2016/12/20

少年漫画を読む女が責任を問われる時代。

日本の大学というところは、男尊女卑の巣窟の一つで、女性の研究者は下積みが長いのです。というか出世できる見込みがないのです。少なくとも、そういう時代があったのです。

何十歳になっても、師事している男性教授のコピー取り・お茶くみ・宴会の際のお酌を期待されているだけ。男性顔負けの論文を書いているのに認めてもらえない。

だから、フェミの先生自身が「女はどうせ男性中心社会で出世させてもらえないから、わざと子どものふりをして、男の命令を聞かないふりをしてるんですよ。ざまァごらん遊ばせ」って言ってやりたかったのです。それはそれで彼女たちなりに言いたいことの筋は通っているのです。

栗本薫などのプロ作家も、すでに上梓した単行本が発禁になっちゃ困るので「少女は摂食障害になりやすいから」とか「じつはトランスゲイだから」とかいって、男性から暴力を受けやすいので自虐せざるを得ないという論法に落として行くのが都合が良かったのです。

けれども、これをパロディ同人のほうで真に受けてしまって「女は一人で生きていくことがむずかしいんだから、二次創作を売るのは当たり前ですよ!」と言っちゃうと、その時点でアウトなのです。

なぜなら、社会は少女が他人の財産を侵害し、告訴される危険をおかして生活費を得ていると涙目で訴えられてしまえば、直ちにそういう子どもの身柄を保護して、不安定な活動をやめさせ、学問と職業訓練を与える義務が生じてしまうからです。

もし本人が「いやあの、少女って言ったのはジョークで、本当は成人なんです……」というなら、社会は「著作権者ときちんと話し合ってください」と言うことになります。

なぜなら、政府・社会が著作権者に対して「著作権を放棄しろ」と命令することはできないからです。国家が原作者の人権を侵害したことになってしまいます。

むしろ裁判になってしまえば、その内容が逐一報道されることはありません。裁判が外野の意見によって左右されないように、基本的に秘密が守られる。国民も「口出ししてはいけない」と分かっている。お上の「あずかり」になるということは、一般人が私刑を与えることはできないのです。むしろ容疑者・被告は国家によって保護される。

逆に考えれば、権利者にとって最良の手段は、むしろ告訴しないことです。すなわち、社会的制裁にゆだねる。多くの著作権者が実際には「そこまで考えていない」と言えるでしょう。要するに自分自身の作品制作が忙しい(日本の雑誌社は締切に厳しい)から、同人ごときにかかずらわりたくないというのが本音でしょう。けれども、理詰めで考えれば、怖い考えになってしまったりも致します。

この件は、いろいろな人がそれぞれの立場から、てんでバラバラに自己主張しただけで、言いっぱなしなのです。それらを突き合わせると、たいへんなことになる。いかにも日本的。政治家が国際報道陣を前にジョークを言って、つっこまれて真っ青になる姿が彷彿されたりするわけです。

【少年漫画を読む女が責任を問われる時代】

1990年代までの議論というのは「女性が少年漫画を読んで何が悪いんですか!?」という話と、「それをパロディにして売りさばいて何が悪いんですか!?」という話が混同され、前者が優先されていたのです。

現代の人には想像もつかないでしょうが、女性が少年漫画雑誌を講読すること自体が「おかしい」と言われた時代があったのです。「そういう変な女は、もともと男なんじゃないか?」って本気で心配された時代があったのです。

社会の中心的成員である男性のほうに「女がみんな男性化すれば子どもが生まれなくなるし、われわれ男の職場・立場がおびやかされる(だから早く諦めさせないと)」という被害妄想的動機があったせいです。

言われたほうも「女を捨てて(結婚・出産しないで)生きる」というのをカッコいいことのように感じていたので、そうです心は男です~~って言っちゃったのです。

その行き着いた先が「トランスゲイ説」(1998年)だったのですが、いまの人には「そんなわけないじゃん」って感じられますね? 年上の人のなかには、まだ引きずっていて「男に生まれればよかった」とか「ホモになりたい」とか言っちゃう人もいます。

本当に男に生まれていたら、男としての苦労が待っているだけです。ゲイに生まれていれば、現時点で差別が解消されていない以上、結婚したい相手を見つけても祝福されないどころか、知らない女たちから指さして笑いものにされるという人生が待っているだけです。本当にうらやましいですか?

話を戻すと、女性が少年漫画を読んだり、男性漫画家の真似をして男性キャラクターを描いてみたりすることが「異常」と見なされた時代があって、フェミニストと呼ばれる先生たちは、まずこのこと自体に反対しました。

この点では、確かに男女平等を求める運動であり、フェミニズムなのです。

男女平等とは、男にスカートをはかせろという運動ではありませんね? 実質的に「男性は100パーセント自由が認められているが、女性は60パーセントくらいなので、女にも男とおなじことをさせろ。女のくせにってゆぅな。男は黙ってろ」という運動です。女性が男性化することが男女平等です。

1980年代くらいまで、じっさいに女性が職場や教育現場で差別され、女のくせにと言われる機会は、今より多かったのです。戦時中の映画にも「女に分かるもんか」なんて台詞が出てきますね。

その解消が優先だったので、今で言う「二次創作BL」についても、まずは女性が少年漫画を読んだり、男性キャラクターを描いたりしてもいいじゃないですかと主張することに力点が置かれていたのです。

「年端も行かない女性が二次創作BL同人活動に夢中になるのは、女性に女らしさ・お嫁さんらしさを強制する男性中心社会に対する革命運動だ(から弾圧してはいけない)」というマルクス主義的美化がまかり通っちゃったのです。

「でも他人のキャラクターだろ?」という要素は、その陰に隠れちゃっていたのです。

さらに「未成年者なんだろ?」という問題と、「主人公も未成年者なんだろ?」という問題と、「ストレートが勝手な想像で同性愛を描くのは偏見が助長される恐れがあるだろ?」という問題が、ぜんぶゴチャ混ぜになっていたのです。

あえていうと「少女」「二次創作」「ボーイズ」「ラブ」のそれぞれが別の課題のはずなんですけれども、「とにかく全部まとめて女性の自由なんです~~!」のひと言で押しきられたのです。

だから、今なお「少年漫画を読む女=二次創作BLのファン」という誤解がまかり通っているのです。

【平等の彼方へ】

現代では、女流が美少年どころか、美中年だろうが美老年だろうが髭筋肉だろうが好きに描きゃいいじゃんってことになったのです。一般文芸のカバー画として、筋骨逞しい男性を描いている女流イラストレーターも増えましたね。文芸そのものも、女流作家が野球や箱根駅伝を題材に、少年たち・青年たちの活躍を描くようになりました。心理描写がやや女性的ですけれども。

夢二・八十などの男性が少女小説を、手塚・赤塚・楳図などの男性が少女漫画を描いていたいっぽうで、女流といえば女性を主人公にした作品しかなかった1960年代までに較べれば、創作の世界は昔よりもずっと男女平等になったのです。ほぼ互角といってもいいでしょう。個々の原稿料を較べれば、女流のほうが高いという例も多いでしょう。

だからこそ、次の問題が浮上して来たのです。すなわち「未成年者に読ませてもいいのか?」「主人公が未成年者なのはいかがなものか?」「ストレートが想像で同性愛を描くのは当事者の迷惑ではないのか?」

男女平等になったからこそ「女性の自由だからいいじゃん」では通用しなくなったのです。女性も一人前の社会人として、自分より弱い立場である子どもやゲイに対する保護・配慮の責任を問われるようになったのです。もはや弱者特権など無いのです。

「ゲイは男だから女のほうが弱者じゃん」とは言えません。女性が結婚しない自由は憲法で保障されていますが、ゲイが結婚する自由は保障されていないからです。今なお個人の心身に関する自己決定権と幸福追求権を侵害され、差別され続けているのは彼らです。

話がここまで来ているのに「女が男を描いてるだけだから、いいじゃないですか!」では、全然ついて来れない人なのです。

男女平等の問題なのか? 青少年保護の問題なのか? 同性愛差別の問題なのか? わいせつの問題なのか? 全部ひっくるめて、かろうじて「表現の自由」ということは可能です。だから、今や創作クラスタ(創作者と読者)は、それしか言うことがないのです。

しかもなお「著作権侵害は二次創作者の自由です!」とは言えないのです。二次創作者が女性であることも、なんの免罪符にもならないのです。

【表現の自由と著作権は別】

「二十四年組」と呼ばれる漫画家の一人は、自分自身も女性ですが、自作に基づく二次創作が市販の少女向けをうたう雑誌に掲載されてしまった際に、差し止め請求を出したことがあります。出版社は謝罪文を掲載しました。1983年頃のことです。おそらく出版社へ投稿したのも女性ですが、女性が書いて、女性が読むから、女性漫画家が許してくれるというわけではないのです。

同人があからさまに「アニパロ」と言わなくなり、自虐的な隠語の使用が増えたタイミングは、この件と一致します。

有名なSF男性作家が女性の書いた二次創作を知って、全面禁止したこともありました。ジャンル壊滅です。1990年代初頭だったかと思います。

女性が少年漫画を描いてもいいですが、他人のキャラクターは別なのです。著作権の話になった時には、自分が女性であることは、なんの免罪符にもならないのです。

この問題になると、フェミの先生たちも黙っちゃうわけです。政府に対して、少女が親告されたり、ジャンルがつぶされたりしないように、著作権法を改正するように働きかけてくれた先生もいないのです。

もとより憲法は男女平等です。すべての国民の表現の自由が保障されている以上、女性の表現の自由も保障されています。でも、二次創作の自由は保障されていません。そもそも著作権者の権利を保護するために他の国民の表現の自由を制限しようというのが著作権法です。その侵害は非親告罪になりました。ただし、二次創作の場合は権利者の被害が軽微なので警察力(=国民の税金)を投入しないというだけです。

「いや、甚大である。キャラクターイメージが落ちれば、企業イメージが落ち、売上が落ちる」と訴える権利者がいれば、話は別です。非親告罪になったということは「もう親告できなくなった」という意味ではありません。今なお原作者は著作者人格権を有します。民事不介入ではありません。すでに非親告罪だからです。

この点で、フェミは途中で逃げたって言われても文句いえないのです。

念のため繰りかえしますが、民主主義国家においては、国民の権利は国家の権利に優先します。国民は自己判断で売りたいものを売る権利があります。よほど危ないものを国家が禁止するだけであって、その法律のほうが間違っていると思えば、国民には反対しつづける権利もあります。

だから、相手が国家であれば「創作物を杓子定規に断罪するような横暴な法律を作らないでください」ということはできるんですけれども、なんというか……著作権者に対して威張れる義理はないのです。

「国家に介入してもらわないでも、個人間で冷静に話し合うことによって解決できる」のが国家の介入を拒否する前提だからこそ、個人間では礼儀を守る必要があるのです。できるだけご迷惑をおかけしないように。民間の第三者の興味本位な・ルサンチマン的な不当介入を招かないように、原作者のお名前や作品の題号を言ってしまわない等の約束事は、当たり前なのです。

それは、あえて例えれば、民事訴訟の内容について、相手方から開示された情報や条件をツイッターへ流してしまわないことと同じことなのです。

「こそこそやってるから悪い」んじゃなくて、国民には情報を開示する範囲を自分で決める権利があり、個人間だけで話を決める権利もあるのです。それによって誰かが命を落とすとかいうほど悪い相談でない限り。

だから、国家が相手の時は「国民の権利として声を挙げて行く!」でもいいんですけれども、「編集が~~」ってのは話がちがうのです。対立の構図、議論の局面。そういうものを混同してはいけないのです。つまり、喧嘩の相手が誰なのか理解しておく必要があるのです。

「私、まだ若いからバカだから、そおゆうこと分からないの~~」では、通用しないのです。とくに実際に中年に達した人は。

【私まだ若いからバカなの~~と言いたがる中年には困る】

もう自分でも「若い」と思うことができなくなってしまった人が、わざと浅慮な言動をして「だって私、まだ若いから~~」と言いたがるわけです。

本人が「若い人=頭が悪い」という先入観を持っていて、その「イメージ」を利用しているのです。

20歳以上に達して、お酒を飲めるようになった人は、14歳未満の児童ではありません。なにをしても検挙されないという年齢ではありません。それがわざと他人に対して失礼なことをするなら「私、まだ14歳未満だから~~」と言いたがっているのです。

(こっからちょっと話題が変わりますけれども法律の話へ戻るので少々おつきあいください)

女性の多くがテレビ・映画などを通じて「ストレート男性が集まる歌舞伎町は女性にとって怖いところだ」と知っていることでしょう。だから歌舞伎町へ行って「あんた達、いつホモになるの?」と言って男性をからかうことはないのです。

けれども、新宿二丁目なら(ゲイが女性を性的な意味で襲うことはないから)大丈夫だと思って、ゲイをからかいに行くという人が、時々現れてしまうのです。

とくに、進学・就職を機会に実家を出てしまい、うるさく叱られなくなった代わりに世話を焼いてもらえることもなくなった人が、寂しがって、わざと子どものふりをしたがることがあるのです。

それが本当に20歳の人なら、田舎から出てきたばかりじゃ都会の夜遊びのマナーを知らないのも、ジョークのセンスが悪いのも、仕方がないと言ってやることもできるでしょう。

けれども、都会で働き続けて40歳以上になってしまった人が、20歳の学生のふりをしているとなると、恐ろしいということになります。それを指摘されると本人が「だって私、頭がおかしいから~~」と言って逃げるわけです。

これによって最も傷つくのは、本当に若い人々です。「若いからって、そんなふうに思われたくない」と思うからです。

中年が「若さ」を口実にして、わざと反社会的に行動することが、実際に若い人をガッカリさせ、将来への希望を失わせるのです。「あんな大人になりたくない」って。

歳を取ってしまった人が、本当に若い人から夢を奪い、復讐してやった気分になって、面白がっているのです。

だから、本当に若い人は、その手に乗る必要はありません。気を確かに持って「あんな大人にはならない」と決めてください。周囲の人々も冷静を保ってください。若いからバカなのではありません。若いふり・バカなふりをする中年が個人的に図々しいだけなのです。

とくに、パロディ同人やっていた人は、他人のキャラクターの「イメージ」を無断利用して利益を得ることに慣れてしまっているので、一事が万事その調子ということになってしまいやすいのです。

とくに、もともと楽をするつもりで、濡れ手であわという話に乗ってしまったというタイプは、そういう人間性を助長してしまいやすいのです。

けれども、パロディ同人が「なんとか少女・なんとか女子」を自称するのは、同人誌即売会限定のジョークです。他の街へ持ち出すことではありません。

【法律の意義】

念のため、法律ってのは、できるだけ(国家ではなく)国民を守るようにできてるのです。意外なようですが、国民をできるだけたくさん刑法犯として摘発し、罰を与えようとするのが民主主義国家の法律なのではないのです。

これ、法律の本を読むと分かります。一般人としては「悪いやつは片っ端から逮捕しろ」と思うものですけれども、それは国民同士の「ルサンチマン」というもので、法律家の考え方というのは、じつは真逆なのです。国家が横暴で独裁的だった時代を前提に、これからはできるかぎり国民の自由と自己判断を尊重しようってのが戦後の法律なのです。

その法律が、国民のルサンチマンに基づく私的制裁の道具として乱用されないように見張るのが「法の番人」なのです。これ、日本人(自分自身)の人権意識・国家観が分かるという点で「ある意味興味深い」とも言えるところです。

だからこそ、性的マイノリティな人々が「じゃあ、なんでぼくらの自己判断は認められていないんだ? 差別だ!」って言う道理です。

当方と致しましては、どの話題も、自己決定権が尊重されるべきだ(その代わり「自分で選んだ道」という自覚を持つべきだ)という主張で一貫させているつもりなのでございます。

年の瀬にあって、自戒を込めつつ。


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