1977年4月、市川崑『悪魔の手毬唄』東宝

  16, 2016 10:22
  •  -
  •  -
失のうたものは、いつも大きいんじゃ。

製作:市川崑・田中收 原作:横溝正史(角川文庫版) 脚本:久里子亭 撮影:長谷川清 美術:村木忍 録音:田中信行 照明:佐藤幸次郎 音楽:村井邦彦 監督助手:岡田文亮 協力:マツダ映画社 

角川春樹企画金田一シリーズ第2弾。昭和27年、山また山の鬼首村。おにこうべ村が正しいそうです。自転車のブレーキは乗用前に点検しましょう。呪文・迷信をばかにしてはいけません。独特の編集美学で観客の酩酊感を誘いつつ、タイトル前の10分間で世界観と人物紹介を済ませちゃう手際よさ。シンセサイザー楽曲にかえってノスタルジーを感じつつ。

何があったのか? 何かあったのか? 『犬神家』や『獄門島』、ついでに『ハつ墓村』(野村芳太郎監督)は「順序良く事件が起きる」ということがわりと早い段階で示されちゃうわけですが、こちらは山間の薄暗い村のようではあっても基本的には平和な戦後の世界で、少しずつ違和感と不安が高まって行く。

退屈になりがちな説明的台詞が続く場面に響く不安な音楽のセンスがよく、全体にセピアがかった色調も意図的に採用している……と思います。娯楽の少ない不況下の寒村で結ばれる男と女の絆と書いて「ほだす」と読みます。見た目に渋いですが、事件の前後を通じて推理ものとしての語りの面白さではピカ一だと思います。

富三郎がちょっと老けて、味のある警部役になりました。「警察官が探偵を雇うなんて聞いたことないですよ」「そうですか?」とぼけた会話が微笑ましいです。金田一に対して、伝記作者ではないですが、なんだか風情のいい二人旅。二十年って、あっという間に過ぎちゃいますよね。

柳太郎は村一番の実業家役で、かえってギラギラしてます。草笛光子と名対決シーンが観られます。

大河内傳次郎とディートリヒとクーパーが劇中劇出演。松田春翠の活弁芸を拝聴できます。海外作品は保存がいいです。昭和6年から、トーキーとスーパーインポーズが進出してきたそうです。無声映画における字幕の入り方と、トーキー洋画における字幕の入り方の違いを勉強できます。

都会で失職すると地元へ帰るという行動様式が物語の基盤にあるわけで、国境を踏み越えて新天地をめざすことのむずかしいせまい日本、身の置き所はいくつもございません。悪いことは、するもんではございません。

なお、女も舞台へ出るときは、「かみしも」をつけたわけで、男装したのですね。

【以下、詳細につき未見の方はご注意ください】



名探偵ものは任侠映画と似たところがあって、流れ者がフラリと集落へ入ってきて「世直し」していくわけで、迎える町や村にはもう一人の主役がいるわけです。

それが巻き込まれ型の「なにもできない僕」であることもあれば、もっとも疑わしい人物(と思ったら犠牲者)という時もあれば、真犯人ということもある。

いちばんシンプルな構図は、迎える側の中心人物が真犯人で、警察官の肩書きをもった名探偵がこれと対決する。コロンボさんや右京さんはこのパターンですね。

私立探偵の場合は警察が道化役。『カサブランカ』もこの一種。今回は、もう一人いる。これを無用と見るかどうかで映画全体の評価が変わってくるわけですが、こういう場合は「もしいなかったら?」と考えてみるといいわけです。

いなくても話が成り立つのは明らかですから、逆にこの人を主人公として描くことになります。というわけで、ちょっと老けた富三郎の魅力と演技力全開の中年ロマンス。

この人は色気があって、声もよくて、芝居っけもあって、印象的なのに、どこか間の抜けたような、お人よしの雰囲気があって、仁侠映画の中では使いどころがむずかしかったんですけれども、ここへ来て個性を活かした作品を残せてよかったと思います。

このシリーズは、女性の悲劇を重要モチーフにしようってことでメインスタッフの意見が一致していたそうで、男にすがって生き、男の胸に身を投げちゃう弱さと、子を想うあまりの錯乱と、偏執的・芸術的な計画性が両立しちゃうところに無理があって、女ってもっとズボラで独善的で途中で手を抜きたがるもんじゃないかとも思うんですけれども、これはまァ仕方ないです。

男性陣にしてみると「女って冷静に変なことするよな」という先入観みたいなものもあるのかもしれません。『楢山節考』や『山椒大夫』にも、そういう要素はあるかもしれませんね。

もっとも「男性が定めた家宝や和歌に沿って」であったり、男性の仕業に見せかけようとしたりしているわけではあって、女性がおおきな事を成し遂げようとする時には「女を捨てる」(男の真似をする)ということの一種でもあるのかもしれません。

【しかしてその実態は】

横溝トリック最大の難点は、人は人を顔のみにて識別するにあらずという点で、これを引きずって某国営テレビ局のドラマでは「能面の中の人のすり替えトリックに常連ぞろいのはずの見所が全員きづかなかった」というのもありましたね。

これは直接的には、写真術も映画術も発達していなかった時代の新聞小説として、変装のうまい大探偵がいたことによっていると思うんですが、その背景には演劇におけるリアリズムの伸張ということがあるのかもしれません。

で、その路線に乗っかって「しかしてその実態は」という怪人なんとか面相や怪傑なんとか頭巾が流行った。さらに遠くさかのぼれば「花川戸の助六、じつは曾我の……」なんてのに乗っかっているわけで、脚本家の名前は「クリスティ」ですけれども、クリスティ流にはない要素だと思われます。

緻密に物証を拾って観客を推理につきあわせた挙句に飛躍しちゃうわけで、推理ものとしてはアンフェアなのです。最初から成り立っていない。だからこそ、そこがいちばん面白いわけで、わざわざ古いDVDを引っ張り出す意義があろうというものです。

老婆の影というのも怪人の一種ですし、「怨霊伝説のほかには犯人の姿がまったく見えない」というタイプよりも、見応えがあるように思われます。

なお、当方の論法も「批判的に分析しておいて、でもそこが面白い」という結論になることが多いものですから、途中で「それのどこが悪いの!?」という具合にクレームされちゃうと困るので、ご遠慮ください。


Related Entries