小津安二郎『東京暮色』再考。

  18, 2017 11:03
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映画作品鑑賞後の読者様を念頭に、物語の詳細に言及して参りますので、未見の方はご注意ください。





小津があの作品に自信があったというエピソードから考えると、彼自身は「若い成人女性の人生が困難であることを訴え、社会批判した」というつもりだったのかもしれません。若い女性から共感が得られるつもりだったんじゃなかったか。

ただし、溝口健二『祇園の姉妹』があの台詞でバサッと終劇した潔さにくらべて、姉の行動というエピローグをつけ足してしまったので「女は家庭」という結論になってしまったのです。女性観客の一部は納得し、一部は憤慨する。女性同士のジェネレーションギャップは明白だったろうと思います。

けれども、小津自身は、若い女性が見合いをいやがり、既婚夫人でさえ家庭を守るだけということに飽きていることを分かっちゃいるのです。杉村春子を通じて、商売を成功させ、軽快なフットワークで京都と東京を往復する女性を描いている。彼の作品には、若い女性が事務員などとして勤労する姿も、かならず描き出されているのです。

だから、彼の真意がほんとうに「女は家庭」だったかどうか、女性観客が「小津なんて奴は映画の神様みたいに言われてるけど、ただの分からずやで、まるでうちのお父さんよ!」 と、トラウマを刺激されて憤慨するべきかどうかは、やや微妙です。

一般論として、小津作品というのは、映画が国民的娯楽だった時代に、ひじょうに多くの観客を納得させることが重要だったわけです。男性キャラクターについても、女性キャラクターについても「こういう人、よくいるよね~~」という感想を持ってもらうことが重要だったのです。つまり、人間性描写が最大公約数なのです。

一部の女性は「私はこんなバカじゃないわ」と憤慨するでしょう。でも、身近に似たような人がいるでしょと問われれば「まァ、ほんと言うとうちの妹も……」とか「職場の女の子が……」ということがあるだろうと思います。

それに対して監督自身は何を言おうとしているのかというと「お父さんは、いつもきみたちを心配しているよ」ですよね。

それに対して、それぞれの女性が「私はこんな生き方をしない」と決めればよいことであって、そういう感想を言ってもいいのです。

かつての女性は「ステレオタイプを押しつけないでほしい!」という被害者意識でした。じゃあどうしたいのかを言うことができなかった。「だって……」と言って、口をとがらせたきり、後が続かない。そういう人、いますね? あなたではなくても。他人を変えることはできないから、自分がどうするか考えればいいのです。

「他人を変えることはできない」とは、自分で気づいて変わるほかないということなのです。

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