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BLの動機、連帯の偽善、抵抗する男たち。~混同の分離

もし、女流が同性愛または少年愛を描いた時点で「ヤバイ」ので公開できないなら、そもそも二十四年組の活躍があり得ません。とすれば、その影響下に発生したとされる「アニパロ」同人活動もあり得ません。

プロの創作家が自虐して、担当編集者に対して「見ないで下さい」といって隠す程度のものなら、それは未来永劫、市販雑誌に掲載されることはないのです。「二十四年組から始まった」という以上、むしろプロが自虐してくれてりゃ、パロディ同人活動も始まらなかったのです。

プロが自虐せず、堂々と公開したからこそ、その後の流行が起きたのです。

お分かりですね? 事実としても、論理的にも、成り立たないことを夢中で議論していた先生たちこそ、おかしかったのです。妄想に取り付かれていたのです。「プロも自虐している」「少女が男性中心社会に皮肉を言っている」という夢を見ていたのです。

じつはBL論最大の問題は、学者・評論家・メディア・社会が直ちにことの本質を見抜くことができず、自己欺瞞に浸っていたことなのです。つまり批評家たる者が自分自身の先入観を問い直すことができなかったことなのです。

だから、当方自身の批評・批判は、つねに(昔の)批評家に向かっているのであって、同人に向かって「あんた達は嘘をついている」と責めているのではないのです。だから自称「同人やっていた」人さんが「私たちフェミとは別ですよ!」と言って来ても、それは最初から分かってますというだけなのです。

あえて言えば「なぜフェミではないものをフェミだと言った人々がいたのか?」という話なのです。また、時々フェミの言い草を真に受けてしまう同人さんがいるのは何故か? という話でもあります。フェミは教え子たちの不適切言動について責任とらなくていいんですか? という話でもあります。

他人同士の話を横で聞いていたら勘違いして興奮しちゃったわという種類のクレームはご遠慮ください。




【観てるだけでいい】

BLの動機はいろいろに説明されてきましたが、エクストリーム・タイプの場合は「男がほかの男によって達してしまうことがあるものなら見せて頂きたいわ」ってだけのことですから、女性上位プレイの一種なのです。

女性は良くも悪くも「お客さん」であって、見ていることしかできないということは、見るという特権を行使することでもあります。

古来、道化に滑稽芝居させたり、美女や若衆に踊らせたりして、それを眺めるだけというのは権力者の特権でしたね。お殿様自身は、変な顔や、パントマイムや、踊りの練習をしなくていいわけです。最初は美しいと思った若者の顔にも飽きたら、次の「ジャンル」へ浮気すればいいわけです。

いみじくも、この「見ていることしかできないという疎外された立場」を「あえて見るという主体的行為」として捉え直すというのは、三島由紀夫が書いたことでしたね。(『禁色』)

【監督業】

BLには、なぜ女性キャラクターが登場しないのか? これもいろいろな解釈がなされてきましたが、女性上位プレイの一種と考えれば辻褄が合います。

横暴な女王様が退屈しのぎのために配下の男たちを呼びつけて命令した。

この本質には、すでに1978年の時点で、西村寿行・団鬼六が気づいていました。当時の彼らの作品に示されています。さすがに炯眼であると言わねばなりません。(『MW』をもって女流の流行に対抗しようとした手塚治虫は真面目すぎたのです)

つまり、女王様自身は監督として、カメラのこちら側にいるわけです。自己満足的な本人が諷刺される対象として作中に登場することはないわけです。あたかも、俳優に危険な演技をさせる監督自身が俳優から恨まれている姿は映画の中に出てこないように。

それは、モテすぎて天狗になってしまった女王様のやることかもしれません。実際にはモテなくて、憧れの美男からプロポーズしてもらえない女王様が「復讐してやる」と思ってしまったのかもしれません。

もしかしたら、一般的な男性にはよくモテる女王様が、モテすぎて天狗になっていることによって、隣の国の王子様にだけは嫌われてしまったのかもしれません。女心は複雑で、事情もそれぞれです。

いずれにしても、このような女性上位プレイの一種と考えれば、女性に陶酔的な興奮を与えるのは当然なのです。女性の性的被害の話については血相変えて怒る女性が(それ自体は女性として当然のことですが)、この手の話には大喜びすることも納得が行くのです。

「フェミ」の先生たちが「私たちのものです!」と言っちゃうのも分かるのです。ただし同人に言わせると「自分で描いたわけでもないくせに勝手に私物化しないでください」です。

いずれにせよ、ほんとうに男になって「一家の大黒柱として働く・国防任務につく」といった男性としての苦労を引き受けたい人ではないのです。ほんとうのトランスゲイとして、男性社会の一員として、男性キャラクターの尊厳を守りたい人ではないのです。女性として最大限に人生を楽しみたい気持ちの表れなのです。

これを新宿二丁目へ持ち込んで、素人の男性同士を眺めて楽しむというなら、女性が自分勝手に女性上位プレイの材料として、彼らを利用しているということでしかありません。言葉の暴力というものがありますが、視線の暴力ということもあるのです。

【成人男性一人称】

BL創作の基盤にあるのは古代ギリシャ神話まで含めた戦前の男性による創作物ですが、これは本来、成人男性の一人称で語られるべきものであり、彼自身の物語です。

ヒュアキントスの死を嘆き悲しむのは銀弓の男神であり、後悔するのは西風の男神です。ヴィスコンティ映画において、老音楽家は若作りの化粧することによって、逆説的に老醜をさらして死んでいく。上田秋成『青頭巾』の怪僧は、完全に人の道を踏み外した挙句に即身成仏といえるかどうかという姿になる。

それは美童に出会って大きな心理的動揺を経験した・人生がねじ曲がってしまったという男から読者に届いた手紙のようなものです。俺の話を聞いてくれという。それを男性作家が書いていたのです。

彼らが愛した美童自身が年上の男性との交流をどのように感じていたのかは、ほとんど叙述されないわけです。

森茉莉・二十四年組・ポスト二十四年組・栗本薫などの初期女流作品は、ちゃんとこのパターンを踏襲しているのです。竹宮恵子『風と木の詩』は巻頭言を置いて、全体が成長後の芸術家(セルジュ)による若き日々の回想録であることを暗示しているわけです。

そして、この日本では、創作物にその要素があることは問題視されないのです。

好んで取り上げる人も少ないですが、たまたま読んだ作品にその要素が含まれていたからといって、ファナティックな反対運動を呼ばないのが、この大世俗化した日本です。読者の男女を問わず、歴史・文学に詳しければ詳しいほど「そういうこともある・そういう男もいる」という冷静な受けとめ方になるのです。文芸作品そのものや映画の登場人物たちの言動にも、その一端が示されていますね。

なお、特殊な作品のファンは「そっとしておいてほしい」という気持ちが強いものですから、当方はあまり大勢の耽美派創作家の名前を挙げません。「私の好きな漫画家の名前も言ってください! 無視するんですか!?」といったご質問・被害妄想的苦情はご遠慮ください。

【カメラ移動と批評のシフト】

BL創作の基盤にあるのは成人男性視点による彼自身の物語である。けれども、これが女性の手に渡った時、彼女自身の好奇心によって「カメラ」の焦点がずれることがあるわけです。

けれども、女流作品を迂闊な批評家が読んで、従来の男性中心主義的批評術を適用すると「若い(アマチュアの)女流が年少者を叙述の中心に置いているから、彼女自身が年少の男性キャラクターと自分を同一視している」と思ってしまう。

とすれば、ここでの真の課題は、批評家自身が自らの批評技法を問い直すことなのです。それはまさに女性中心主義による批評のパラダイムシフトであり、その意味では今なおフェミニズムであるということは可能なのです。

が、ここで女性自身が自分の足元をすくってしまうことも起きる。

すなわち男性中心主義的批評に対して「そういうのはもう時代遅れよ。おおきにお世話さま」と言って、一本取ってやったような気分になってしまう。

けれども「それならそれで、すでに飛躍的に社会進出を遂げた女性たちが本来の学業・職業に精励せず、若者を眺めることに血道を上げているのは、どのような不満を示しているのか」という問題の立て方をすることは可能なのです。

ここに女権論者が「それはほら、女性が頑張って勉強しても男性中心社会の中では出世させてもらえないから皮肉を言って、開き直ってるんですよ」と自分自身の不満を吐露するために首をつっこむ余地・つけいる隙もあるわけです。

さらにまた、ここであわてて「わ、私は実際の男女のことが苦手で、若い男を眺めることだけが出来る『ノンセクシュアル』だから、ゲイと弱者同士の連帯できるんですよ!」と言い出しちゃうと、他稿で詳述しているような、別の問題も発生するわけです。

【搾取のイメージ利用による娯楽】

もともと「女性的な顔立ちの若者を女役にする」という固定観念を共有していたのは男性でした。

前髪立ちの若者に化粧させ、華やかな振袖を着せて見世へ出すというのは、本人たちの自発ではありません。成人男性のプロデュースによる「売りもの買いもの」であり、若さの搾取です。

女性はそのような事実があったことを男性の創作物や歴史的証言から知って、自分自身の女王様気分を満足させられることに気づいた。

その「女性上位プレイ」を創作物の範囲でバーチャル体験する限りにおいて、猟奇ミステリー小説や暴力アクション映画と同列に論じることができるものなのです。

誰も実際に猟奇犯人になろうと思っていないし、現実に猟奇事件が起きてくれれば俺が解決してやるとも思っていない。俳優が刃物をふるっても観客自身はなにもしていない。けだし「観てるだけでいい」わけです。

すべての創作物は、根本的に現実逃避を目的としており、実行すれば刑法犯であるようなことを、わざわざ描くのが娯楽作品である。その「現実的ではない」という意味を宣伝効果的に表現するために使われるのが「耽美的」という言葉である。

金田一シリーズも、団鬼六の作品も、女流の美少年路線も、この点で同列であり、作者と頒布者(出版社や映画会社など)の口から「表現の自由」と言っていられるものなのです。

これを寺山修司が見抜いて「行動の自由が厳しく制限されている未成年女性のフラストレーション解消である」と断じたなら、炯眼ではあります。ただし描いた漫画家本人は成人していました。

まさに男性中心社会によって、成人女性と未成年女性が「独身である」という理由で混同されたことがその後の混乱を生んだことは、当カテゴリにおいて既述した通りです。

【非過激派の権利】

プリンセス物語というのは最終結論が結婚ですから、同衾が前提されているわけですが、そこまで描写しない約束になっていますね。

そもそも物語というのは、変哲もない日常の繰りかえしを描くものではなく、めずらしい事件が起きた時の様子だけを描くものです。児童向けのアニメやホームドラマでさえ、誰かの誕生日であるとか、有名な人に会えるとか、何かがなくなったとか、壊してしまったとかいう時に、その準備・後始末でアタフタする様子を描くわけです。

逆にいえば、夫婦なら当然の行為を、わざわざ詳述しない。

男同士が何をどうするのか、もの珍しかった時代には好奇心も旺盛だったわけですが、実際の同性志向男性も、BLという表現も、ある程度市民権を得たからこそ「そこまで描かなくても分かってる」という女性も増えたわけです。

ここで中年婦人が「エロが要らないわけないじゃない」とか「どうせ好きなくせに」などと厭味を言いながら笑い出したり、さも自分だけが正しいかのように怒り出したりするなら、なんの権利があって他人の選択の自由を侵害するのか。なに様のつもりなのか。

っていうと「あら、だって私の同人誌はよく売れたのよ」と自慢話を始めちゃうオバサンもいるわけで、ようするに最初から自慢話がしたくてしゃしゃり出て来たわけですが、もちろん不適切です。

その人の同人誌が売れたからって、それを「要らない」という人もいるという事実を否定する根拠にはならないのです。

さらにまた、たまには過激BLも読むし、少女漫画も読むしという人がいてもいい。割合が逆転している人がいてもいい。

なぜ、1990年代の評論家たちは「こういうものを読む女性は他のものを読まないに決まってる」という前提で議論を進めていたのか。なぜ自分自身の先入観を問い直すことをしなかったのか。

これら恐るべき言論上の暴行の責任を、誰が取るのか。フェミニストですか? 社会学者全体ですか? 男性中心社会ですか? また責任転嫁するのですか?

【抵抗する男たち】

当方のBL論自体の動機の一つは「なぜBL周辺はつねに騒がしいのか?」という問いかけを受けたことなんですけれども、その答えの一つは「話が行き違っているから」です。

すなわち、女王様が配下の男たちを呼びつけて、変わった命令を出した。そういう女王様に対して、ストレート男性たちが反旗を翻すときに言うことは「いや、いくら女王様のご命令でも無理っすわ」ですね。

だからこそ「まァでも、女みたいな顔した美少年が相手ならいいかな……(いや、やっぱ無理。そういう話はもうご勘弁)」ってなるのです。

だから本当は、BLに対するストレート男性の実感は「男同士はきもち悪い」じゃなくて「俺が男をやると思うときもち悪い」および「変な命令を出す女王様には困る」なのです。被害者意識なわけです。

これは逆転させてみると分かりやすいので、女性は自分が暴行の被害に遭うと思うと男性向け映画など見ていられないと思うわけです。そんなものを面白がる男はおかしいわと思うわけです。

しょせん他人事・創作物なのに、性別がおなじだと思うと、他人事とは思えない。私に対して失礼だわと思うわけです。

だからこそ、二次創作BLファンの言い分は、「いや、お宅に命令したわけじゃない。自分の好きなアニメキャラで遊んでるだけだ」になるわけですね。

ようするに、ストレート同士の内輪もめなのです。

なのに、ストレート男性の口から「男同士はきもち悪い」って言っちゃうと、ゲイが顔色を変えるので、議論が三つ巴になって、収拾がつかなくなる。これがBL周辺が常に騒がしい理由の一つ。

ほかには? 男性側からの「巻き返し」です。

BLは、だてに「アッシー、メッシー」という言葉が流行したのとおなじ時代に急成長したわけじゃないのです。意外なようですが、女性上位表現の一種なのです。女のほうが威張ってるのです。

だから、男性が危機感を持つ。「そういうのは現実でモテない女のやることだよ」と厭味を言う。

それが固定観念となって、前提にあるから「きれいな人がBL単行本を買うのを目撃したので驚いた」となるわけです。でも前提の間違いを解消すれば、驚きもなくなるのです。

「パラダイム・シフト」というのは(端的にはマルクス主義を克服するべきだという意味で)1980年代によく言われたんですが、いまだに起きていないところもあるのです。

いっぽうで、フェミニズム的に言うと、モテるかモテないかではなく、女性が男性と同じ仕事をしたり、スポーツをしたりすることを禁じられているので、その代償だというわけでした。

でも、それなら女性の校長先生や企業重役が増え、「なでしこ」が世界大会で優勝し、自衛隊の指揮官まで登場した現代には、BLは衰退するはずです。実際にはそうなっていない。なぜか。もともと女性上位表現だからです。それは実際に出世できた人にとっては(すべての出世した女性がBLを好むわけではないですけれども)優越感を強化するものです。邪魔なものではないのです。

だからこそ、BLバッシングは強まったのです。1970年代には才能ある(が抑圧されやすい)女流漫画家の勇気ある挑戦として評価されたものが、1980年代から徐々に価値をおとしめられて来たのです。男性からの「巻き返し」なわけです。

女性の社会進出が進めば進むほど、女性の娯楽の自由として、BLも盛んになる。だからこそ「夢の見すぎ」とか「本当の男を教えてやる」とか「絵が下手」とかいった厭味・からかい・バッシングも強まる。

たとえて言うと、少数民族や植民地が実力をつけたからこそ、自治権を認められていたものが危険視されるようになり、全面戦争になる。そういう国際政治の歴史と同じです。

「だから激しく戦うのが当たり前」ではなく、あやまちを繰り返さない国の国民は、平和共存の道を探るのが良いのです。

話がここまで来て「あら、私はアニメキャラなんか好きじゃないわ!」とか言うのは、誰の得にも、なんの役にも立たないので、ご遠慮ください。


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Misha

Author:Misha
スマホ時代にさからう評論系長文ブログ。冷静に通読できる大人の読者様を想定しています。

「若い人」に直接呼びかける文章は、18歳以上のヤングアダルト対象です。高校生は受験・就活を最優先してください。

書く人は、新旧とりまぜて映画とアニメを見ながら文芸書に取りくんでみたり、昔の漫画を思い出したり、お国の先行きを心配したりしております。

映画評は、アップロードする以上は「下げる」ようなことは言わないことにしております。あらすじもあまり申し上げませんので、楽しみに御覧になってください。記事冒頭の色つき文字は映画中の台詞・挿入歌の歌詞からの引用です。

なお、取り上げる作品は、暴力・エロスなど特殊な要素を含んでいることもあります。

ときおり、耽美・BL・同人・LGBTに言及します。いずれの分野からも、偏見と差別と自虐がなくなるといいと思っております。

「二次創作の責任を二十四年組に押しつけるな」「実在同性愛者に甘えるな」が基調です。

全体として、二十四年組ファンが社会学者に物申すという珍しい構図。一部勘違い同人を叱責することによって全体を守るという意図もあり、ときにかなり辛口です。

記事は時々予告なく手直し・分割・削除しております。保存は個人的閲覧の範囲で、お早めに御随意に。転載・改変利用は固くお断り申し上げます。

解題


Casketとは、玉手箱。

でも検索すると棺桶がならびます。来世まで持っていきたい好きな作品の記録帳とご理解ください。