業界としての自由と、個人の自白は別なのです。

  16, 2017 11:03
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まず、有名キャラクターの似顔絵を描くと、自分がプロより下手であることが分かります。そこで「俺にゃ漫画家は無理だな」と諦める人は諦めるし、がんばって上手くなろうと思う人はがんばる。

また『笑点』などを観ると分かるように、おなじお題で競作すると、各人の個性が分かります。そこで「俺はこういうのは向いてないな」と思えば他の仕事を探すわけですし、手ごたえをつかんだ人どうしでは、さらにセンスを磨こうという切磋琢磨が生じます。

だから、漫画の未来を探る人々にとって、漫画として表現されるパロディ(のセンス)というのは有意義なものです。

同様に、小説の可能性を探る人々にとって、小説として表現されるパロディは「まずやってみる」という価値があります。

出版社は「我々の青田であり、業界を挙げてこれを支持する」ということができます。国民は国家に対して自治の保障を要求する権利があります。

とくに日本の場合、明治時代以来、事実として軍部主導で思想統制してやってきた挙句に負けたという事情があるので、国家の強権発動に対する庶民の自由民権運動というのは、大義名分が立ちやすいです。

「表現の自由」とは、本来は「戦争反対・戦争のための重税反対」という政治的要求を発表しても特高に連れて行かれないという意味ですけれども、もっと個人的な、ありていにいって性的な関心の表現についても、いちいち検査されない・許可証を申請する必要はないというところにまで拡大されて来たのです。

戦後まもなくからの、三島における同性愛描写や、谷崎における被虐趣味描写、澁澤における乱倫描写(の翻訳)、さらには映画における暴力描写も、自由の名のもとに、公序良俗意識とのせめぎ合いの中で、かろうじて命脈を保ってきたのです。

という歴史をふまえて、出版社とプロ漫画家・小説家と同人会(の大集合)が大団結して「強権の発動を許すな」と言うことはできます。

けれども、個人的経験として「何々だけが目的だった」とか「何々には興味ない」とか言ってしまえば、個人的評価が下がるだけなのです。

【女性は一蓮托生ではありません】

女性の中には、確かに「実の父親の虐待をのがれて中学生の時に家出して以来、風俗業で生きて来た」という人がいます。実際に学問も資格もないんだから、急に性的産業を禁止されれば生きていけなくなる。

「私たちに氏ねって言うんですか!」という過激なまでの反対の声を挙げるのも当然です。

だからといって、親のカネで大学へ通っていたという人が「私も女だから、二次創作するのは当たり前ですよ!」と言うことはできません。

ほかの女性は、教員になったり、看護師になったりして、きちんと働いているのです。告訴される恐れのない方法で収入を得ているのです。

女性が社会進出できたからこそ、おなじ女性から女性同人に対する反感・残念感が高まっているのです。

少し前に大騒ぎになった「同人が資金提供を受けた疑いがある件」は、男性だけが「そういう女は許せない」と言ったのではありません。真っ先に「同人怖い」と言ったのは、若い女性たちです。

もう、1980年代ふう弱者特権意識は通用しません。

とくに、バブル組が自分だけ「うまく」やったという話は反感をあおるだけなのです。


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