1955年11月、黒澤明『生きものの記録』東宝

  09, 2016 10:22
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なぜ、これほど簡単明瞭に答えが出ることに、我々がこれほど考え込んだのか。

製作:本木荘二郎 脚本:橋本忍・小國英雄・黒澤明 撮影:中井朝一 美術:村木与四郎與四郎 録音:矢野口文雄 照明:岸田九一郎 音楽:早坂文雄(遺作)監督助手:丸林久信

昭和三十年度芸術祭参加作品。「題名は丸岡明氏の好意に依る」そうです。(オープニングクレジットより)

かつてこの地球上に生きていたものの記録。三船敏郎、35歳。大事なことなのでもう一回いいます。三船敏郎、35歳。驚愕の演技力を見る映画。なんだこれ。『生きる』の志村喬に負けるな?

1955年現在。路面電車が走る街。相変わらず生々しい生活音を取り込んだ日常ドラマですが。身を守るすべを持たない「ノーマジック」は、恐怖に駆られると攻撃的になり、恐怖に駆られると行動的になるのです。

警察予備隊の設置は1950年8月。朝鮮戦争は1950年6月から53年7月。サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約は1951年9月8日調印、52年4月28日発効。第五福竜丸事件は1954年3月、第一回原水爆禁止世界大会は1955年。日ソ共同宣言(日ソ国交回復)は1956年10月調印。

日記を書くようにアプレゲール映画を撮ってきた黒澤さんですが、これはまたいい度胸だなと言ってやってもいいのかもしれません。原水爆実験と次の戦争への不安は世上に生々しいものだった、はずなのです。が、オープニングタイトルバックに諷刺の意図があることは、本篇開始前から一見して明らかです。

セミドキュメンタリーではなく、笑えない喜劇というべきフィクション性の高い作品で、喜劇というのは役者が真剣なとき、最も面白いのです。げんにこの映画を撮ってる監督たちも日本にいるわけですしね。

「間」がすごく良い映画で、他の黒澤作品と較べても際立っているかと思います。

脚本メンバーは『生きる』と同じ。家庭裁判所における会話の執拗なまでのリアリズムを堪能できます。千秋實が今までの鬱憤を晴らすかのような熱血ぎみの快演を見せております。人間、もっと早く言えばいいようなことを言わずにおくもので、それ言っちゃおしまいであることを分かっているからこそ切り札として取っておくわけですけれども。

女性がすごく元気がよいことも印象的な映画で、とくにポニーテールの末娘さんが気風がよくて可愛くて、ウエストをキュッと絞ったフィフティーズファッションが魅力的。

SFはこの時代に御三家があって盛んになったはずですが、なにげにそんな要素も取り込んでいるようです。終幕の音楽は……テルミン?

まだたくさん人のいた日本は、このあと所得倍増計画と東京五輪の時代を迎えるのでした。

【以下、詳細につき未見の方はご注意ください】



主人公は「1955年現在で70歳くらい」という設定でしょうから、生まれは1885年。成人したのは1905年。大正元年は1912年ですから人格の基幹が明治時代に出来上がっていた明治の男。よくも演じきりました35歳。老眼鏡の上からのぞく仕草が魅力的。映画のことは「活動写真」って言ってましたね。

家庭裁判所の所員と観客の脳裏には「なぜこれほどまでに」という疑問が繰りかえし浮かぶわけで、『生きる』同様の回想シーンをまじえた謎解き展開を期待してしまい、俳優の実年齢からいっても、途中で若い頃の描写になるのかなと思いましたが、そのままリアルタイム進行してしまいました。

主人公に特有の事情を明示しなかったことにより、普遍性を高めたのでしょう。一種のミスリードによって、観客の共感を主人公に着地させたところで盲点を突いたわけで、主人公の理性を停止させたのは、じつは恐怖ではなく責任感だったのでした。

自分自身の進退きわまっている時に、家族全員ぶんのジュースを買ってくる人なのです。大富豪というわけではないけれど、事業に成功したからこそ、最も有意義に使いたいと思ったのです。

たぶん前半生は恵まれていなかった。家族の縁に薄かった。だから血を分けた子どもたちを助けたかった。子どもは全員そろってるので、戦争でなくしたわけじゃないんですが、10年前の終戦当時はまだ幼児だったという年齢でもないですから、幸運にも復員できたのでしょう。だからこそ救いたかった。

ただし忘れていたことがあった。自分は誰によって成功できたのか。誰の労働が工場を支えていたのか。

工場は朝鮮特需で大きくなったってこともあるはずで、ほんとうは戦争を怖がれた義理じゃないという皮肉も仕込まれているのかもしれません。

……といった、撮らなくても観客のほうで判断できるような部分は撮らなかったわけで、つまり人物造形に無理がないのです。常識的に納得できる範囲の要素を積み重ねていったら「限度を超えて」しまった。あらら。

終盤に圧倒的な画がありますが、あれは本当に焼いたんでしょうか。やりかねない。

大家族の成員のそれぞれの思惑が寄り添ったり反発したり、暗黙のうちに張り合ったりする面白さは、若い人には実感がないところでしょうかどうでしょうか。いまの人はライングループでバーチャル大家族体験してるのかもしれません。

志村喬は市民課の課長さんが生き直しているかのようで、観てるほうも感慨深いことです。家庭裁判所の他の二人も名優。助役さんだった人はお医者さま役で、むずかしい役を与えられる俳優さんのようです。

思えば三船さんというのも脇役になれない人で、『生きる』には出ていなかったのでした。この人は「俺はそこに気づかなかった」(『無法松の一生』)という役が多いようで、対するに志村さんは共感はできる。けれども救うことはできない。

まさに「男同士は切ない」わけで、女に対するように「俺が一生面倒みてやるから、自分の夢を捨ててついて来い」って言えないわけです。言ったとしても、ついて来ない。本人の信念にしたがって突っ走って行ってしまう。

ところで、こういう表現からは「精神病院に入院してるような連中は刑法違反をやらかすに決まってる」という先入観が発生しやすいわけで、これに対して創作側は「いや、すべての患者がこういう経緯で入院して来たわけじゃない。映画と現実を混同しないでください。これはあくまで健常な一般社会に向かって『国際政治にも目を向けよう』というメッセージを含んだ諷刺劇です」と説明していくことになるわけですね。

ここから「狂った現実に適応しようと努力するよりも、想像の世界に逃避するほうが正常だ」という皮肉だけを物語全体から切り離して、真に受けるようだと困るわけです。

それは精神病の美化であって、現実の患者・家族にしてみれば「苦労が分かってんのか」となる。この作品は、まさにその家族の苦労を描いているわけですけれども、面白半分に「狂ってるほうが正しい」というモットーのようなものだけを抽出しちゃうと困るわけです。「創作物から部分を切り離して再生産する」ということの持っている危険性は、二次創作が好きな皆様も気をつけましょう。

(経験的に同人というのは頭がいい人々で、裏の裏の裏まで読んでいるんですけれども、ときどき真に受けやすい人も含まれているのです。)



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