もしも未婚者が既婚者をゲイバーへ案内したら。

  31, 2017 11:01
  •  -
  •  -
最初のうちは既婚者が「こんなの初めて」と興奮するでしょう。未婚者は都会を案内してやった気分で鼻高々でしょう。

が、やがて既婚者が「私、じぶんが恵まれていることが分かったわ。うちへ帰って旦那と子どもにごはん出してやらなくちゃ」って言うのです。

すると、お店のおネエ様たちも「そうよ。それがいいわよ。せっかく産んだ子どもを大事にしなさいよ」って仰るのです。

ショーを観て終わりにするのではなく、自慢してやるつもりで個人的に親しいゲイボーイさんを紹介してやって、話がはずめばはずむほど、まだまだいろいろなご苦労があることが見えてきます。彼らが自分の寂しいのを我慢して、女性客に気を使ってくれていることが分かってきます。そこはもともとホストクラブではありません。

そういうことに先に気づくのが既婚者です。おカネに換算できない場面で舅・姑や、夫や子どもや子どもの友達の親に気を使うことに慣れているからです。ビジネスライクに「カネを払ったぶんは遊ばせてもらう」という考え方にならないのが既婚者です。

既婚者のそういう気づかいの上手い姿は、安野モヨコ『働きマン』にも描かれていましたね。

郊外にある自宅から、都心へ出て来て、繁華街に案内されれば、最初のうちは「たまにはこういうのも気楽でいいわね」って言うでしょう。でも、いつか必ず我に返る時が来ます。

彼女はおネエ様たちと「がんばってね」「あんたもね」とエール交換するでしょう。そして帰って行くでしょう。未婚者は、かやの外です。

いいですか? これが「話に落ちがつく」ということです。

「最初の思いつき→お店で大フィーバー(あえて古めかしく)→皮肉な結末」です。

映画なら、ここまでで30分。あなたなら、どんな話を続けますか?

一念発起して、シングルの権利のために闘う弁護士になった女のサクセスストーリー? 社会全体を恨んで劇場型犯罪者になった女の転落人生? ゲイバーの片隅に居座って愚痴を言い続ける女? それとも、身近な人を見つけて、農村生活の苦労を買って出るという逆説的な自立した女の姿? 古い映画にありそうですね。

過去は変えられません。未来の選択肢は複数あります。

「山も落ちもない」という言葉を真に受けて、自分にとって面白い場面ばかり書いたり読んだりして来た人は、現実においても考えが浅く、先行きの見通しが悪いことがあります。クレームもその場の脊髄反射で、言いっぱなしです。

「だからなんだ? 侮辱するのか? このツイッター廃人め」と言い返されると「いや、そんなつもりじゃ……」となってしまう。だってお母さんが……と言い訳を始める。恥の上塗りです。

もともとBLというのは女性の自己中心的な興味を満足させるための創作分野です。正確にいうと、昔の男性が発表した小説や映画に部分的に注目すると、自己中心的な興味が満足できることに女性が気づいたので、再生産することにした。それをくりかえしている。それだけです。

昔は「バーチャルリアリティ」なんて言葉も概念もなかったので、本気で自分のことを「男になった」とか「生まれつきトランスゲイだった」と思っちゃう人もいました。実際には創作物によって一時的に解放的な気分を味わっているだけですね。それはそれでいいです。もともと創作物ってそういうものです。

そういう解放感を味わいたがるのは不美人だけとか、何々できない人だけなどと決まってもいません。決めてしまいたがる人は自分自身が権力的な気分を味わいたがっているだけです。

だから美人がBLを読もうが、レディコミと並行して読もうが、そこは自分の勝手ですが、そういう創作的満足を現実に持ち込んでしまうと、不具合が起こるのです。

創作上の自分勝手と、現実の自分勝手は、やっぱり違うのです。

なお、自分自身を「新宿二丁目の伝道師」とでも称して、既婚者にセカンドライフの楽しみを教えてやる客引き係に位置づけることもできます。自分をそのために生まれて来たと思い込んで、開き直ってしまうこともできます。が、ゲイコミュニティのほうで頼んだ覚えはないと仰るでしょう。

なお、既婚者・未婚者という用語は小津安二郎映画『麦秋』によるものです。現代では非婚者でも、ノンセクでもいいです。好きな言葉に読み替えてください。

現代では「結婚する必要ない。異性と交際したことない」という若い人が増えているので、もはや「ノンセク」は「セクマイ」ではありません。最大マジョリティです。

「ノンセク」の権利と、LGBTの権利を混同しないように気をつけましょう。


Related Entries