1945年5月、黒澤明『続 姿三四郎』東宝

  21, 2016 10:20
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僕は簡単明瞭なのが好きです。

製作:伊藤基彦 脚本:黒澤明 原作:富田常雄 撮影:伊藤武夫 美術:久保一雄 音楽:鈴木静一 助監督:宇佐美仁

嘉納さんちの講道館じゃなくて、矢野さんちの修道館。変わらないのが三四郎くんのいいところ。また藤田進のいいところ。

これこそ不器用な男で、黒澤に愛されたのじゃなかったら、とても俳優に向いていると言えるタイプじゃないはずなんですが、この真摯な実在感が得がたい。

お話は前回から続いておりまして、魅力的な新キャラクターを投入した続篇のお手本というべき展開。脚本は黒澤の一枚看板で流れがよく、名台詞いっぱいです。

お話が明治二十年で、製作が1945年なんですが、とくに冒頭の画質のせいで、明治二十年現在に撮影されたドキュメンタリーかと思っちゃいます。

「ワンシーン・ワンカット」的な場面が多いのは、カメラが一台しかなかったんだろうな……と思われます。が、「中ボス」戦からクライマックスにかけては、かなりの工夫が見られます。1945年という時点で、物語としても、技術としても、ギリギリな機材で日本の誇りを最大限に表現したのです。

大勢の外人俳優に19世紀のコスチュームプレイをさせているので、人集めの苦労など、裏方の奔走ぶりが偲ばれたりも致します。笑っている人の顔を大写しにすると風刺的になるという話法は、同時期の洋画では必ずしも使用されていないような気がします。

絵で説明するということの上手さでは、戦前から日本映画がピカ一で、これが後のストーリー漫画の隆盛にも通じたかと。

物語のほうは「他流をつぶしてまで柔道を究めることに何の意味があるのか」という勝者の自責の念と、敗者の怨嗟の念が強調されておりますが、両者ともそれに逃げ込まないのが真の強さであるという価値観が、後の作品群にまっすぐにつながっているかと思います。

道を知らず、人を知らず、世を知らぬ者は、怖いぞ。

月形の二役は、役作りに落差があって面白いです。お連れさんの笹をかついだ「物狂い」の表現が興味深いですね。この頃はまだ能楽によるステレオタイプが国民の中に生きていたのでしょう。

男の物狂いは例が少ないはずで、あの笹というのは、どちらかというと女性的なアイテム。女物の着物を身につけることにも関心があるようで、トランス的キャラクターのようです。

悪役の二人組が念者・念弟の関係を暗示しているのは洋画でも時々あることで、もともとは前作の悪役が恋敵(=ヘテロセクシュアル)だったことに対して属性の違う悪役として全く新たに創出されたのでしょうが、檜垣の弟に位置づけることで後味よくまとめたのだと思われます。

こういうのは監督の性的志向をどうこういう話ではなく、女優を彩りに使うのと同じことで、スタッフ・観客中の最大マジョリティであるストレート男性にとって違和感のある存在を敵役に使うと、アクセントになるわけです。

が、あんまり露骨にやっちゃうと、異性・同性志向双方の観客から(それぞれの立場で)クレーム来るので、暗示的にやることになってるのです。という話はおいといて……

とも言いきれなくて、つまり外人さんを含めて、これで一通りの敵はぶん投げたことになるわけで、あとは女相撲か熊でも出すしかないので、あまり娯楽的になる前にシリーズ化を止めたわけです。冴えた選択だったと思います。

逆にいえば、後発の作品では、それをやる他ないので「昔の映画に較べて、いまの映画・漫画はくだらない」といわれるのは仕方がないのです。やるほうも覚悟の上なのです。そういう時は「上手に真似できたね」とほめてやればいいのです。という話こそおいといて……

新しい門人が、だんだんふてぶてしい面構えになっていく表現は、残像を活かした映像的な見どころでもあるかと思われます。

果し合いに出る直前の、ほのぼの場面も魅力です。クライマックスは、どうやら本当に雪まみれのようで、リアリズム重視おそれ入ります。もうこの時点で黒澤流の要素が出そろっていたんだなと改めて思われることです。

音声が荒れてしまっており、フィルムの保存もよくはないですが、必見の価値があると思います。藤田のニコニコした顔に元気をもらえます。



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