一人もいなかった。みんなエロだけが目的だった。原作やアニメのストーリーを気にして『話が違う』といって驚く奴らは遅れてる」と変な過去自慢をするなら、昔のエロ小説の登場人物名だけ差しかえれば、現代アニメの二次創作として通用します。

前島密によって整えられた郵便制度による通信販売はもちろん、アニメ関連ショップにおける委託販売も、知る限り、1980年代前半から利用できました。現在ではダウンロード販売・オンデマンド販売も利用できます。 

いや、人物名だけオリジナルに差し替えれば、プロデビューできるはずです。なぜ、そうしないのですか? 副収入が要らないのですか? 

なぜ言い訳ばかりしているのですか? ツイッターを閉じて新作に取りかかれば、廃人と呼ばれることもなくなりますよね? こういう話です。

【BLが自尊感情の補償なんじゃないのです】

「私は男性中心社会の被害者だからBLを読まざるを得ないんです!」って言った時点で、欠損した自尊感情が補償されるのです。

世間様に向かって不幸自慢し、注目を浴び、転倒した優越感を満足させた時点で補償されるのです。才能ある女性に負けた事実を、誰だか分からない男性一般に責任転嫁し、男から一本取ってやったと思うことによって、傷ついた自尊心が満足するのです。だから、この論法を取る人は、かならず自慢するために出てきます。

母親がああだった、父親がこうだった、男から何々と言われた……

逆にいえば、今まさに制作に取りくんでいる若い人々は「せっかく書いたのに、山も落ちもないなんて言われたくない」って言うのです。当然の権利であり、誇りです。

「どうせただのエロのくせに。あんた達も私と同じよ」と言ってしまう中年女性は、自分で自分を差別しているのです。だから若い人が「BLにエロは要らない。ポルノだと思われたくない」と抵抗するのです。

男性の偏見を中年女性みずから内面化してしまわないでください。中年女性の弱者ごっこにBLを利用しないでください。私たちは、もうこれ以上「コンプレックスだらけの可哀想な女の子」というイメージを背負わされたくありませんってね。

若い人のなかにも、自分で自分を可哀想と思うことに酔っている人もあるかもしれません。それはあるていど「楽」だからです。でもBLを読む子が可哀想なら、まずは自己改革のためにBLを読むことをやめましょう! 勇気を出しましょう! という話になってしまうのです。

自己満足ってのは、悪いイメージのついてしまっている言葉ですが、本来、それ自体は悪くないのです。読書によって満足感を得て、気分よく本を閉じ、就寝して、明日も仕事に行くことができるというのは大切なことです。

もし、BLを読んだことによって、すでに補償が得られ、自己満足できたなら、そのことについて、べつに言い訳しなくてよいのです。

なお、好意的な書評によって仲間を増やすのは前向きな作業です。それは言い訳することとは違います。

どんな本でも、一冊読めば、ボキャブラリーが増えたり、心の友となるキャラクターが増えたりするでしょう。その喜びを分かち合いたいというのは前向きです。ほかの人も「面白い本を紹介してくれてありがとう。続刊を楽しみに明日を生きる勇気が湧いてきました」って言ってくれるかもしれません。

けれども、過去を言い訳にしなくてよいのです。それは、単に自分自身をアピールしたいだけです。

【イメージモデルは複数です】

アドラーたちも実例から学説を帰納したわけですが、当方が具体例としてイメージしているのも複数です。ときどき似たような人を見かけるという話です。読者の皆様もそれぞれに身近な実例を思いつくだろうと思います。何故そうなるのか?

一度症例が報告されると、自分からそれに合わせる人が出てくるからです。患者として注目されたいからです。「可哀想なBL読者」というイメージに自分を合わせるために、わざと母親のトラウマを思い出し、不安と怒りの感情を捏造するのです。

常日頃から他人の価値観に合わせて生きる人です。すごく自己主張が強いように見えても、他人の価値観にしたがって、その枠の中で一番になろうとするので、本人の中には不満だらけです。

「これでいいのかな」という不安と、「もっと何かアピールしなくちゃ」という焦燥感で一杯です。そのくせ本当に自分にできることからは眼を背けているのです。なぜなら「注目されること」が自己目的になっているからです。

だから、アドラー(または岸見)が「他者から承認される必要などありません」と釘をさすのです。劣等感は本人の思い込みですというのです。

当方がこれだけ言えるのは、もちろん身をもって経験したからです。そして、おそらくアドラーも岸見も古賀も、似たような経験をして、呻吟したのです。

もともとが猿であって、社会的な動物である人間の多くにとって、承認欲求は、持って生まれた病のようなものなのです。だからこそ、それを自覚する必要があるのです。無意識に自分を甘やかすことをやめ、自分をも、他人をも、傷つけないように気をつけるのがいいのです。みんなちがって、みんないい。

(参考:『嫌われる勇気』p.132)


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