まだ、その話ではない。~ポット出版『「オカマ」は差別か』再考

  27, 2017 11:01
  •  -
  •  -
『週間金曜日』という会員制雑誌が東郷健という人物の半生を紹介する記事に「伝説のオカマ」というタイトルをつけた。

これに対して、ゲイリヴ団体の一つが「オカマ」という言葉を使うなとクレームした。すると他のゲイが新宿ロフトに集まって討論会を開いた。

世紀の変わり目に起きたことですから、すでに古い話ですが、今なお示唆的です。以下、個人的考察です。

まず「すこたん企画」(当時)としては、「当事者が自称してるからって、他人が真似しちゃダメだろ」って言っただけなのです。

たとえば「うちの愚妻です」と言われて「皆さん、こちらは部長の愚妻です!」って紹介しちゃいけませんよね?

「不肖の息子です」と言われて「皆さん、部長の不肖の息子さんです!」って紹介しちゃいけませんよね?

じゃ伏見憲明以下、ロフトに集まった人々は?

「私たちが自分でオカマって言うのも禁止されちゃうの!?」という被害妄想を持ってしまったのです。まだ誰もそこまで言っていない。

伏見たちは「ディスクールの権力」とか生々しい言葉を使って危機感を表明してますけれども、まだ誰もそこまで言っていない。

確かに「すこたん」は雑誌社に対して「オカマという言葉の用法を教えてやる」と、やや高圧的にレクチャーした。だからといって仲間の用法を禁止するとは言っていない。

ほかの人が「私はまた別の意味で使ってるわ」と言いたきゃ言っていいのです。今ならツイッターで言える。

けれども当時は、まさにそこが波紋を呼んでしまった。すなわち「怖くて言えない」という人がいる。

仮に、出版社が再度のクレームを恐れて過度に自主規制すれば、他のオカマ自認者が『オカマの一生』という自伝を出版したいというとき「その題名ではお引き受けできません」と言われちゃうというわけです。

「でも私はどうしてもこの題名で行きたいんですよ」と言えば、出版社としては「じゃあ『すこたん』さんと話し合ってください」ということになります。

すると「だって、そんなことしたら私が叱られちゃうわ」と女性的なゲイ(またはトランス)が怯えてしまうというわけです。

ここから「前々から思ってたけど、ゲイコミュニティの中でも男っぽい人が威張っていて、女っぽい人を差別しているのは許せないわ!」という話にずれて行ってしまったのです。

つまり「女性的な被害者の主張」大会になってしまったのです。誰が誰を差別するのか!?

本人たちにとっては切実なんだけれども、残念ながら、論点のすり替えです。

ただし、伏見ほかが立派だったのは、話がズレていることを理解していた。「これがいい機会だから、コミュニティ内部の問題を洗い出そう」という意識を共有していたのです。

すなわち「今までコミュニティ内部でこういう話し合いができていなかったこと自体を反省しよう」という意識を忘れなかったのです。

そのうえで伏見は「弱者の連帯とか、マイノリティの連帯というのは、どうかと思っていて」(p.88)という。

だから「この機会にオカマが団結して『すこたん』と全面戦争だ!」とはならなかったし、男女差別が根底にある問題だとはいっても、フェミの姐さん達に援軍を頼もうとも思わなかった。

じつに冷静です。

彼らの口から最後に出た「個別対応」という言葉は、じつは自分たち自身に言い聞かせた「冷静に対応しよう」という確認ですね。

そのいっぽうで、伏見は個人的見解として、当事者が言っている以上、編集者が引用するのは当然であって、謝罪には及ばない旨を寄稿したのでした。

論理が一貫して見事だと思うのです。見習いたい態度なのです。

Related Entries