創作物における、逃避性と積極性の両立。

  01, 2017 11:06
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現代では、准男性として働くこととシャドウワークを両立させつつ、BLも好きという人がいる一方で、結婚を義務だと思っていないので「逃避する」という必要もないと感じている人もいて、他人が「結婚プレッシャーから逃避するためにBLを選択する」という声を聞くと、怒ってしまうこともあります。

「まだそんなこと言ってんのか!」って。

でも、実際に実家からうるさく「まだ? まだ?」と言われる人が「彼女はどうやって結婚相手をゲットしたか」という話を読む気になれず、BLのほうが気楽だと思うことを、他人が怒る筋合いではないです。

ほんとうに逃避のためにBLが必要だという人が、無関係な他人から怒鳴られるのでは、逃避手段がなくなってしまう。そんな権利は他人には無いです。

【逃避と娯楽】

小津映画には、お見合いをいやがるお嬢さんがパチンコで時間つぶしする場面があったかと思いますが、あれは現実逃避と同時に「せっかく来たから玉を一杯取りたい」という積極的な動機も含んでいますね?

いやな現実から逃れるために、もっといやなことを無理してやってるわけではないですね? だったら、また別の男とお見合いしたっていいくらいです。

そうじゃなくて「この機会にパチンコが上手くなりたい。すごいねって言われたい」という価値付けがあるわけです。本来の課題を隠蔽する欺瞞だとしても、その時には本人は面白いと思ってやっているのです。

それは、ほかの射幸的遊戯でも、スポーツ観戦でも同じです。

有名選手が勝ったからといって、俺の基本給が増えるわけじゃない。住宅ローンが減免になるわけでもない。でも観てる間は面白いと思って観てるのです。監督の戦略を予想したりすることが楽しいのです。

BLも、げんに結婚していない人が、げんに女性の結婚が描かれない物語に親しむ以上、少なくとも一部の作者・読者が「実家・社会からの『まだ?』というプレッシャーから逃避できるからこそ気楽な娯楽である」と思っている可能性を否定することはできません。

「ただのエロ」と言う人もあるだろうけれども、そのエロスに耽溺することができるのは、自分の実人生に関わる問題を提起しないから。母親や職場の人に言われたことを思い出さなくて済むから。そういう事情が響いていることを完全に否定することはできないし、する必要もありません。

逃避性と積極性は両立するのです。「どちらかいっぽうに決めなければならない」という発想の枠組み自体が冷戦時代の産物であり、もはや時代遅れなのです。

「心おきなく楽しむ」という時は、まさに悩み事に心を置かなくていいことが重要なのです。そういう逃避性の上に「もっと過激に」という積極性が添加されるのです。もともと「一石二鳥でお買い得だから、カネを出す価値がある」と思うから、買うのです。

なんと申しますか……議論に際しては冷静でありましょう。多様性の尊重、多様性の共存とは「どちらかに決める必要はない」「どちらをも責めない」ということです。

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