創作物の感情移入とは。~「山も落ちもない」の逆説

  25, 2017 11:05
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まず創作物における感情移入とは、主人公の事情が丁寧に説明されることによって、鑑賞者の心の中に少しずつ共感が育って行くことを言うのです。

六畳二間のせまい自宅で目覚めて、ひなびた風景の中を歩いて駅に行って、電車に乗って、都心の建物が映されて、その一室に座って事務仕事して、隣席から「今夜どうだい」なんて誘われて、「部長がお呼びですよ」なんて声もかけられて、「具合はどうだい」なんて言われて、だんだん事情が分かってくるわけですね。映画ならここまでで20分間くらい。

そうすると鑑賞者の心には「このまま行くとまずいんじゃないか?」なんて予想が生まれて、見届けないと気が済まないような気分になってくるわけですね。

鑑賞者が「待ってました」と思う場面は事前に決まってるわけです。忠臣蔵なら討ち入り。任侠映画なら殴り込み。戦争映画なら艦砲射撃。ロマンスならラブシーン。夫婦ものなら痴話げんか。ミステリーなら「さて皆さん」。時間にして10分くらい。でもそれだけでは映画にならない。

誰がどこでなくなったのかも知らされないまま「さて皆さん」と言われても困る。逆にいえば正しい手順を踏んで説明されれば誰でも話は分かるのです。

脳の言語野の欠損とか、極端な事情がないかぎり、性別や年齢や実際の人生経験にかかわらず、この人とこの人が喧嘩していて、あの人が心配しているという流れは分かるのです。結末が気になるのです。俳優(キャラクター)の顔と名前を覚えれば「続篇、番外編も観てみよう」って気になるのです。

だから、じつはほとんどの頁や尺が説明に費やされてるのです。ポルノグラフィでさえ、主人公は美人秘書で、悪さするのは平社員の男で、社長の車に細工して……とか説明するのです。

もし、事前に鑑賞者に登場人物のプロフィールが知られていれば、説明のための頁は必要ないことになります。毎日顔を合わせている人物同士が毎日自己紹介しないのと同様ですね。

紹介を省いて、唐突にクライマックスを描写しても鑑賞者が「なにこれ意味わかんない」と言わずにクライマックスを楽しむことができるとすれば、すでに知っている楽曲の「サビ」だけを繰りかえし聴くようなもので、その「それなりの楽しさ」を山も落ちもないと表現した人があったならば?

この時点で、山も落ちもあるプロ作品を、唐突なアマチュア作品と混同することはあり得ませんね。「プロは別」となるでしょう。(同人本来の意図はそうだったのです)

あえて例えれば、上手に唄えるのはサビだけという物真似歌手は、やっぱり本職とは別なのです。

けれども混同が起きたとしたら、じつはその時点で山も落ちもないはずだったものが立派な起承転結を備えるに至っていたからです。

有名キャラクターを用いて、最終的には恋愛の成就としての性愛を描写することを念頭に置きつつ、そもそも二人はどのように出会ったか、あるいは(原作で描写された)あの試合の3年後、彼らはいまどこにいるか……というところから語り起こす技量を備えた同人が育っていたのです。

有名キャラクターといっても、敵役として登場した人物は、背景事情が詳しく説明されていないものです。主人公たちは郷里が同じとか、訓練学校の同期とか説明されていても。だから二次創作家が腕をふるうことができる。(権利者によって待ったをかけられない限り)

なにも同人にインタビューしなくても、常識的に考えて「サビ」だけでは本の形にならないのです。3ページくらいで終わってしまう。だから、いずれは前後にストーリーをふくらませる作者が出てくるのです。

アマチュアでありながら、山も落ちもあったからこそ評判を呼び、プロとの混同が発生し、逆にプロに「字義通りに自虐していた」という不名誉を与えるに至ったという、まったくもって同人自身にとって予想外な展開が起きたのです。

だから「ディープ」と「ライト」の対比とか、心理描写重視vs.肉体描写重視とか、いろいろな議論がありますけれども、いずれもかなり古い時代(1980年代前半)から、すでにいろいろあったと思えばいいです。

だからこそ、現代では「せっかく書いたのに山も落ちもないなんて言いたくない」という声もあるのですね。その名称は、最初から実態を反映していなかったのです。これが女性の悲しいところ。

物語が高度化した時点で新しい名称を提案できればよかったのに、自分では名づける・名乗ることができないのです。もともと「山も落ちもない」というのも手塚治虫が言ったことの「もじり」です。

ボーイズラブというのは出版社を経営する男性が考えついたものとされています。二次創作というのは、おそらく誰かが著作権法を調べてみた時に「二次的創作物」という言い方を発見したのでしょう。

すべて借り物なのです。自虐せざるを得ないのではなく、新しいものを発明できないのです。

日本のBLも、二次創作BLも、男性の手のひらの上で、既存の価値観を利用して、それらを「組み合わせる」ことによって生じてきたものです。それが男性から認められる限りにおいて、印刷に出したり、出版したりできるのです。

それはちょうど、すでに売っている携帯電話とキラキラシールを利用して、マイ・ケータイを作っていたようなものです。

そして、その二次創作BLが「うまく」行かなくなると、今度はゲイコミュニティに依存するのです。新宿二丁目で遊ばせてもらおうとするのです。それも「ノンセクだから仕方がない」という言い訳を必要とするのです。

これが日本の女性の自由。

(※言い訳すればいいってことではないので、できるだけ新宿二丁目方面へはお邪魔しないでください。いや、営業妨害と言われてもあれなので、行くだけ行ってもいいですが、社会のルールと夜遊びのマナーを守ってください)

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