大島渚『日本の夜と霧』(1960年)再考。

  06, 2017 10:31
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映画作品の内容に直接言及いたしますので、未見の方はご注意ください。




象徴主義的な風景の遠望も、物体の接写もなにもなく、会話だけで成り立っている密室劇で、ときどき回想シーンとして違う場面が挿入されるんですけれども、それも黒澤時代劇のように「アクションそのものの迫力で魅せる」ってことではなく、基本的に立ったまま・座ったままで会話してるだけなのです。

カメラは、その会話を演劇の観客の目線同様に発言順に追ってるわけで、編集なしの長回し・ホームビデオ状態なんですけれども、そういう撮り方としては木下恵介が1950年代にやってるのです。だから、じつは映像としてはそんなに珍しいことじゃないのです。

じゃ何がすごいかっていうと脚本なわけで、いかにも学生運動家が言いそうなことの羅列なわけです。これは実際に体験した人じゃないと書けないのです。少なくとも学生たちと起居をともにした取材者でなければ書けない。実際の監督は取材どころか渦中の当事者だったわけで、映画全体のテーマは、じつは「党」の批判なわけです。

序盤は1960年の「流れ解散」と、その後の若者の動向を問題視している。でも、じつは主眼は1950年代の問い直しにあるわけです。

もともと「党」から見れば若者たちというのは最前線で消費される歩兵に過ぎない。運動と称する暴力闘争ばかりしているから政治も金融も最新科学も勉強していない。たとえ権力を奪取しても、その後の役に立たないのです。

もし彼らが興奮のあまり公共施設や道路を破壊したらどうなるのか。物流が停止し、地方の人民が心待ちにしている食品・日用品・職業上の必需品などが届かなくなるだけです。また誰が修繕するのか。若者たちにはできない。職人として修行したわけでもなく、新建材・新工法を開発できるわけでもない。

プロレタリア人民のおじさん達が「俺たちは学生さんの味方だよ」と笑って、ボランティアで直してくれるわけではないのです。

「党」が権力奪取し、国費を掌握すれば、建設会社に発注することもできるし、建設会社を国有化することもできる。けれども実際にはそうでない以上、政府・与党に手間をかけさせ、国民の税金を浪費させる社会の敵でしかない。

早晩、規制が強まる前に路線変更するのは当然で、そうなれば若者たちには「歌でも唄ってろ」ってことになるわけです。女子にフォークダンスさせておけば男女平等の大義名分も立つし。

その程度のことであるのを若者たち自身が気づくのが遅れた。遠藤が演じる「本を読んだことがない」という述懐は監督自身の反省の言なのでしょう。実家が富裕なわけでもないのに親に無理をいって大学へ進ませてもらって、何をしていたのか。若い労働者が「遊び半分な学生運動をからかってやれ」と思うのも当然なのです。

激しい「党」批判、深い自省、失われた命への鎮魂。

そう考えると、運動の渦中にあった一個人の自伝としても、批判的な目で時流をとらえた映画としても、貴重な作品であって、配給会社は何を恐れたのか。

終幕では、1960年代組は走り出して行くわけですけれども、再びシュプレヒコールったりジグザグったりすることを美化し、煽動している映画ではなく、ほぼ諷刺といっていいでしょう。すでに監督自身が歳を取っているから、花嫁に祝辞を述べる女学生に対しても「小娘が」という突き放した目線がある。

「流れ解散」という言葉が何度も登場するように「そんなことでいいのか」という怒りはあるんだけれども、俺たち50年代組を見習って、もっと頑張れということではない。

50年代組こそ何やってたのかという批判から、大きく卓袱台返しして「もう一回やろう!」と言ってもいいわけですけれども、そういう希望とか熱意とかを感じさせる結末ではないわけです。ただただ、空虚に響く言葉の羅列の、その羅列ぶりが見事であるというだけで。

【女と男の他者批判】

1950年代組の女のなかには明らかに「ダイヤモンドに目がくらみ」というタイプがいて、「この人は私の体を求めただけ」なんて男を責める。でも、いやなら拒めばいいじゃん。そこでレジスタンス出来なくてどうする。

「流れ解散」に疑問があるなら彼を説得してもいいし、自分だけ再び戸外へ出たっていいわけです。昔の仲間に連絡を取ったっていい。実家へ帰るという手もあったかもしれない。

いっぽう、60年代組のほうは、女子学生の指摘する通り、結婚した後からでも行方不明者を捜索することもできるし、戦列に復帰するよう説得することもできる。

あたかも、新年を迎えたからって生活が急に変わるわけではないように。

「家庭という安逸に埋没しようとしている」と女子を責める男子こそ、女は家庭という先入観にとらわれているわけです。彼女はこれで引退するつもりだな・俺がそうはさせないぞっていうわけですが、それでは捨てられた男の嫉妬にすぎません。

はからずも、1960年代当時の女性の立場があぶり出しのように現れてくるわけですが、監督はちゃんと分かってるのです。

結局のところ、学生と学生だった者が「自己批判」できかねて、責任をなすりつけ合った挙句に、最初から最後までブレることなく一貫して学生を上から目線で見ていたのは「党」だった、と。

しかも、よく考えると遠藤演じる主役(じつは津川じゃなくて彼が主役)は、女からも「党」からも裏切られた側であって、そんなに悪くないのです。監督=脚本の「自我」はここにある。

自分が脚本を書くつもりで聞くと「無理」と思える台詞の連続なわけですけれども、監督としては実際の「流れ解散」の報に接した後、流れるように、湧き出すように、一気呵成に書き上げたのだろうと思われます。その勢いのままに、あの手法で撮ることもまた必要だったのでしょう。


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