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1951年5月、黒澤明『白痴』松竹

わたし、あなたと勝負するわ。よくって?

企画:本木荘二郎 脚本:久板栄二郎・黒澤明(ドストエフスキイ原作「白痴」より) 撮影:生方敏夫 美術:松山崇 録音:妹尾芳三郎 照明:田村晃雄 音楽:早坂文雄

原節子ばんざい。毛皮のマッフと黒マントの悪の女王はしょせん売りもの買いもの。この人はニコニコと清楚なだけの役じゃ勿体ないのです。

女と男と男と女。タイトルで引いてしまいがちですが、まさかというほど面白いのでお見逃しなく。黒澤監督の名声はすでに赫々たるものだったようで、豪華出演陣を引き連れてのロケ地入りは武装警官の出動する大歓迎ぶりだったそうです。

豪雪に籠められた北海道における上流ホームドラマ。初公開時の資料によれば、愛欲の文芸大作。世話物の一種ではあるのですが、意識たかすぎる女たちによる全力翻訳劇というのが本質のようで、ワルプルギスの夜をイメージした場面もあり、明らかに日本的ではありません。これも時代劇が撮れなかった時代を逆手に取ったというべきか。

日本の俳優が声を張る演技をする伝統が、テレビアニメ番組において声優が終始怒鳴りっぱなしという芸風を生んだわけですが、その根っこはこのへんの翻訳劇にあるのかもしれません。

話をもどすと、時代劇を撮れなかった時代を乗り切る方法もいろいろあったわけですが、黒澤さんは戦後の世相をそのまま活かして、もう日記を書くように映画を撮っていたような気がします。

序盤では長々とした字幕が用いられるとともに、編集にぎこちなさがあって、黒澤ともあろう者が今さら何やってんだと思われることですが、考えてみるに無声時代のソ連映画を意識的に再現してるんじゃないかと。

原節子が底力を発揮し始めるとともに話法も持ち直しますので、楽しく拝見しましょう。

主人公は戦争中の衝撃的な体験によって癲癇性……なんですと? 病気の定義は時代とともに変わりますから、いまふうに言うと認知症のような状態になったらしいですが、じつは戦争はあんまり関係なくて、もともと純朴な人だったとしても成り立つ話なのです。

監督は用意周到にオープニングで観客に悲劇を覚悟させておりますが、知的に不自由な主人公が広い世間によって追いつめられて……というお話ではなく、すごくせまい人間関係のお話。グランドホテル形式の一種といえないこともなく、確かに雪に閉じ込められた貴族の居館を連想させ、ああロシアだなァ。

つねに容赦ない監督は雪を効果的な大道具として使っており、俳優たちも寒さによって一段と気合いが増しているようです。

あの森雅之がメイクもせんと、体当たり的な名演技を見せ、顎に両の拳を当てた可愛い子ぶりっこポーズがたまりません。その森と、ワイルドさを増して眼福な三船との超絶リアリズム演技同士の相性の良さも見ものです。そういえば『羅生門』もこの人たちでしたね。

なにしろ女たちの意識が高すぎて、原節子の女王様ぶりに感服するとともに、そこはかとなく日本人が翻訳ものをやる時の違和感が皮肉な面白みとして感じられないこともなく、監督自身がそこんとこよく分かってるのだろうとも思われます。

黒澤は基本的に真面目な人だったわけですが、ただの堅物ではなかった上に、真面目にやればやるほど、パロディってのは面白いのです。

終盤はどんでん返し的な展開が急に日本的な情緒纏綿たる恐怖を醸し出しますので、インターミッションつき堂々の2時間46分ですが、頑張りましょう。

結婚というのは性愛の美化ですが、この手の話は女性が誰に肉体を許すのか、その決定権が彼女自身にあるから成り立つわけで、GHQをも満足させたことだろうと思います。

そして結末は、この後、漫画やライトノベルで散々再利用されることになった定型の発祥だろうと思われます。

【以下、詳細につき、未見の方はご注意ください】



女は「好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る」(歌謡曲『魅せられて』より)もので、三船の肉体に圧倒されながら「森さん今頃どうしているかしら」と思ってりゃいいのです。

「あたくしみたいなアバズレではなく、うぶなお嬢さんの介抱を受けていらっしゃるのだから、きっとお幸せに違いないわ」と自己満足してりゃいいのです。豪華なベッドの上でね。それで終わりにしておけば悲劇は起きなかったのです。

これが日本で女郎をやっていた人の話であれば、堅気の大店のお嬢さんに手紙を出し続けるというのは考えにくい。自分を愧じて身を引いたというにしては自己主張が強すぎる。やっぱり翻訳的なのです。

お嬢さんのほうも、どうせ自分から愛を告白できなかったんだから、願ったり叶ったりで嫁になっちゃえばいいんだけれども、あの女に操られたと思うと癪に障る。また本人としても病人との将来が不安なわけです。

けれども彼女自身が牧場経営を勉強し「私がこの人を養ってあげます」と言ったっていいのです。でも、そういうふうに考えることができない。人権意識だけ高いようでも、ほんとうのやる気は育っていない。

監督・脚本は、そのギャップを充分に分かっているわけで、女の口からズバッと言う(が、後のことを考えていない)という場面を面白がり、誇張的な演出を与えていると言っていいでしょう。

女が「ああでもない、こうでもない」と悩む姿を次々に映し出す手法は『一番美しく』『わが青春に悔いなし』でも使われており、監督は美女の百面相を撮ることを楽しんでいると言っていいでしょう。

じつは、この話はあくまで上流ロマンスなわけで、男がどっちも美男なのは映画的お約束にしても、基本設定として、どっちも金持ちなのです。そして女にとって、肉体ごと女の人生を欲しがって「いくらでも積む」と言ってくれる男と、精神性を見抜いてくれる男は、どっちも理想のタイプなわけで、選びきれないという贅沢な悩みなのです。

ていのいいハーレクインなわけで、監督たちは、そういう女のナルシシズムに、ちゃんと気づいている。それをそのまま女の自己満足で終わらせずに、どっちの女にも罰を与えたと。最後の台詞が効果的。

男のほうはどうかっていうと、赤間は自分の意地と卑しさの両方を知っている。彼自身が美女の肉体だけを得て、愛欲の技巧の時間におぼれて、それで開き直っていれば悲劇は起きないわけです。けれども厄介なのは、亀田をいい奴だと思っている。俺が女だったら、俺みたいな男と、あいつと選べと言われたら……と分かってしまう。しかし男同士は傷つけ合うよりも馴れ合ってしまう。

ここでフェミっぽく「女性に対して失礼よ」と叫んでもいいところですが、女優たちは勢いのある芝居ができることを楽しんでいるといっていいでしょう。節子も美子も大女優の貫禄です。その背景に、じっと女の顔を見つめ続ける三船の姿が映しこまれているところがポイントで、じつは彼(赤間伝吉)がいちばん頭を使っている。傍目八目ってのはホントだぜ。

胃酸が出すぎると胃を壊すように、脳も臓器の一種ですから、使いすぎると不具合を起こすのです。だから彼の錯乱は一時的なもので、その後は描かれていませんが、警察病院で回復し、もとが金持ちなので保釈を得て、事業を始めたとでも思っておけばいいのじゃないでしょうか。

亀田だけが回復しなかったわけですが、彼はもともと押しの弱い、その代わり共感能力の高い、気持ちの優しい人だったのでしょう。戦争中の体験にしても「ラッキー♪」で終わりにしたっていいのです。でも他人の眼が忘れられない。

もともと、戦争がなくても、牧場の経営を引き継いでいたとしても、自分で季節労働者を使いこなし、仲買人たちを相手にシビアな駆け引きを繰り広げるということができる人ではなかったのです。

「自分は(芸術家であって)ビジネスの世界には向いていない」というのは、作家・脚本家・映画監督に共通した自意識なわけで、映画監督となると多少「はったり」のきく人もいるわけですが、だからこそ純文学の初心さに憧れもあれば、皮肉を言ってやりたい気持ちもある。

そういうところが、ちゃんと出ている作品なのだろうと思います。

先々の見通しの悪い男女によるメロドラマということで、連想されるのは溝口『武蔵野夫人』ですが、あちらのマイルドさと女性心理の意味不明ぐあいに較べると、これは日本的脚本の限界を超える挑戦であるとともに、ドストエフスキイに対するパロディの意味合いをも、やっぱり持っていると思われます。

じつは、一度の暴発の後は、なにを言われてもグッとこらえ、決定的に体を壊すほどのアルコール依存症になったわけでもなく、自裁もしなかった香山がいちばんえらかったんじゃないかとも思われますが、彼も大野の庇護の下で生きていく立場なわけで、これ以上自分が目立っても悲劇のヒーローにもなれないという「分」をわきまえていたのでしょう。

男社会は冷たいヒエラルヒーで出来ていて、最高の美女の手を得ようとすれば自分も傷つく。ヒーローになろうとしない人生が、やっぱり楽ではあるのでした。

そして結末は、とくにホラー系サブカル(≒漫画)作品の「オチ」として、何回くり返されたことでしょう。

歌舞伎の人が能楽の人を「本物さん」と言うんだそうですけれども、日本の創作家からすると、ドストエフスキイが本物さんなわけです。さらに漫画家・アニメーターからすると、やっぱり実写映画が本物さんでしょう。

初期のディズニーも東映も実在女優に演技させて、その動きをトレースするという技法を用いていたわけですし、人物の顔のアップ・手元のアップ・背景(風景画)を含む「ロング」を繰り返して緊張感を高める演出も、実写映画の編集の技法をそのまま取り入れたものですね。

より正確にいうと、映画監督がアイディアを描いたイメージボードを実在俳優にやらせるか、もっと細かく絵に描くかという違いで、技法としてはどっちが先輩ということはないのが本当ですが、映画産業としての成立の歴史からいうと、やっぱり「実写を観て育った子どもたちが漫画家・アニメーターになって、実写の真似をしている」と言わざるを得ない。

だから、サブカルとも称される漫画・アニメを見ると「しょせん二番煎じ、三番煎じ」という感じがするのは当然なのです。当然であると割り切ったうえで、じゃあ漫画として、アニメとして、どれほど上手くできているか、できる限りの努力を傾注しているかというところを観てやるものなのです。

この作品自体も「日本人がドストエフスキイの真似をしても、しょせん……」と言うことはできるのです。けれども、どこかに(江戸時代の間に培われた)諧謔の精神がひそんでいる。したがいまして、今回の結論としては、黒澤って人は確かに日本を代表する映画監督だな、と。



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Misha

Author:Misha
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「若い人」に直接呼びかける文章は、18歳以上のヤングアダルト対象です。高校生は受験・就活を最優先してください。

書く人は、新旧とりまぜて映画とアニメを見ながら文芸書に取りくんでみたり、昔の漫画を思い出したり、お国の先行きを心配したりしております。

映画評は、アップロードする以上は「下げる」ようなことは言わないことにしております。あらすじもあまり申し上げませんので、楽しみに御覧になってください。記事冒頭の色つき文字は映画中の台詞・挿入歌の歌詞からの引用です。

なお、取り上げる作品は、暴力・エロスなど特殊な要素を含んでいることもあります。

ときおり、耽美・BL・同人・LGBTに言及します。いずれの分野からも、偏見と差別と自虐がなくなるといいと思っております。

「二次創作の責任を二十四年組に押しつけるな」「実在同性愛者に甘えるな」が基調です。

全体として、二十四年組ファンが社会学者に物申すという珍しい構図。一部勘違い同人を叱責することによって全体を守るという意図もあり、ときにかなり辛口です。

記事は時々予告なく手直し・分割・削除しております。保存は個人的閲覧の範囲で、お早めに御随意に。転載・改変利用は固くお断り申し上げます。

解題


Casketとは、玉手箱。

でも検索すると棺桶がならびます。来世まで持っていきたい好きな作品の記録帳とご理解ください。