「文化史的意味で遊び」とは。

  13, 2017 11:34
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ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』的意味で「遊び」といえば、スポーツも、伝統芸能も、宗教的儀式さえも遊びなのです。

ボールや舞扇や榊の枝そのものを食って生きているということではないですよね?

個体の生命を維持するために必須の活動以外を、すべて学問上で「遊び」と称するのです。

だから食べるためにギリギリ必要な以上に食材を飾り切りしたり、何種類もの材料を組み合わせてソースを工夫したりということも学問的には「遊び」ということになります。

その「遊び」が上手にできることによって、球団との契約金とか、お舞台の入場料とか、お布施とか、ホテルからのお給料とか、そういうものを頂くわけです。

こういうレベルの話の時に「私の同人活動は遊びじゃないわ!」とかいって怒ってもらっちゃっても困るのです。

サッカー選手がサッカーやるのは何のためか? 給料もらうためといえば、まァそうなんですが、じゃあなんでサッカーで給料もらおうと思ったのか? なんで漫画を描くことではないのか? 建設機械の操縦者ではないのか?

「俺はサッカーが得意だ。中学の時からスタメンで、高校の時にスカウトを受けたんだから、他人から見ても才能があるんだ」と思うからですね。

その陰には、選手になりたかったけど誰からもスカウトされず、涙を呑んだという同級生が……同じ年に生まれた子どもが百万人いるとして、そのうちの1パーセントがサッカー人口なら、プロになれなかった子が、9999人いるわけです。ほかの業界も同様です。

幸いにしてプロになれた人にとって「好きでやっていること」と「生計を立てるためにやっていること」は、イコールなわけです。セミプロ漫画家も同様です。

「好きでやっていることを認めたら、売れなくなってしまう」ということはないのです。

まず最初に「この道で食って生きたいから、ご理解ください」という必要があるのです。

けれども、もしそれが危険ドラッグを売って他人の生命・人生を破壊することだったら、たとえ「買いたいと言ってくれる人がいる」と言い訳しても、周囲が「じゃあいいよ」と言ってやれることではないのです。

同様に、二次創作も日本の総人口一億二千万人のほとんどが「要らない。べつに読まなくてもいい」と思ってるわけですから、主食となる植物を育てることに較べれば、社会的に意義のあることではないのです。

あえてそんなことを職業に選ぶということは「仲間内で遊びながら暮らしている」と言われても、それ自体は否定できないのです。

「確かに遊びを仕事にしました。同好の仲間に支えられて生きています。それが他人の生命を損なうほど危険なことでない限り、職業の自由選択は国民の権利として認められているはずです」と、ここまで話を持ってくるのです。



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