2017/03/14

1948年9月、小津安二郎『風の中の牝雞』松竹

ね、女にいったい何ができる!?

脚本:齋藤良輔・小津安二郎 撮影:厚田雄春 製作:久保光三 調音:妹尾芳三郎 録音:宇佐美駿 照明:磯野春雄 美術:濱田辰雄 音楽:伊藤宜ニ

小津さんねェ……。無人の風物だけをじーーっと撮るですよね。ほかの監督はしないことなので不思議な感じです。

いや、他の監督も全くしないことはないんですが、小津さんの場合、物語の舞台を説明するという以上の異様な自己主張を感じることです。間が長いからなのかもしれません。

台詞の流れがやや不自然な感じがするのは、バストショットを撮るためにシーンを分割するからなのでしょう。

「ワンシーン・ワンカット」で撮れそうなところを、あえて少ないカメラで目線の変化をつけようと工夫した跡なのかもしれません。新派などの舞台鑑賞の観客にとってはあり得ない視点なので、映画のみに出来ることを追求した結果なのかもしれません。

回しっぱなしが得意な他の監督との差異化という意味もあったのかもしれません。役者にとってはやりにくいというか、厳しい現場だったと思います。

最もナチュラルに適応できているのは佐野周二のようです。笠智衆はここでも監督の良心代表。

個人的には木下の流れるようなリアリズムが好きですけれども、この「短いシーンをわざわざ分割し、別々に撮っておいて編集する」という手法は、特撮やアニメにもつながっていく発想だろうと思います。

『晩春』の前年。あちらではすっかり復興した都会の豊かな暮らしを拝見できましたが、こちらはいま少し厳しい戦後風景です。

社会はインフレが起きていたようです。男性が復員して来ないので、一人暮らしの女性が大勢いたようです。ファックスマクターのコンパクトなら当方もほしいです。(違)

佐野が写真のみ出演だったらどーしよーかと思いましたが、眠る男の愛しさよ。『武蔵野夫人』には進駐軍の指導が入って、日本人同士としては無理のある再会シーンでしたが、子どもを間においたこちらはじつに自然です。

【以下、内容に直接言及します】





結末がどうもね……。男が取ってつけたように説教してるわけですが、これ本来は自分に向かって言い聞かせることですね。

封建時代なら「三行半」で終わる話ですから、新時代の課題としては男のほうが笠智衆のいう「立派なこと」を実行できるかどうかということなのです。

女のほうでは立派な夫婦のつもりで、(子どもがつなぐ)信頼の絆を信じて、よりを戻そう・会話を復活させようと努力してるわけですから、男のほうが人生の教師みたいな顔をするのは不自然なのです。

まだ検閲があった頃ですから「民主主義とはこういうことさ」プロパガンダ映画という意味合いがあるはずで、ラストもキリスト教の祈りの型だと思うんですけれども、日本の脚本家が男のほうから謝るという発想をわざと否定したのか、ナチュラルに間違えたのか。

そしてタイトルは観ただけだと意味不明です。コケッ。

この、さんざん女性の人生を描いた挙句に結局は「それについて男がどう思ったか」という男性一人称に回帰していくというパターンはよくあって、フェミニストが「男に女の生き方を教えてもらう必要はない」といって、イラッとした気持ちもまァ分かるのではあります。



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