1956年10月、市川崑『日本橋』大映

  20, 2017 11:00
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芸者の操。あなたお笑いなさいまし。

製作:永田雅一 企画:土井逸雄 原作:泉鏡花 脚本:和田夏十 撮影:渡辺公夫 色彩指導:岩田専太郎 照明:柴田恒吉 美術:柴田篤二 音楽:宅孝二 助監督:増村保造

春で朧で御縁日。映画は大映。昭和31年度芸術祭参加作品。淡島千景、絶好調。山本富士子・若尾文子そろい踏みの美女ドラマ。楽しい仕事だったにちがいない監督、41歳。

1956年という制作年が信じがたいほど美しい「大映カラー」撮影で、変幻自在の照明に幻惑されます。音楽の使い方も抜群。原作にはほぼ忠実。占領時代を脱して文化的蓄積を誇ることのできる喜びを原動力に、さらに新しい展望を開く、ひとつの頂点を成しているかと思われます。これは映像をこころざす人は観ましょう。イラスト描きの参考にもなると思います。

実写ライクなアニメを完成形に導いたのが宮崎駿なら、アニメライクな実写という世にも稀な技法を完成させたのが市川崑。こういう人らがいるんだから日本でアニメが盛んなのは当然です。ディズニー様には足を向けて寝られません。

いろんな意味でアメリカという大きな傘の陰で成長してきた日本戦後文化ですが、映画だって文芸大作の裏には無国籍やピンクがあったわけで、アニメ業界の裏通りみたいなところをバッシングしても、たいがい無益です。それはともかく。

弱い男と強すぎる女。泉鏡花の独特な口調を完全再現した脚本は、やや唐突に濃い会話に突入いたします。

世界観の説明など今さら必要ないというわけで、かぎられたセットの中で明治時代の日本橋界隈の「みみっちい」人間模様を描く小市民劇にすぎないわけですが、もともと画家志望でアニメーションに習熟した監督の演出センスによって、後のミステリーを(逆に)髣髴させる華麗なサスペンスタッチなのでした。

市川さんの独特の編集センスと、音を演技の中から拾うのではなく「かぶせて」行く使い方は、実写監督としてはいかにも独特ですが、やっぱりアニメの手法なのでしょう。

お話のほうは、お考さんの清葉さんへの対抗意識が何によるのか明示されておらず、ここで和田慎二『スケバン刑事』ってのもあれですが、男性創作家が女同士の(根拠のはっきりしない)確執を描くことは時々あって、彼自身における「百合」趣味の一種なのだろうと思います。鏡花だし。

千景は女盛りの32歳、弾丸トークと言うべき気風の良さで、身ごなしの美しさは申すまでもなく、こういう女優が少なくなったと言いたいところですが……もとより、3歳から日本舞踊を身につけた宝塚娘役トップは花の中の花、玉の中の玉。

相手役は学生時代に「ミスターニッポン」に選ばれた素人だったそうですが、長台詞とむずかしい情感をこなす演技派でした。

『西鶴一代女』同様、物語の結末が仏道に入ることになるのは能楽を連想させるところで、僧侶の退場シーンを彩る笛が印象的です。

なお、後には洞窟へ入ることの多かった川口浩が子役で登場しております。赤ちゃんも可愛いです。

【以下、細部に言及するので未見の方はご注意ください】





お話はお考さんを主人公として時系列に沿って語り進める形に仕立て直してあり、彼女は芸者衆の棟梁として一家を構えているわけで、いまさら「女らしいことを覚えて嫁に行け」なんて叱られることはないのです。自立した女性なのです。だからこそ、いやな男につきまとわれるという苦労をしている。

そう思うと、原作は古いですけれども現代的な主題を持っている。ただし意地を通そうとする女と我がままを通そうとする男は、どっちも悪役として滅んでいく。

最後に残ったのは、老幼を守るために働く女性。もともとどっちの男も清葉さんの母性的なところに惹かれたわけで、それが母性的すぎて同情に流されたというのではなく、登場しない男性への操を貫いたことが称揚されている。

女が一家の大黒柱になるというのは常識の逆転であり、男女どちらにとってもロマンかもしれませんが、お前も頑張れと言われる若い女性にしてみりゃ面白い話ではなく、これで少しは家族を養う男の苦労が分かったら「いい子」になれという話でもある。

といって、男性が喝采するチャンバラ・アクションでもなく、いったい誰が観に行ったんだろう? と考えると、現代にも通じる市民劇を時代劇の衣装で演じるという、見た目にはロマンチックだけれども、お話としては地味な文芸作品が通用した時代があったことが、むしろ不思議なくらいです。

日本の女性は明治時代に歌舞伎役者をもてはやしたという話があったり、昭和初期の「モガ」の写真が残っているくらいで、わりと自由度が高かったんですけれども、やっぱり農村部や地方都市の自営業者の夫人たちは忙しかったはずです。実際に一日の休みもなく老幼の世話をしていたはずだし、映画中にも登場するような厳しい姑・小姑もいたに違いない。

女同士の対抗意識ということを考えてみても、「お素人」の女性が粋筋に見とれたり、なりたいと言うかというと、綺麗な着物を着られるからといって、男性が考えるほど単純ではない。

いっぽう、男のほうも「あなたに対して失礼な気持ちを持っていたことを懺悔するから、やり直させてください。正式に妻になってください」と言ったっていいのです。

彼は結局のところ、お姉さんが最優先であって、清葉に憧れたのもお姉さんに似ていたから。お姉さんの代わりに彼女に堅気の暮らしを与えたかった。清葉にも、お考にも、本気じゃなかった。赤熊ほどなりふり構わぬようにはなれない。

さらに言えば、お考の気風の良さの下に敷かれることを本能的に避けたのかもしれない……。

インテリの偽善。成金の倫理意識の低さ。意地を守るために現実放棄してしまう女。最後までブレない女。ついでといってはなんですが、おじいちゃんの存在を恥ずかしがらずに世話をする娘。

女性を主人公にしているけれども、やっぱり男性目線による女性の強さへの憧れと、逆説的なナルシシズム表現なわけで、だからこそ、1960年代に入ると、一風変わった女流小説が登場し、それを男性目線創作物へのアンチテーゼであるとするフェミニズム批評的解釈が、1980年代以降、まかり通ったのであったでしょう。

【逆転させてみる】

女流作家が美男をそろえたホストクラブの物語を書いて、その美男に付きまとう女性キャラクターが何人か登場するのです。自分勝手な理屈をいって、同情を引こうとして居座る。うわ~~。それを女性監督が撮る、と。

この構図から女性キャラクターを削ぎ落としたのが、実際に現代に見られる女流作品なら、女たちは自分自身を諷刺的に描くことを好まなかったのです。

男性の自虐的露悪的自尊心と、女の「自分のことは棚上げ」という欺瞞的自己愛。対比させるなら、ここです。


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