Misha's Casket

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1970年12月、鶴田浩二『傷だらけの人生』

好いた惚れたは、もともと「こころ」が決めるもの。

作詞:藤田まさと 作曲・編曲:吉田正

1971年の映画のほうではなく、楽曲による記事です。任侠映画への言及を含みます。

この曲は、よく聞くと「ズンタッタ」のワルツのリズムになっており、考えようによっては、本来の曲調は明るいのです。つまり世相が西洋かぶれの三拍子に乗って浮かれ騒いでいる陰で、昔気質な男が自分流の替え歌を口ずさんでいる。そういうイメージ。

自嘲する心は批判的な心であり、自嘲とは社会諷刺でもあります。

じつは尾崎士郎による原作『人生劇場』というのは、そんなにカッコいい話ではないのです。「明治は遠くなりにけり」というセミドキュメンタリーで、尾崎自身による自嘲かつノスタルジーと、裏返しのプライド表現なのです。

すなわち、昔は羽振りのよかった旦那が歳を取って落ちぶれていく。吉良常も「仁吉の親戚」といっても、もはやそれによって誰からも尊敬されない。なんの特別サービスも受けられない。じつは本人がたいしたことをしていない。

飛車角の殴り込みも、たんにヤクザ者同士の意趣返しであって、堅気の衆は関係ないのです。だから「堅気を守り通すのが侠客の金看板」とか「俺は日本の侠客だ、嘘は言わん」とカッコいいことを言ったのは、鶴田だったのです。

実際の文言を書いたのは、もちろん脚本家なんですけれども、それを口にした時に言われた側が「うッ」と返す言葉に詰まるほどの説得力を持てたのが鶴田だったのです。

彼は幼少期に本当に貧しい生活を経験したそうで「世のなか不公平だ。上の人がもっとしっかりしてくれなきゃダメじゃないか」という気持ちが人一倍強かっただろうと思うのです。

彼が映画の中で「権力のある奴が若い衆を十把ひとからげに利用するのは許せない」といった台詞をいうとき、本当に声が震えてしまうのです。

じゃあ、そういうてめェはどうなんだというと、スタジオ入りの様子などはずいぶんと傲慢なものだったそうで、けれどもここで「人徳者でした」と言われちゃ面白くねェよなって気も致します。

そのいっぽうで、若い俳優・女優に胸を貸すという演技ができたことも、素人目にも映画を観ているだけで分かるように思われます。

高倉健は、たしかに『日本侠客伝』シリーズ、およびその他の作品の中で、かえってきた鶴田の兄貴の胸を借りて成長させてもらうという役どころを通じて、本当に役者として成長しましたね。

ついでのようですが『昭和残侠伝』における「残侠」とは誰だったかというと、風間重吉なのです。高倉演じる関東神津組五代目は、おそらく子どもの頃から丁稚奉公のように神津組に出入りして、四代目に可愛がられていたんだけれども、途中で軍隊入りしてしまって、あまり侠客の世界に思い入れがない。わりと簡単に「もう時代遅れだからやめよう」と言えてしまう。

高倉は、じつは高学歴な人で、他の作品でも観られるように「任侠の家の子が大学へ行って学問をつけて来たので、本当は足を洗いたい」という役がよく似合ったのです。

池部と高倉には実年齢で10歳以上の開きがあって、『残侠伝』一本目はその年齢差をすなおに活かしていたのです。日中戦争が始まる前に成人し、宇都宮の組の盃をもらって、江戸時代以来の「稼業仁義」の型もきちんと身につけ、神津組四代目とも同業者として話ができる。

そういう兄貴が人生の半ばをすぎて、自分自身が「身を固める」ということをする前に、妹を探し出したいから親分さんから暇をもらって来た、と。

神津組五代目のほうは、新興暴力団に押されて白刃の出入りということになってしまうけれども、殴り込みにあたって「親にもらった大事な膚を」と、まっさきにおっかさんを思い出してしまう。まだ若いのです。

そこへ、ひとまわり以上も年上の兄貴がついて来てくれるというから感動する。ところで鶴田のほうはっていうと、おそらく役者としての格とか待遇とか、そういうものに微妙なところがあって、高倉と一緒に殴り込み道中してないのです。

高倉が乗り込んだ頃には、鶴田が決着をつけた後だったという話が多かったですね。「花の小次郎」を演じた役者どうしだったわけでもあり、いわゆる「かぶって」いたのです。それを先輩・後輩として描くことで「筋」を通したのでした。

鶴田は灰汁の強い顔をしたヤクザ俳優・ギャング俳優の中では相対的に最も優男だった人で、体格も小さく、とても強そうには見えないんですけれども、眼と声がよく、気風が画面を支配していました。得物は多くのばあい匕首で、「小倉のカミソリ」の二つ名を持っていた作品もあった通り、小型の刃物で切れ味は鋭いというイメージだったと思います。



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