女性ナルシシズム表現の多様化。~BLの本質

  25, 2017 11:02
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登場人物が男性なので、自分では男性心理を書いているつもりだから、BLは女性ナルシシズムを表していると言われると違和感を感じ、誤解されたとか、屈辱だとか思って怒っちゃうのがBL作者。

けれども、他人が読めば明らかに女性心理なのです。もともと「女性的な心理を持った男性には女性が感情移入しやすい」ということに立脚しているからです。

「女性には理解しにくい通常の男性心理をついに理解したから書いている」ということではないのです。

もともと「女性と同じように男性を愛してしまった男性」という前提で、女性が「それなら分かる」と思って書くものだから、書けば書くほど男心を書いているつもりで女心になっているのです。

それを批評家や純文学を読みなれた読者、心理学者などが読めば「明らかに女性心理」と見抜くのです。

ここで「私は愛なんて書いていません! ただの暴力です!」と変な自慢をして来る女性もいるんですが、一般的な男性には不可能な長ったらしい言葉責めを駆使する男性キャラクターは、その知性が女性です。

女性が「ふつうの男は単純だから会話しても面白くないわ」という思いをBLの台詞に籠める時、そのキャラクターは表面的に男性ですが、知性が女性です。

だからこそ「なんで女性キャラクターとして表現しないんだろう? なぜ女王様キャラクターを描かないんだろう??? こういう女性は女性キャラクターを描くことができないんだろうか」という疑問になるのです。

これに女性側で脊髄反射しちゃうと「男性向けになっちゃうからですよ」となるんですが、だったら「BLは私たちのものです! 男のくせに読んではいけません!」というのと同じように「女王様物語は私たちのものです!」と言えばいいのです。

また「少女たちは結婚すると人生が不利になるから女をやめたがっている」と言い訳したフェミニストもいましたが、それにしちゃお嬢さん達がずいぶん少女趣味なドレスを着ていますねってことで整合性が悪くなって、謎が深まったのです。

そもそも、キャラクターの外見(漫画または小説の挿画)からして、明らかに女性的なわけですね。

【男性ナルシシズムとは別】

もしBLは女性ナルシシズム表現ではなく、男性ナルシシズムの追及であるというなら、田亀源五郎や戎橋政造の画業を応援すればいいのです。ゲイ専門雑誌の売上が伸び、彼らの自立を支援することになるでしょう。

でも「生々しいじゃん」なんて言って来た人がありました。生々しいから、なんでしょうか?

男性作品は生々しいから読まないと言うなら、なぜBLは生々しくないのに読むのですか? リアリティのない男性キャラクターになんの意味があるのですか? 生々しい性描写が苦手なら、そもそも性描写なんか読まなきゃいいですよね? なぜキャラクターを生々しくなくしてまで性描写を読む必要があるのですか?

話がここまで来た時に「BLの目的はエロですよ♪」では、なんの役にも立たないわけです。なぜ、あなた(とあなたの同人誌の購読者)のエロスは、女性的な男性キャラクターに集中しているのですか?

「だって、女っぽいほうがきれいだし、可愛いし、エロく感じるから……」というなら、それが女性の自己愛です。女性が女性をこの世で最高に美しいものとして評価しているということです。女性が「美」の評価基準だということです。

女性がこの世で最高に美しいから、女性みたいな男性も美しいのです。

ゲイはそれが我慢ならないのです。「そんなもん女同士で勝手に描いて喜んでろ。俺たちの店にまで探しに来るな。そんな男、現実にいるわけねぇだろ。バカじゃねぇ!?」って思うのです。

それに対して「女の勝手でしょ! 口出ししないで!」と言うなら、もう明らかにトランスゲイではありませんし、弱者の連帯でもありません。

【一般化】

「女とおなじ心を持った男を、女が歓迎する」というのがBLの根本です。

広くとらえれば、家事炊事をする男性、育児に積極的な男性、編み物や活け花を教えてくれる男性、洋服の買い物につきあってアドバイスしてくれる男性が女性に人気がある現象と、根っこが同じです。

自分に似ているほうが親しみが湧く。安心して付き合える。会話も弾む。

じつは日本では、そういう女性的な男性を揶揄的に「フェミニスト」と呼ぶ習慣があって、これは日本独自の用法だそうですけれども、一般男性のほうでそういう男性がモテる現象に反感があるもんですから「そんな男を歓迎する女は、まだ子どもなんだよ」と言うことがあるのです。

すると女性のほうで恥じ入って「男らしい男を受け入れられるように努力いたしますわ」って言うもんだと思っていたら、ある時期から女たちが「自分が子どもっぽいまま、女の子っぽい男の人とお付き合いするの最高♪」って言い出しちゃったもんだから、男たちは舌を巻いているのです。

けれども、よく思い出してみると、日本では昔から歌舞伎の女形に人気がある通りで、おとなの女性も女性的な男性を好むのです。しかも有閑マダムたちには、ふつうのオッサンな旦那がいる(ので家に置いてくる)こともあれば、ダンディな旦那がいて、ちゃんと彼女を劇場へエスコートしてくれることもあるのです。

「女王様ぶって女装の男性を連れ歩く」という女性は少ないもので、女装という極端な表現は舞台上のものとした上で、自分自身の未婚・既婚を問わず、やや女性的な男性との交際を好む(役者との交流会に出席するなど)ということは、日本では古くから普遍的な現象なのです。

これは、武士政権の陰で、日本社会に古代の女性中心主義が存続してきたことを示すものです。日本固有文化は、欧米のマッチョ最優先主義とは、最初から条件が違うのです。

【ナルシシズム表現改革】

自分によく似た同性を主人公にするというのは、夏目漱石『三四郎』にしても、コナン・ドイルが創出したワトソン博士にしても同じことで、近代男性文学の基本です。

じゃあ彼ら近代文豪が自分によく似た異性を描かなかったかというと、そんなこともないのです。漱石は女性キャラクターの口を借りて日本男児の自尊心を揶揄しておりますね。谷崎潤一郎は『鍵』で女性の日記という体裁を取っているけれども、書いているのは彼自身ですから、当然ながらこの女性は彼と同じ知性を持っている。

三島由紀夫は女性キャラクターの本質に意識的で、自作のヒロインについて「あの女は男だよ」と言ったそうです。

逆にBLの本質を「強固な女性自認の持ち主が女性的な男性に親近感を覚える現象」として一般化すれば、同人誌即売会へ二次創作BLを買いに来るお嬢さんたちが少女趣味なドレスを着ていたというエピソードや、自ら少女とか乙女とか称する現象や、実際の同性愛者に同情的ではなく揶揄的であって、しばしば失礼なことを言う現象も無理なく首肯されるのです。

最後の件は残念ですが、もし本当に作家自身を含めてBL愛好家がトランスゲイで、現実の同性愛者を人生の先輩として尊敬し、頼りにするものなら、絶対にプライバシー侵害などという問題は起こさないのです。

BLは、よくも悪くも女性中心主義です。男性社会を女性目線で観察し、自分に都合のいい範囲だけ切り取った結果です。そこにもともと存在していた「女性的な男性」という存在に「目をつけた」というだけです。

だから二次創作も、もともと男性作品のキャラクター構成に変化をつけるために女性的な人物を一人混ぜておくと、それに女性ファンがつくという現象が基本です。

(「もともと女役の男性が好き」をひっくり返して「好きな男性キャラを女役にする」のが二次創作BL。同人自身はそのキャラが好きではなく読者の好みに合わせて戦略的に描いているだけといっても結論は同じ)

けれども、1980・90年代には、1970年代に流行した「男装の麗人」の印象が残っていたことと、女性の社会進出が本格化した頃だったので、逆に女性自身が男性化する現象だと思ってしまった評論家が、けっこういたのです。

実際に、二十四年組や『JUNE』派の作家などは創作活動によって自立していたので、男性化した女性ということができたのです。

が、その描くものが「男性化した私自身」というキャリアウーマン物語ではなく、女性化した男性だったから、「作品には作者自身が登場するもの」と思っていたタイプの批評家がとまどったのです。

さらに読者自身(の一部)が体現している少女趣味との整合性も悪くなり、理解不能になってしまったから「どっちのキャラクターに感情移入しているのか」なんてくだらない質問も飛び出したのです。

冷静に考えれば(冷静に考えましょう)「女性と同じように能動的な男性をカッコイイと思う男性」と「女性と同じように受動的な男性をカワイイと思う男性」ですから、どっちも女性の味方ですね。

この「ナルシシズム表現の多様化」と言うべき現象を批評家が批評しそこねたなら、これは批評の流儀の問題ですから、日本の批評家の勉強不足・思索不足です。

いっぽう創作家たちは、ほとんど本能的に本質を見抜き、ふたたび性別を逆転させて、男流漫画の多様化を成し遂げたのでした。すなわち、戦車に乗る少女。

なお、女と同じ心を持った男性が現実にいると思って探しに行っちゃうと、ゲイバーでひじょうに困ったお客さんになってしまいます。

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