二次創作BLに必要なものと、パタリロと『MW』と、重要な約束。

  17, 2016 10:23
  •  -
  •  -
「男性が旅寝の慰めに女性の代役を必要とする」という知識がないと、成り立たないのが二次創作BL。

寄宿学校の生徒も、親元を離れてきておりますから、旅の仮寝の一種なのです。地元には親の決めた許婚がいるから、都会の女性と懇ろになって子どもをもうけてしまうわけには行かない。女郎遊びはカネがかかる。じゃあ?

女性が頭から「そういうことはない」と信じていて、発想することさえ出来なければ、描くこともないわけです。けれども実感がないだけに、そういうこともあるという話を他人から聞かされると「へェ、そーなんだ!」と鵜呑みにしてしまう。

で「そういうこともあるんだって」という噂を拡大再生産するわけです。

これに対して男性陣は「やっぱり若い女はものを知らねェな。現実にそんなことがあるわけねェよ」と言いたいわけです。だから小松左京などが「俺だってロマンティーカーの美少年趣味ぐらいは分かるが、下半身をどうこうしようとは思わんよ」って言うのです。

ごく大雑把にいって、女性が戦前の古い話をひっぱり出してきて「男の世界にはそういうこともあるんだって」という都市伝説を広めたのが1970年代後半。それに対して男性が「ねェよ」と反論するようになったのが1980年代だったのです。

【パタリロは男性目線】

じつは魔夜峰央『パタリロ!』というのも、男性によって描かれたものですから、「ないよ」と言っているほうなのです。意外ですよね。でも、バンコランという男は、もともと同性志向の人物として登場する。しかも危険人物として描かれ、たびたび笑いのネタにされる。

男性から見て「本当に少年を誘惑して歩くような男がいたら困る」という、ごく当たり前の気持ちがちゃんと表現されているのです。

つまり男性としては「そういう男は、もともとホモなんだよ(俺たちとは関係ない。俺も美少年に出会ったら『なっちゃう』ってことは絶対にない)」って言いたいのです。

けれども原作者のもとへは実際の同性志向の男性から苦情が入った可能性がありますね。ヒューイットというのは、バンコランの友人で、最初はカッコいいスナイパー役として登場した人物ですが、後から少女趣味という設定がくっついたものです。

これは、クレームに応えて、同性志向男性ばかりでなく、ストレート男性における少女趣味も笑いのネタにして、バランスを取ったものだった……と見ることができます。

さらに、プララの継母など、女性を悪役として描く。さらに女装のゲイボーイたちが身を寄せ合ってパタリロを助けてくれたという話もありましたね。魔夜は苦情に対して誠実に対応したのだろうと思います。基本的に一話完結式なので、新しい要素を後から追加するということが比較的容易だったのでしょう。

【MWはタブーの再生産の挫折】

手塚治虫『MW』は、女流による美少年漫画が最も盛んだった1970年代後半に発表されているので、女流の流行にいち早く対抗意識を示したのです。けれども最初の構想段階で、肝心なところを間違えたのです。

女流作品は、もともと「衆道の契り」ということがタブーではなかった日本の風習を、表面的に金髪の人物たちの話として描いただけですから、登場人物が西欧人なのに罪悪感がない。「俺はこんなことをして地獄へ落ちるのではないか?」と悩む姿が描かれていないのです。

でも手塚は「それじゃおかしいだろう。キリスト教徒ならもっと悩むはずだ」と言いたかった。おそらく『エクソシスト』の流行も念頭にあって、神父が同性愛で悩むという意欲的な作品を構想した。それによって「世間知らずな女流とはひと味ちがうぜ」というところを見せたかったのです。

が、それなら最初から西欧の話として描けばいいのに、新左翼運動・政治家の汚職・公害訴訟などが社会問題となっている現実の世相を背景に、日米政府の謀略という話にしてしまった。

だから「もともとタブー意識のなかった日本人が人生の途中からキリスト教に入信しておいて『俺には許されない恋人がいる』と悩むくらいだったら、キリスト教のほうをやめちゃえばいい」という矛盾が発生したのです。

赤ん坊のうちからキリスト教徒として育てられた西欧人は、両親・祖父母とおなじように神さまを身近に感じている。それを裏切ることは自分自身のすべてを否定するような気がする。自死にも等しい。だから棄教できない。だから悩むのです。

でも賀来はなんで悩んでるのかよく分からない。「知り合いが犯罪者だから」というなら、べつに同性愛であろうが、たんなる同級生であろうが、おなじように悩むのです。だったら、わざわざ同性愛者の問題として描く必要がない。

おそらくゲイコミュニティからは非公式にクレームが入っていたでしょう。彼らは「同性愛者=頭がおかしい=犯罪者」というステレオタイプの発生または助長をなによりも恐れるのです。

で、急に思いついたようにレズビアン記者を登場させ「同性愛は無問題です」と言わせた後は、なしくずしに曖昧な結末へ向かったのです。

要するに、ストレート男性が本能的に同性愛タブーを再生産しようとしたんだけれども、失敗したのです。

【人権運動の足がかり】

以上のような経緯を見ると、1970年代後半以降、実際の同性志向男性たちは、痛くもない腹をさぐられるという経験をして来たことになります。

が、じつはまさにこれによって、彼らは存在を露出する足がかりを得たのです。

つまり「一部の漫画家は誤解なさっているようだが、我々は青春期にいたずらを受けたことによって『なった』わけではない。生まれつきだから、ありのままに基本的人権を認めてほしい。最終目標は同性婚である」と言いやすくなったのです。

くりかえしますと、ごく大雑把にいって、女性が「男の世界では『ホモになる』ということがあるらしい」という都市伝説を広めたのが1970年代。

それに対して、異性志向・同性志向の両方の男性から「絶対にない」という反論が起きたのが1980年代だったのです。

一部の女流漫画家は、男性のリアリズム志向を取り入れて、「もともと同性志向の男性たちがストレートによる差別やエイズの不安におびえながら逢瀬を重ねる」という作品を描きました。秋里和国などですね。いっぽう、少年虐待という要素をまじめに考えたのが、吉田秋生や萩尾望都。

じつはその陰で、当時の中学2年生たちが都市伝説の再生産を続けたのが「アニパロ」だったわけです。

だいぶ図式がスッキリしましたね?

【都市伝説の再生産】

もともと「幻想と怪奇」というくらいで、耽美的表現と怪奇的表現は親和性があり、根っこが同じだということができます。「こんなことが現実にあるわけがない」と分かっていて、一時的にお話を聞いて面白がる・わざと怖がるのです。

現在でも、じつはどこの学校のことでもないと分かっていて「学校の怪談」とか「ほんとうにあった怖い話」といった物語が、児童文学の一種として量産され続けていますね。

二次創作BLというのも、わざと再生産され続けている都市伝説です。そこからプロに転じた人々の書く(描く)市販BLというのも「俺はもともとストレートだが、お前だけは別」という話であるかぎり、同じ路線です。

だから、なんなのか? が次の問題になります。

ゾーニングするのか? 全滅させるのか? 女性を逮捕または入院させるのか? 是非そうしてくれと言いたい男性も大勢いるのかもしれません。でも本気でやるとなれば、もちろん人権問題ということになる。「表現の自由」という錦の御旗との真っ向勝負ということになる。

間をとって、ゾーニング。ようするに、ここへ落ちてくるという話です。

当方は、あまり奇抜なことを主張しているのではありません。結論的には最初から分かっていることを説明し直しているだけです。

途中で脊髄反射すると「でも私は森鴎外なんて読んだことないわ!」とか「でも私は二十四年組なんて知らなくて『WINGS』しか読んだことないのよ!」など、自分で低レベルっぷりを暴露することになって、自分の立場を悪くするので、お気をつけください。

で、ゾーニングするからには、どういうことになるのか?

女性が新宿二丁目へ行きたきゃ行ったっていいけれども、女性同士の都市伝説にすぎない・くだらない話を、ゲイに向かって「本当にあるの?」とか質問するなということになるわけです。

その程度の約束も守れない中学生(自称)は、夜遊びに行かなくていいです。おうちで漫画を読んでいてください。




Related Entries