1957年9月、黒澤明『どん底』東宝

  11, 2017 10:31
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あたしだって、いろんなこと考えて、ほんとにそんなことになるの待ってんのよ。

原作:ゴーリキー『どん底』脚本:小國英雄・黒澤明 撮影:山崎市雄 美術:村木興四郎 録音:矢野口文雄 照明:森茂 音楽:佐藤勝 

昭和三十二年度芸術祭参加作品。こいつァ春から演技がいい、ベテランメンバーによるスーパー貧乏暮らし。黒澤さんのミュージカル好みもここまで来ました。

目も当てられないようなビンボーのずんどこですが、どうも俳優たちは楽しそうです。舞台劇的なハイテンション進行で、役作りは外見のみならず内面的にも入念に行われたことと思われますが、もしかしたら派手なロケがないので肉体的には楽なお仕事だったせいなのかもしれません。

髷を結った人や自称旗本がいるので、江戸時代に置き換えてあるようです。「当時の日本にはこのように店子を共同生活させる貸家経営形態があった」ってことではなく、本来なら『人情紙風船』と同様の長屋にするべきところ、簡略化したのだと思われます。

ありていにいって、映画館に入るカネもない人は、映画における底辺描写を観ることも出来ないわけで、この種の作品は、一般観客にとって小市民的優越感を感じさせる効果があると言うべきなのかどうか。

監督としては「いかに面白く見せるか」ということに力点を置いたように思われ、原作が原作ですから単純に1950年代のマルクス主義好みを反映しているだけのようでありながら、もしかしたらそういう傾向自体への諷刺になっているのかもしれません。

実年齢相応の色男(女難の相あり)という自然体な役で三船37歳が登場すると生来の人のよさが光を発し、あまりにも見事に尾羽うち枯らした人々の毒舌合戦が役者同士の楽屋における会話のようで、明るく見えてきたりも致します。「そうよ。盗ッ人よ?」ああ笑顔が可愛い。(でも口説き文句は最低)

物語がある程度進行してから三船が暗がりから登場するのは『椿三十郎』でもやってましたが、思えば黒澤さんは能楽の素養があるわけで、「シテ」の登場を意識しているのかもしれません。そう考えると、とんだ能舞台です。(どこを掃除するんだ)

『蜘蛛巣城』のように三船だけを徹底的に追ったという話ではなく、複数の登場人物がてんでに勝手なことを言うのは、もちろん『生きる』を連想させますが、ぽつりぽつりと漏らされる各人の背景と現在の言動が一致している。

昔は羽振りがよかったという人は、今でも弱い人への思いやりが浅く、わずかでも優越感を味わいたがり、女たちには好きこのんで女に生まれたわけじゃないという怒りがある。

鋳掛屋といえば夫婦ものなわけですが、台所用品を修繕する職人ですから、本来は町から町へ歩いて民家を訪ね、仕事をもらうもののはず。けれども病人を抱えているので身動きが取れない。苛立ちがあるから怒りっぽくなっている。そうかといって見捨てて逃げもしないわけです。

「殿様」は今でもちょっと抜けたところがあり、斬った張ったの渡世人は世間を知っている。謎の爺さんは、たぶんあの歳でこれだけの演技の場を得るのは役者冥利だったことでしょう。(※ 左卜全、63歳。改めて調べてみると実年齢より老けた役を演じているようです)

撮り方としても、画面の外から声を響かせてみたり、主役級の俳優に後ろを向かせてしまったり、面白い構図を試しております。終盤は観てるほうが「山はあったが落ちるのかこれ?」と変な心配をしてみたり。

なお、黒澤作品は良くも悪くも男のナルシシズム全開なわけで「女はなに考えてるか分からなくて気味が悪いし、めんどくせェ」という心の声が聞こえてきそうですね。

(レンタルビデオ店のポップには、木下を評して「黒澤と人気を二分する」とあったんですが、なにも二分せなんでも両方観ればいいと思います)



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