BLは純文学と漫画とアニメを混合させたプチブル文化です。

  30, 2017 11:04
  •  -
  •  -
1949年に三島由紀夫の自伝的小説があって、1961年に森茉莉の空想的小説があって、1971年にヴィスコンティの映画があった。

それより前に「一人でアニパロを思いついて同人誌を発行していました」という人がいるなら見せてくださいってことですが、1971年の時点では、まだアニメのほうが成長していないのです。

今でいう二次創作BLというものは、無知な少女が少年漫画を読んでいるうちに、ある日とつぜん組み合わせることを思いついたというものではありません。残念ながら、トランスゲイの自発でもありません。

文学(に基づいた映画)の流行を受けて、一部の女学生による文芸サークル活動の中から「お耽美」の流行が生じ、それを成人した女流漫画家が漫画作品に取り込み、それを見た漫画同人が私たちも描いてみましょうということになった。創作物から創作物。二番煎じの二番煎じ。そういうものです。

そこへ、ちょうど同じタイミングでSFアニメ映画の流行が起きたのです。不幸な偶然の一致です。

今なお「そこだけは混ぜてほしくなかった」と思っている方も多いことでしょう。

なお、同人活動というのは何よりも文章を書く活動ですから、男女を問わず例外的に学業成績のいい人の活動です。市川崑映画『鍵』(1959年)には「若い娘が頭がいいとほめられるのは器量が悪いと言われるのもおんなじだ」という台詞が出てきます。(開始22分くらい)

「美人=おばか、不美人=学業成績がいい」というのも、だいぶ古い二項対立的ステレオタイプなのです。

それが1970年代以来、漫画という表現手段を得たので、子どもじみた「お絵かき」と耽美的・悪魔主義的描写が両立してしまうという異常事態が生じて、これに評論家のほうでついて行けなかったのです。

【混合文化の土壌】

もともと日本の文化は土着のものと海外由来のものの混合です。人間自体が大陸から渡ってきたのですが、島として分離してからは、自然環境的必然に基づいた土着文化が育ったと言っていいでしょう。たとえば黒曜石の利用とか。

その後、波の荒い東シナ海を乗り越えて交流が生じたのです。後には太平洋の向こうからもお客さんがいらっしゃいました。呼んでないんですが。

国内市場と国際情勢のダブルスタンダード間の調整によって、鎖国したり、産業革命がうまくいったり、戦争が始まったり、分割統治されずに主権を回復したりして来たわけです。そのたびに庶民文化も化学反応を起こしてきました。

戦後の銀座で純文学者たちが丸山明宏を取り囲んだのは、やっぱり「自由な時代が来てよかったね」ってことだったのです。男の子が化粧してシャンソンを唄える時代が来てよかったね、もう戦争なんてやだねってことだったのです。三島の小説も「戦時中にはこんな話できなかったよね」ってことだったのです。

【ストレート同士の連帯】

男性作家における「アブノーマル」の流行に女性が共感したなら、戦後女性の自由と戦後ストレート男性純文学者の自由の連帯です。ゲイ文化を理解したことではないのです。

あくまで、ストレート男女が自分より強い者(戦前生まれの権力者)に対抗する気持ちを表現する象徴として、男装の麗人や、中性的な男性、さらには受身の男性という表象を利用したのです。

女性は、それまでは男性と連帯できると思うことができなかったので、同性愛・少年愛を共有することで自分も一人前になれたと思って興奮してしまうということがあったのです。

今なお、女性がゲイバーへ乗り込むと、何をしてもいいような気分になってしまいやすいのです。自分自身に無礼なことを言ったオヤジの真似をして、ゲイに無礼な質問をすると、自分も強くなったような気分になってしまいやすいのです。

「心は男」と称すると、なんかカッコいいような気分になっちゃうのです。が、若い人に言わせりゃ、心が男な女は、ただのオバサンだそうです。

いまから見ればずっとお上品だった1950年代・60年代当時、三島などの作品は、表面的には庶民の好奇心を呼んだだけだったでしょうが、当時としては、その好奇心のままに行動できるということがすごいことだったのです。

もう軍部(を意識した隣近所のルサンチマン)を恐れなくていいというのが有難いことだったのです。

だからこそ「自分だけ満足しない」ということが重要になります。国民の権利は平等だからです。

【少数派の自治権】

純文学と漫画とアニメの混合は、文化の歴史であり、その記録を抹消し、なかったことにしようというなら、歴史家はこれに反対しなければなりません。

けれども、抹消しようという勢力がなければ、それで終わりです。もともと例外的に教育を高めた女学生の中の、さらに少数派であって、どう頑張っても主流にはなれない。無理に露悪的になって破壊工作を試みなくていい。少数派として一定の地歩を保持できればいいわけです。

マイノリティの自治権の保障であり、多様性の尊重であって、少女漫画というマジョリティからBLというマジョリティへの革命的移行という話にしなくていいのです。

もともとBL論というのは、端的には「1.57ショック」をきっかけに、フェミニズム運動を見直す気運が生じ、女性の自由行動の行き過ぎを諌めるという意味があったわけです。

だから、それに対して1970年代以来のヴェテラン作家による自己弁護的な解説本の発行と、実在ゲイコミュニティからのクレーム行動と、フェミニストによる過剰防衛的弁明が打ち続いたのです。

つまり、すでに起きたバッシングに対する抵抗運動であり、勢いは強いけれども、本来の目指すところは少数派の容認であって、社会の転覆ではないのです。

この発想は、マルクス主義に首まで浸かってると、出てこないのです。どうしても従来しいたげられて来たプロレタリア人民(=女性)が天下を取るというトロツキズム路線に乗せなければならない気分になる。

急進的フェミニストってな、どう考えても新左翼系です。あえて例えるなら、BLってのは穏健派です。左翼の一角として一定数の議席を保持し、表現の自由の権利を行使するってなことになります。

ふたたび戦争のために生めよ増やせよということになれば、女性の自由は制限されるのです。その意味では「自由にBLを読んだり描いたりできる」というのは、反権力であり、反体制です。体制が戦争を志向するものである限り。

逆にいえば「政府が平和主義であるかぎり、BLは現政府を支持します」ってことになるでしょう。

もともと、サブカルはプチブルのものなのです。最初から、否定しているのでもなく肯定しているのでもない、欺瞞的順応性を示しているのです。(それを急進派がプロパガンダに利用したので、ちょっと無理が生じたのですね)


Related Entries