【清盛語り】いっぺん出してみたらいいと思う。

  13, 2012 09:27
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旧作を叩き台に今更なことをクドクド言うのは当ブログの(以下略)

映画『自虐の詩』では、映画で観るかぎり、阿部ちゃん演ずる葉山の東京時代と大阪時代のファッションセンスの違い・行動のギャップについて、説明されていない(笑)

長髪と黒革でゲームヒーローのように決めていたのは「辛すぎて頭に虫がわいた」ゆきえちゃんの妄想かと思われたが、そのまま続きがあったので、彼らにとってのリアルだったらしい。その男が惚れた女のために髪と小指を切って、地味なセーターなんか着て、ごくふつうのカタギらしくなったところまではよい。
それがどーしてああなってしまうのか(笑)
「すべてを愛しています」と告げて足の爪を磨いてやっていた男が、どーしてチャブ台返しになってしまうのか(笑)

「釣った魚に餌は要らない」ということがあるから、数年も同棲するうちに本性が出たのだろうと「なんとなく」理解したような気分にはなれる。
ファッションセンスについては、住んでいる街に感化されたってことなのだろうし、元々感化されやすい男なのかもしれない。
それにしても痛い思いをしてまで足を洗った男がまたどーして、いつから、若者を従えて「兄貴」と呼ばれ、パチンコ店と喫茶店でクダを巻き、という生活になってしまったのか。東京時代は一匹狼っぽかったから「昔に戻った」ってわけでもない。しかも盃は受けないというのだから、立場としては「しろうと」なわけで、かなり危ない状況のはずだ。

元々日本の娯楽作品は整合性を気にしないところがある。「花川戸の助六じつは曽我の」とか普通だ。「いつの時代の話だよ!?」というツッコミ無用だ。
宇宙戦艦の艦長だけが異様に時代がかった軍服を着ていたり、地上勤務者である藤堂長官が航空機搭乗員みたいなマフラーをしていたりする。

『2001年宇宙の旅』は、ミッドセンチュリーが考えた近未来ではあるが、その作品世界中では「部分的に時代錯誤」ということはなかった。洋画だといろいろな様式がゴッチャになっているのはB級扱いだ。

進化論・時間が一方通行の西洋と、霊の世界がいつもこの世の隣にある日本的感性の違いとか、庭園を直線で構成したがる西洋と、大陸渡りの趣味にナチュラルテイストを盛り込むのが好きな日本との違いとか、説明はいろいろできそうだけど、ともかく、

アルセーヌ・ルパンの孫の仲間が今どき袴着用・日本刀所持者だったりする、そういう自由な発想から日本のアニメの隆盛があったことは間違いない。「なんでもあり」の集大成みたいなのが勿論『ワ◯ピース』だ。

『自虐の詩』も今回の大河ドラマも、つまりそういう「その場面だけカッコよく成立していれば前後の関係は説明しなくてよい」「どっかで見たような状況が再現されており、既視感の中で安心して楽しむことができる」というスタンスで出来ており、それを受け入れることのできる層、つまりマンガと、それを文字で表現したというべきライトノベルを読んで育った層にウケている。面白いところを突いたといえばいえる。時代劇の新しい方向性を示したともいえる。

清盛と信西、清盛と義朝の友情ロマンありきで突っ走っちゃったから、史実がそれほどでもなかったことと整合性がとれておらず、「貴族以上の都合で武士以下が泣かされない世の中をつくろう」と約束しあっていたはずの割には、清盛が熱い友情にもとづいて動くべきところで動かない(たとえば信西のために平家の金で大学寮を建ててやるとか、義朝の待遇について信西にうるさがられるくらい掛け合うとか)ので、清盛の人間性がいまいち不明なままだ。大胆さと臆病さを兼ね備えているというよりは、頭が廻転していないという感じだ。

でもそれでいい、「俺は無力だーー」と若い男同士が泣きながら戦う絵ヅラを観て女性視聴者が喜ぶ、というつくりになっている。で、おそらくそれがモニターの数字に表れてきていない、と。

……それならそれで、「なにこれウケる♪」と思ってくれる視聴者が何人いるのか、似たようなドラマをまた作ってもやっていけるのか、調べたらいいと思うんだけれども……
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