映画『ブロークバック・マウンテン』の評価に見る彼我の差別意識。

  14, 2017 11:04
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アメリカのゲイコミュニティは、映画『ブロークバック・マウンテン』を長いこと「ぼくらが選ぶ映画」のランキング1位に置き続けたそうです。

日本では「ただのメロドラマ」として、一蹴してしまいました。

その差異は、キリスト教的タブー意識が強いはずのアメリカのほうが同性婚の法的権利の保障が早かったという結果の違いになって現れたのでした。

【あちらの事情】

欧米の同性愛忌避意識というのは構造が単純で、もともと宗教的戒律自体がストレート男性の本能に基づいて設定されているわけです。

世界宗教は、すでに人間社会が重層化・異質化した後で、旧来の社会に対する抗議として広まったものですね。

古代における美少年趣味の実態は、権力・財力のある成人男性によるパワハラでしたから、それを戒めることは、奢侈や傲慢の戒めに通じるのです。

すなわち、庶民的ストレート男性の「金持ちは許さん」という復讐心と、「俺は真面目に働くぞ」というナルシシズムと、「男同士はきもち悪い」という本能が完全に一致したので、強力な戒律となり、だからこそ、それを単純にひっくり返すという発想も生まれて来るのです。

【我がほうの事情】

日本には「衆道の契り」と称して男同士を美化する伝統があって、女性もこれを美的なロマンスとして消費してきた伝統があるのです。

それはやっぱり権力者が弱い立場の者を搾取するというのが実態だったわけですが、これがややこしさを生むのです。

社会の支配層である男性が「美童最高・女形最高」と言ってるんですから、女性がそのお相伴に預かることは、むしろ男性に対して抵抗的ではなく、順応的なのです。

日本では、男性と一緒になって「美少年最高」という女は、世間馴れしたおとなの女なのです。衝撃的ですよね。

でも、これがなかったら森茉莉の作品が三島の推薦を受けて新潮社から発行されることもなかったし、二十四年組作品が男性編集長の宰領する編集会議を経て小学館から発行されることもなかったのです。白洲正子が時折その話題に言及しつつ、高尚な美学を理解する女性として執筆を続けることもなかったのです。

また、栗本薫が同性愛者の権利を代表しているつもりになって、かえって実在同性愛者から「一緒にするな」とクレームされることもなかったのです。

【婦徳と自立の一致】

日本の女流は宗教的禁忌(に基づく市民道徳)によって断罪されたことがないのです。男性自身がそれを持っていないからです。

いわば「殿様と一緒になって、殿様のご寵愛にふさわしい美童を選び抜く女執事」というのが日本の女性の役どころであり、BLの本質です。

BLの構図は、日本の伝統的な婦徳と矛盾しないのです。(!)

執事として働くこと・BL創作家として自立すること自体は女性の社会進出ですが、そのことと男性が美童を搾取すること(の描写)が矛盾しなかったのです。

女性が男性のやることを応援することが日本の女性の社会進出であり、女を捨てて男として生きるということなのです。少なくとも「だった」のです。

これが評論家などが「BLは男性中心社会を肯定しているのか否定しているのか?」と首をひねった所以です。

どっちかってェと全面的に肯定しているのです。男性中心社会ありきで、その隙間に女性が自分の居場所を見出すのです。

これを新宿二丁目へ持ちこむと「ゲイバーに居座って見てるだけでいいと称する女性客」になるのです。

【日本的LGBTの困惑】

当然ながら、日本のゲイコミュニティとしては、これには困るのです。

彼らが「ぼくらのためのメロドラマが海外からやって来た(嬉しいな)」と言う前に、女たちが紅涙を絞ってしまうわけです。「男心の切なさが分かるわ~~」って。

日本では女性が「同性愛の男は神にさからう罪びとよ!」と糾弾するのではないのです。だったら「差別するな!」と叫び返すことができるので、人権運動の構図が単純なのです。

じゃなくて、日本では女性が同性愛の男と連帯できているつもりになってしまっているのです。

実際には「ストレート男性の鬼の霍乱」というべき創作物と、先天性の実在同性愛者を混同して、娯楽として消費しているだけという、特殊な差別構造なのです。

だからこそ実在同性愛者は「女が喜ぶものと一緒にしてもらっちゃ困るぜ(女は先入観だらけで迷惑だ)」と言いつづける必要があるのです。だから女性と連携が取れるようで取れないのです。取りたくもないと思ってる人も多いのです。

これが日本のゲイリブ運動のややこしさ。

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