暴力BL小説を書いていた人が、「ツイッター廃人」と呼ばれるわけ。

  15, 2016 10:21
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まず、ツイッター廃人というのは、自虐・謙遜として言うことであって、他人から言われることではないです。

または「2ちゃんねる」の利用者が、ツイッターの流行に対抗意識をもって、2ちゃんねるの中において陰口として言うことであって、個人のアカウントに向かって直接言うことではないです。

それが他人から言われたのであれば、そもそも言われた本人が、そうとう他人に迷惑をかけていたのです。ただちに深く反省しましょう。べつに気分的に落ち込まなくていいんですが、言っていいことと悪いことの区別はつけるようにしましょう。

もう一回いいますが「あんたの発言は、本当に迷惑だからやめてくれ」と言われたのです。まず、そのことに気づきましょう。まっさきに必要なのは「でも私はツイッターが好きだから」という言い訳ではありません。気づくことです。

【リアル言葉責め】

パロディ同人活動する人は「訴えられなければ何やってもいい」という意識を持ってしまうことがあります。

とくにBL派の女性は「BLは男性中心社会の被害者である少女のものだ」という言説が存在するせいで、BL好きな人は実年齢で成人していても「女の子」と見なされ、何をやっても情状酌量してもらえるという不適切な意識を持ってしまっていることがあります。

さらに過激タイプのBLには、独特の危険性があります。

当方の同人・BL論は「だから早く規制しろ」という話ではありません。だから自分で気をつけましょうという呼びかけです。酒は飲んでも飲まれるな、みたいなものです。

では過激BLに特有の危険性とは?

社会性の未熟な未成年のうちから「加害者がネチネチした言葉責めを与えながら性的暴力を加えているうちに、被害者の心に愛が芽生えた」という種類のBLに親しんでしまった場合、現実の対人関係のロールモデルとして取り込んでしまうことがあるのです。

すなわち、キャラクターではなく自分自身が、現実の他人に対して厭味なこと・下品なことばかり言いながら付きまとっているうちに「おともだちになってもらえる」と勘違いする人になってしまうのです。

まして自分でも暴力BLを書いて同人誌即売会に出品し、よく売れたことが自信の源になっている場合は歯止めがききません。即売会以外の場所でも周囲の人々が自分の暴言を面白がって、ついて来てくれると勘違いしてしまいます。

が、じつは同人でさえついて来てくれないのです。

他の同人またはその固定ファンは、創作物の中で自らの攻撃性を消化・昇華することを知っておりますから、現実の人間に対して言葉の暴力をふるう人を見ると「きもち悪い、ついて行けない」と感じるものなのです。同人流のブラックジョークに慣れていない一般の人なら尚さらです。被害を受けたリア友などが離れていくのは当たり前です。

本人はウケることを言っているつもりなので、反撃を受けたり、ツイッター廃人と呼ばれたりする意味が分かりません。

だから「誰も本当の私わかってくれない」と歌謡曲みたいな被害妄想を強めてしまい、母親または男のせいでこうなったという言い訳の多い人になってしまうのです。

それを新宿二丁目へ持ち込んで、ゲイに同情してもらおうと思っても、通用するわきゃないのです。

【BLの弊害】

そもそもBLというのは、女流が女性社会の真実を描かずに、男性社会に関する空想を描くものです。

端的には、女性同士のイジメを描かずに、男性同士のパワハラを描くのです。それも男性の実感を無視して、女性にとっての御都合主義を描くものです。つまり、女性が読んだときにいい気分になれるようなことしか書いてないのです。

したがって、女性をたいへん高揚した陶酔的な気分にさせると同時に、自分自身の真実の姿を直視しないという逃避的人間性を助長する恐れがあります。

もともと、コミケ会場の外の一般社会において、自分を「女の子だから」といって甘やかしていた人が、たまさかに同級生から借りた二次創作BLに興奮してしまい、お小遣いにもなるという話を聞いて、さっそく「私も! 私も!」と大乗り気になってしまい、出品するほうに加わってしまう。学業を忘れ、将来の道を見失う。

いざ本当に実社会に出る時になって、すなわち就職活動する季節を迎えて「大学在学中は、勉強しないで他人の権利品を無断で利用していました♪」なんて言えないことに気づく。すると「同人にだまされた」とか「社会が悪い」とか責任転嫁する。

「母親のトラウマのせいで大人になれないアダルトチルドレンの『女の子』だから、社会のルールを理解できないのも仕方がない」と、利いたふうな理屈をどこかから引用して来る。それでもダメなら嘘をつく。

もちろん、そういう自分の滑稽さ・卑怯さに気づかない。言い訳すれば「うまくいく」と思っている。そういうことがあり得るのです。

くりかえしますが、当方の同人・BL論は「だから、さっさと規制しろ」という話ではありません。「だから自分で気をつけましょう」という呼びかけです。酒は飲んでも飲まれるな、パチンコは適度に楽しむ娯楽です、みたいなものです。

BLは、あくまで一時的な気晴らしであり、「おはなし」に過ぎないことを理解できる人のもので、基本的には1960年代以来、成人のものです。

それを1970年代の出版社が、オイルショック不況下の切り札として少女向け雑誌に載せたので「少女のものだ」という誤解が生じてしまっただけです。いまだにそういう現実を直視し、不適切なフェミニズム的言説を克服することができない人が、たまにいるのです。

1980年代の「フェミニズム」というのは、新左翼運動が衰退するのと入れ違いに盛んになったもので、後者の「プロレタリアートの名において」老幼を巻き込む爆弾事件・誘拐事件を起こすという責任転嫁的体質を、そのまま受け継いでしまっているという要素があります。

そして1980年代に「同人やっていた」少女というのは、ほんとうに「もう男に遠慮するな」なんて言っていたもので、フェミニスト気取りだったのです。したがって、あくまで自分の好みでBLを選び、自分の判断で出品するようになったくせに「社会が悪い」と責任転嫁する論法も受け継いでしまっているのです。

40代以下の若い女性が、それをまた受け継いでしまっていることもあるので、じゅうぶんに自戒してください。ひらたく言うと、流行遅れです。

【BLの真実】

BLの基盤にあるのは、太平洋戦争終結までの貴族社会・武士社会・寄宿制学校などにおけるストレート男性間のパワハラです。

男性が自分でそれについて「俺は都会の学校へ入学したら、こういう経験をしたので、たいへんビックリした」といったことを書いたのを、戦後の女性が読んで、創作の土台にしたのです。

BLの説明として「女性を少年に差し替えた」というのがありますが、それを女流が描くよりも先に、実際にやっていたのがストレート男性です。美少年がホモになりやすいのではありません。年長のストレート男性が、女の代わりがほしかったので、目下の者のなかから女っぽい顔をしている者だけを選んで「美少年」と呼んでもてはやし、利用したのです。

学校の上級生たちも親元を離れてきておりますから、無制限な自由の感覚と、性的満足と、女郎遊びほど元手がかからないという一石三鳥を狙った結果にすぎません。

で、それを「念弟の情け」と呼んで美化したのです。年下のほうが喜んで迎え入れてくれた・下級生の心に真実の愛が芽生えたと言ったのです。つまり加害者が責任逃れしたのです。

稲垣足穂『少年愛の美学』は、そのような美化の事例の集大成です。それはそれで「男のロマン」と呼んでやってもいいです。

では美化されない実態はどうだったか? 森鴎外『ヴィタ・セクスアリス』において、下級生が逃げ出して女性のもとに身を寄せた通りで、いやがっていたのです。

その時点で下級生が同性志向を示していたから差別されたのではなく、ストレート自認なのに女性的な顔をしていたから女役に抜擢されただけであって、本人にとっては迷惑なのです。

風習として受け継がれていれば、本来の志向・嗜好にかかわらず「やってしまう」というのが人間で、日本の村落共同体にも男子の成人儀式として性的な集会の風習があるところがあったんですが、文明開化とともに廃れました。

これは女性における鉄漿・纏足などと同じで、本人たちにとって嫌なことだったからです。

それをわざと女流が「男の世界にはこういうこともある(らしい)」と描くのがBLですから、そこに女性のルサンチマンが表現されているとか、モテない女の代償であるとかいう解釈がくっつくわけです。

1990年代には、この解釈のほうが盛んに喧伝され、フェミニストの有効な戦術のようになったので、いまでも女流同人・女性読者の意識の中にその頃の戦闘性の名残があることもあるのですが、もとをただすと、男性の現実なのです。

ハドリアヌス帝にはお気の毒ですが、アンチノオスもつらい思いをしていたんじゃないかと思います。また、稚児・若衆が急に高熱を発して早世したという話も多いものですが、これは無理な行為による感染症だった可能性があると思います。

なお「稚児・若衆」というのは、もともと単に「おさない人・わかい人」という意味ですが、女役を意味する隠語として用いられたものです。明治時代になると、これが「少年」や「ユース」という外来語になったわけですね。

ここで、本当に女性目線に立ってみると、たとえば宝石など、きれいなもの・可愛いものが2つ並んでいたら「どっちもきれいね」で済むのです。どっちか選ぶ必要があるのは、1個だけ買って帰ろうと思う時ですが、眺めているぶんには「2つ並んでいるほうが引き立てあって素敵だわ」でいいのです。

けれども「どっちかに女性属性を割り当てるべきである。女役をやらせるべきである」という発想が女性の中から生まれて来るとは限らないわけです。彼女にとっては「どっちも可愛い」で済むわけですから。

つまり、男男関係に男女関係のアナロジーを持ち込んだのは、もともと男性なのです。「女日照り」な男たちの少なくとも一部が女役を必要としたのです。鴎外は近代の医師だったので、冷静に実態を暴露したのです。

で、戦後の女流は、男性による(自伝的)創作物を読んで、そのような事例を知り、「男の世界にはこういうこともある(らしい)」と書いたのです。

つまり最初から「念弟の情け」というフィクションを基にした、二次的フィクションであり、嘘八百です。

なにも知らなかった少女がとつぜん「男に変身して男を襲いたい」とひらめいたのでもなければ、トランスゲイでもありません。トランスゲイであれば「女みたいな顔した男が当たり前のように搾取される」という話は、きもち悪くて読めないのです。

ここで「でも私は明治時代の文学なんて読んだことないわ」というクレームは無意味です。これは歴史の話です。あなたの話ではありません。

あなたは生まれながらに「ストレートのアニメキャラ同士がホモになる」ということを知っていたのですか? そうではありませんね。誰かが書いたものを読んで覚えたのです。

【二次創作BLの真実】

いわゆる「アニパロ」は、アマチュア漫画家か、アマチュア小説家の誰かが「最近やたらと流行してるアニメに出てくる男たちの中でも、誰かが女役に選ばれるはずじゃないの?」という連想を働かせただけです。

紙の漫画の同人にとって、アニメのほうが面白い・漫画はもう古いと言われるのは面白くないので、ちょっと厭味を言ってやりたかったという気持ちが動機の一つに考えられます。が、最初に書いた(描いた)人々は、それを同人誌即売会限定のジョークグッズだと思って、外の社会へは宣伝しなかった。最初から「ゾーニング」していたわけです。

でも会場の外で、先輩から後輩へ、ともだち同士の間で「薄い本」の貸し借りがあって、中学2年生が「同人誌=アニパロ=エロ」という短絡を発生させてしまい、やばい・やばいと騒ぎながら真似して書く(描く)ようになったのが、1985年頃だったのです。

その頃のことしか知らない人は、いまだにアニパロとか同人とかいう文字を見ただけで興奮してしまい、自分のアカウントで「エロ! エロ!」と騒ぎ始めてしまうので、困るのです。

【戦後女性の孤独と空想的全能感】

男子が寄宿学校で勝手なことをしていた間に、女子は遊郭か製糸工場へ売り飛ばされていたというのは戦前の話。

戦後の核家族家庭では、箱入りの一人娘として甘やかされるわけです。でも進学・就職を機会に実家を出ると、うるさく叱る人がいなくなる代わりに、チヤホヤしてくれる人もいなくなる。しかも職場は男尊女卑のままで「自己実現」にはほど遠い。

冷静に考えると、自分自身がそれほど勉強して来なかった。世の中には大学で研究を重ね、在学中に名声を得た人もいるのに、私はただの一般職。いつ辞めるの、子ども作るつもりなら早めに言ってねと厭味をいわれる。相手もいないのに……

そういう現実に背を向けて、自分だけは特別に、なにをしても許される・愛されるという幼児的な全能感と、異性の肉体への好奇心を両立できる。これがBLの重要機能で間違いはなく、それはそれでいいのです。

根本的に、現実逃避・ストレス解消というのが創作物の基本機能です。それを読んで「ストレス解消できた。明日も仕事に行ける」というのは重要なことです。男性における暴力映画などの基本機能も同様です。

問題は、もちろん、現実と混同する場合です。厭味を言うことと、快楽のバーチャルリアリティが結びついているので、とくにストレス解消したい時に、他人に付きまとって厭味を言う人になるのです。

それをSNSでやると、うんざりした相手から「ツイッター廃人」って呼ばれるのです。

注意事項としては、あなたは金持ち貴族の責めキャラではありません。部活の天才プレーヤーとか、超能力戦士とかでもありません。わざとマナー違反したからといって、誰もあなたを好きになってはくれません。目を覚ましましょう。



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