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BLは、男性中心社会における既成概念の追認にすぎません。

BLと呼ばれるようになった表現分野については「男性中心社会を否定しているのか、肯定しているのか」、まさにマルクス主義的な議論が行われていたわけですね。

けれども、実態は「男性が権力をにぎると、異性ばかりか自分の後輩にまで性的な意味で手を出すことがある」という伝説に依拠しているにすぎません。

また、かならず男女の真似をするというステレオタイプに基づいている。その際、年少者のほうが女に見立てられるというのも、古来より世界中で共有されて来た約束事です。

義兄弟の契り・ブラザーフッドというのは、本来は文字通り男と男のお約束というだけのはずですが、ときどき、立場の差を利用して性的欲求を満足させるということがあったのでしょう。

成人儀式として制度化されていた地域もあるといいますから、あながち「結婚(子作り)を強要された同性志向者が、やむを得ず起こした事態だ」とばかりも言い切れません。

簡単にいうと、ストレート男性による「いたずら」の一種であったことを否定しきれません。

とくに、ここ重要なんですが、女性の自己決定権が、少なくともその父親の権威によって保障されており、若者たちにはおいそれと手が出せないという時、彼らの後輩が犠牲になるのです。

女郎というのは女性にとっては辛い職業ですが、客にしてみりゃ「ただ」というわけには行かない。逃げようとすれば彼女の雇い主(と契約している地廻り)によって、えれェ目に遭わされるわけで、そういうリスクを取らずに済むのが後輩相手なわけです。

神話・御伽草紙などは、この関係を、若年者側の感情を無視して美化したものです。

ヒュアキントスというのは、呉茂一に全面的に依拠すれば、もともと(大地の女神の息子である)植物・穀物の神様だったんだそうで、それが同じ属性を持つ外来神であるアポローン(を信仰する人々の勢力)に負けたので、弟分ということになったんだそうです。

実際に「負けた」と感じたヒュアキントス信者の悔しさが時代とともに薄れたところで、美しい伝説だけが残ったのでしょう。

とすると、これは一種の民族同化政策の美化なわけで、男女であれば被支配民族の女性が支配民族の男性を喜び迎えたとなるところですから、義兄弟関係でありながら男女関係を連想することも容易に起こり得るわけです。

異性志向男性が読んだ時にも違和感がない範囲で、すなわち女役の若年者がもともと相対的に女性的であることを利用して、ホモソーシャルをホモセクシュアル化し、美化された情趣だけを消費するということは、もう何千年も前から男性が実行してきたことだったのです。

それは女性の発明ではありません。たんなる男性社会の既成概念の一つです。

ほとんどの男性にとって、若者の相対的女性性が利用されたという伝説が現実だったとは信じがたく、現実であれば仲間の不名誉であり、歴史の恥部だから、あまり言及しないだけです。

それを若い女性が知ったというのは、純文学も古典芸能もろくに知らなかった子どもが漫画を通じて「大人の世界を知った」というだけであり、既成概念を確認しただけであって、なにも否定したことにはならないのです。

むしろ彼女自身が男性中心社会の価値体系に組み込み直されただけなのです。だから、女性の人生も、なにも変わらないのです。女が男のやることに少し詳しくなったからといって、自分の宿題さぼっていい理由にはならないのです。

【宿題出さなかった子】

男同士に興味があるといえば自分自身の課題から逃げられると思うなら、プロレタリア人民のためと称してフォークダンスしていたのと同じことです。(参考:大島渚『日本の夜と霧』)

宿題出さなかった子は、たんに宿題出さなかった子であって、気がついたら成績が低下し、同級生に置いて行かれていたということになるのは当たり前です。

この場合の宿題とは、本人の価値観にしたがって、結婚でもいいし、出世でもいいです。出世するには外国語を勉強したり、資格を取ったりする必要があります。師長になるには、まず看護師の資格が必要なように。

それをやらずに、男同士のことが女性的に描かれた欺瞞的な創作物ばかり読んでいても、現実には何の役にも立たないわけです。これをフェミニストがちゃんと言わなかったのは、いま思うと罪深いことだったと思います。

それは本来、成人女性による老後の楽しみというものだったのです。森茉莉は離婚後の独居中年。竹宮恵子たちは1970年代当時としては結婚適齢期を逃したという他なかった二十代後半。

彼女たちは、その後もその種の物語を描くことで自活して行けるかもしれない。休みさえ取れれば女同士で海外旅行に行ったり、ロックコンサートに行ったりできるかもしれない。

でも年端も行かない少女たちがそのような暮らしに憧れるのならば、まずはきちんとした創作テクニックを身に付けて、プロデビューする必要があるのです。そのための修行期間を、ヤマも落ちもないアニパロを読むことだけに費やしてはいけないのです。

なお、アニパロで一生食っていけると思うことは(放送禁止用語)です。そんな夢を見ることができたのは、1988年頃のバブル景気の時だけです。あのころ実際に少女だった世代というのは、ものすごく人数が多かったので、同級生に支えられて「うまく」やっているような気分になることができたのです。

そもそも学生の間は「親がかり」です。それが「同人誌」を売ることによって数千円でも手にすれば、すごいお金持ちになった気分を味わうことができる。けれども一人暮らしとなれば、月に十万円あっても足りません。

卒業するまでに、最低でも親がなくなる前に、他の定職につく(ために資格を取る)か、プロデビューしてヒット作を持つ必要があるのです。

【きみが面白がることじゃない】

BLを何冊読んでも男性中心社会を批判してやったことにはなりません。それはストレート男性にとっても、ゲイ男性にとっても、なんの関係もないフィクションです。

女性読者から「男って本当にこういうことするんでしょ」と言われた男性は、たんに金井湛くんの父上のように「うむ。そんな奴がをる」と答えるだけであって、女性の自立にも支援にも何にもなりません。

女性が「ほら御覧なさい」と鬼の首を取ったような気分になっても、たんなる彼女の自己満足です。

彼らがそれを男性の特権であり、自分自身ではなくても仲間の自由の象徴であり、彼の意志は尊重されるべきであると考えるかぎり、女性に遠慮して自粛しよう・させようなどとは思いません。

むしろ女性に対して「そんな奴もいるが、きみが面白がることじゃない」と説教できる立場です。

BLファンの女性は、あくまで自分自身の身にお見合い話や危険なお誘いが振りかかって来た時に、他の女性と同様に自分自身の意志に照らして個別対応するだけであって、BLを読んでいることは、誰の参考にもなりません。

それはあくまで既成の男性社会によって承認された範囲における女性のナルシシズムを満足させるように調整された男の物語であり、フィクションであり、舞台劇の一種であり、見世物であって、「女みたいな男を見物する」という趣味にすぎません。

【間違った前提】

男性が描いた女子マネージャーは可愛くないから、または魅力的すぎるから感情移入できないからといって、男同士を読める理由にはなりません。

あえて例えれば、海老が食えないからといって蟹が食えるとは限りません。蟹もきらいな人はどっちも食わないだけです。飛行機が怖い人は船に乗るかというと、船酔いする人は船にも乗らないだけです。

仕事でやむを得ず船に乗る人はあっても、せっかくのお給料を読みたくもないBLを買うことに使う必要はありません。

BL論の弱点は、BLを読む人は少女漫画を読まないという排他性が無反省に前提されていることであり、少女漫画を読めない人はほかの何かを読まなければならないという強迫観念に支配されていることです。

この根本にあるのが「資本主義が超克されて共産主義になる」というダーウィニズム準拠的マルクス主義的段階的発展論なわけで、それに首まで浸かっていた世代が、いまの40代の大学教員たちの指導員だったわけですよっ。

けれども、もともと創作物なんですから、現代女性の自尊心を傷つけない女性キャラクターを自分で描けばいいのです。それが本当の女性の自立です。それを男に読まれてしまうというなら、どんどん描いて売ってやればいいのです。男より金持ちになれるでしょう。

けれども、どんなに女性として満足しても、満足されない趣味がある。受身の男性という特殊なキャラクターを消費することです。この要素があればBLで、なければただの少年漫画、またはイケメンが出てくる少女漫画です。

むしろ女性として満足したから、次の娯楽的選択物として、それまで目に入らなかったものが入ってくるのであって、男性の創作物を消費する順番としても、文部省(当時)推薦的なものを読みつくしたので、全集に挑戦したとか、文庫を買いそろえてみたという時に「あれ? 珍しいことが書いてある」ということが起きるわけです。

そこで「女の子みたいな男の子がいるなら会ってみたいわ」と思わないことには、彼のようになりたいと思うこともないし、彼に恋したことによって破滅する男に感情移入するということもない。

すべては、彼女自身が異性志向の女性として、女の子みたいな男の子に憧れたことによって起きることであって、あくまで女性の自認が確立している者が「女の子みたいな男の子って可愛い」と言っているだけであり、本人が「女の子は可愛い」と思ってりゃ、ごくシンプルな三段論法によって当たり前の結論にすぎません。

そしてこの女性の「ナルシスム」と異性への関心が両立できるから、女形出身の剣戟俳優は女性観客に人気があるというのは、1970年に生涯を閉じた三島由紀夫が生前に書いていたことであって、それはちょうど森茉莉がその趣味の三部作を立て続けに発表していた頃でもあって、もうその時点で答えは出ていたのです。(参考:『第一の性』)

(たま~~にストレート男性のBL読者もいるそうですが、これも基本的に「可愛い女の子みたいな男の子って可愛い」という趣味であると思われます)

【価値観の共有】

BLは世界中の男性が共有する「少女漫画みたいな顔した男はホモになる」というステレオタイプを流用し、男性のお相伴に預かっただけであって、男性の価値観から一歩も出てはいないのです。

だからこそ、それは「少女の内面」なのです。男性の価値観に従い、従属的な立場・補佐的な業務に甘んじ、自らの名において責任を取ることを免除されていることに安んじ、自分自身の選択にすぎないアニパロ同人活動を男性社会に操縦された母親の育児方針に責任転嫁し、自分より差別されているゲイの面前で自己憐憫に浸る。

だからこそ「BLしか読めない」といえば、女性として現実に参与することを拒否し、引きこもりたい気持ちを表現できると思う人もあるのです。

けれどもBLだけ読んでいても、ほんとうに何も起こりません。

男性がBLを読んでいる女の子を可哀想がって自分から優しくなってくれるということはありません。社会がBLファンのために自ら変わることはありません。

女が自分自身に与えられた課題を「人権侵害・時代錯誤」として批判し、政府・企業・社会に対して、自立に必要な賃金と安全を保障しろと要求したいならば、必要なのは男同士を眺めることではなく、ほかの女性と共闘することです。

【BLとフェミは一線を引いた友軍】

フェミニズムの本義は男になることではなく、女性として社会進出することであって、もし女性が男になったら男の真似をして若者を搾取するのであれば、男たちは全力でこれを阻止するのが正しいことになります。

だから「BLを読むことを通じて、男になって男を襲ってみたい気持ちを養っている」と抜かすBLファンは(もしそんなのがいれば)フェミニストにとって鬼門となります。

逆にいえば、フェミニストが男性の横暴性を弾劾し、男が自分の後輩を搾取すること・それを美化したイメージを共有することを深く反省させ、諦めさせてしまえば、BLは根拠を失うのです。

具体的にいうと「男が若者を搾取する物語は旧式なので、もう誰も描いてはいけません」ということになって、BL派にとって「女の敵は女」という話になるのです。

いっぽう、女性が男のような服を着たり、自由に創作物を選択することが「生意気だ」という理由で禁止されたり暴力を受けたりした時は、あくまで「男性差別しないでください」ではなく「女性差別しないでください」ということになりますね?

たんに「暴力反対」というだけなら、喧嘩の苦手な男性とも連帯できますが、女がズボンをはいてはダメだとか、女なら化粧して俺たち弱い男にもサービスしろとか言われた時には、やっぱり「女性差別しないでください」になるのです。

歴史ファンタジー的に例えていうと、「女性の尊厳」という城砦を守るには全ての女性と協力するが、城門を開いて「横暴な男性の首を取りに行こう」という遊撃隊には参加しないみたいなもんです。

【BLとゲイは別】

上記のようなわけで、BLとフェミは根っこが同じです。ただし戦略の方針が違うのです。じゃあゲイは?

あえて極端な例えをいえば、同性志向男性がいなくなったとしても、BLはなくならないのです。

なぜなら、前近代(を引きずっていた旧華族)の妻帯者が部下に手を出した・近代初期の学生が後輩に手を出した・しかもその後で妻帯したという伝説がある以上、現代の女性が「描いてみた」ということは、また起きるからです。

だから、ゲイを弾圧したい人、しかもBLも弾圧したい人にとっては二面作戦です。ゲイ側・BL側は、それぞれに個別対応です。連帯してもいいですが、しなくてもいいです。したほうが「お互いの足を引っ張る」ということもあり得ます。

1989年に「1.57ショック」ということが起きると、ちょうどエイズ恐怖による迫害に対抗してゲイコミュニティが露出を強めていたので、またそれに一般社会のほうで対抗して「男がみんなホモになったら子どもが生まれなくなって困るじゃないか」という危惧と、「女がみんな男になったら子ども(以下略)」という危惧が二人三脚になってしまったのです。

それに対抗して、ゲイと女は一蓮托生で連帯できると思ってしまう女性もいたのです。

けれども、ゲイに言わすと「美少年だけが男から愛されるのでホモになる」という偏見を強めたBLは、彼らの敵なのです。まして連帯と称してゲイバーをのぞきに来て、変な質問をする女が増えたのは、いま現在も本当に迷惑しているのです。

だから、ここは本当に「別」にしておくのが基本です。

【おまけ:二次創作の発生】

いったん「昔の日本ではそういうことがあった」と知った以上は、じゃあ現代では? 外国では? 未来の宇宙軍では? と連想が生じるのは人間の脳の性質として当然です。

だから、なんでもBL化という創作想像は、わりと容易に脳内に発生するのです。

あとはそれを表現する技術・発表する場があるかどうかということで、文字または絵として紙に定着させた時点または売り出した時点で、「女のくせに」と言われるか「ストレートのくせに」と言われるかで、クレーム返しする相手が変わるわけですね。

ゲイから見れば、BL表現は古いステレオタイプの焼き直しにすぎず、偏見の再生産でしかありません。

かつての評論家は、結婚したがらない女性が異性婚絶対主義社会に提出したアンチ・テーゼであるはずの同性愛表現が、ひじょうに異性愛的であることを不思議がったわけです。

けれども、それはもともと異性愛男性の価値観に合わせて調整されたフィクションであり、女性はその価値観に従属したにすぎないのです。

BLを何冊読んでも、女性は百年前のストレート男性の陰に隠れて、彼が若者を搾取する姿を見物しただけであって、同性愛を理解したことにも、ゲイを理解したことにもなりません。

絶対に、ゲイコミュニティのほうから連帯したがることはありません。



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Misha

Author:Misha
スマホ時代にさからう評論系長文ブログ。冷静に通読できる大人の読者様を想定しています。

「若い人」に直接呼びかける文章は、18歳以上のヤングアダルト対象です。高校生は受験を最優先してください。

書く人は、新旧とりまぜて映画とアニメを見ながら文芸書に取りくんでみたり、昔の漫画を思い出したり、お国の先行きを心配したりしております。

記事中の色つき文字は、映画中の台詞・挿入歌からの引用です。あらすじは、あまり申しませんので、楽しみに御覧ください。取り上げる作品は、暴力・エロスなど特殊な要素を含んでいることもあります。

ときおり、耽美・BL・同人・LGBTに言及します。いずれの分野からも、偏見と差別と自虐がなくなるといいと思っております。

「二次創作の責任を二十四年組に押しつけるな」「実在同性愛者に甘えるな」が基調です。

全体として、二十四年組ファンが社会学者に物申すという珍しい構図。一部勘違い同人を叱責することによって全体を守るという意図もあり、ときにかなり辛口です。

記事は時々予告なく手直し・削除・分割しております。保存は個人的閲覧の範囲で、お早めに御随意に。転載・改変利用は固くお断り申し上げます。

解題


Casketとは、玉手箱。

でも検索すると棺桶がならびます。来世まで持っていきたい好きな作品の記録帳とご理解ください。