耽美の構造と、同人・BLファンの約束。

  20, 2017 11:04
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もともと同性愛自認ではない若者が、男子校の先輩によって恋の手ほどきを受けたが「男同士でこんなことしていいのかな」という感想を持つ。これは自然なことなのです。

もともと同性愛自認ではない本人にとって、その行為は不自然なことだからです。

だから、ゲイコミュニティがBLに向かって「もっとリアルに描け」と言えば言うほど、むしろそういう台詞は増えるのです。

で、男子校にはそういう先輩がいるという情報は、どこから出たかというと、明治文学なのです。

軍医総監・森林太郎による、ほぼ自伝というべき小説『ヴィタ・セクスアリス』は明治四十二年の夏に雑誌『スバル』(第七号)上で発表されました。この作品については、二十四年組による漫画作品の中で登場人物が言及しています。つまり漫画家自身が鴎外作品を読んで「昔はそういうこともあったんだ」と知ったのです。

明治四十二年とは1909年です。二十四年組作品の何本かは、ちょうどその頃の西欧を舞台にしていますね。つまり「昔の日本で起きていたようなことが西欧でも起きたら?」という、SF的なまでに奇抜な発想なのです。

実際にキリスト教国で起きたら、もっと問題視されるはずですから、劇中にその描写がないのはおかしい……というなら「1909年の西欧みたいなパラレルワールド」をイメージすればいいです。

風物は西欧みたいなのに、昔の日本のように「その道」がタブー視されていないのです。金井湛くんの父上が言ったように「うむ。そんな奴がをる」で終わっちゃうのです。

そして、パラレルワールドという概念は、まさにSF由来のものですね。

その際に、漫画家がイメージモデルにしたのはビョルン・アンドレセンであるとは、英語版ウィキペディアのアンドレセンの項目に書いてあります。世界的に有名な件というわけです。

だから、日本のBLは、日本の明治文学と、近い時代の西欧文学を映画化したヴィスコンティ監督作品(1971年公開『ベニスに死す』)と、人によっては「あり得ない」と呆れてしまうような奇抜な発想を可能にするSFと、ついでに「中性的」な男性シンガーを中核とする西欧ロックバンドに親しんだ1970年代の先進的な女流漫画家から生じたのです。

いくつもの要素が重なって、さらに編集サイドがオイルショック不況と『ベルばら』の大ヒットに対抗して、斬新な表現を(傾きかけた)雑誌のセールスポイントにする必要があったという、歴史の一回性として登場したのです。当時の編集長は男性であり、BLという表現は、最初からストレート成人男女の二人三脚によって、少女読者に与えられたのです。

で、以降はそれがヴァリエーションを生みながら拡大再生産されているので、当事者にも最初がなんだったか分からなくなってしまっているのです。

だから、急に「明治文学から始まった」なんて言われると、自分の人生が誤解されたような被害妄想を持ってしまって「私は男性の影響なんて受けていませんよ! 私の恩人は同人活動の先輩だった女性ですよ!」と、女のホモソーシャル・プライドを主張してしまうのです。

が、先日も申しましたが、歴史を確認することは、その後の努力を否定することではありません。

【BLの世界観】

というわけで、BLというのは「昔の男子校ではそういうこともあった」という知識を少女漫画の技法で(男性の顔を少女キャラクターと同じように)描くということから始まったのです。

森茉莉の時点では小説なので、登場人物の顔立ちは読者の嗜好によって自由に想像していいのです。ある程度の暗示は与えられているけれども、これでなければということはない。

けれども漫画となると「この漫画家が描いた、この顔」というのが決まってきます。そこから「現実の俳優よりも可愛い」という価値観が生じ、漫画・アニメ産業そのものの興隆と呼応して、二次元コンプレックスとして伸張したのです。

そうなると、小説を書く場合も作者自身が漫画的な人物をイメージし、読者のほうも漫画的な挿画を頼りにしますから、本文中でも現実離れのした美少年描写がなされるのです。

で、その女みたいな顔した漫画的キャラクターが「男同士でこんなこと」って言うのを読んで、ゲイが怒るんだけれども、最初から話がズレているのです。

「男子校の中で上級生が下級生にその道を教えることは異常ではない!」

と言ってしまうと、女性陣がお目々キラキラさせて「やっぱりそうやってホモになったんですか!?」と質問して来ることになっちゃうので、ここはゲイコミュニティ側で気をつけましょう。

【ステレオタイプ利用の是非と、現実と混同しない約束】

したがいまして、次の問題は「先行作品の要素をステレオタイプとして拡大再生産することは、創作技法として正しいか?」になるのです。

もし「だめだ」というなら、捜査一課と協力して殺人事件の捜査にあたる名探偵というキャラクターもNGだし、庶民のために悪者退治してくれる正義の侠客・正義の海賊もNGということになってしまいます。ビッグタイトル壊滅です。

「じゃあ、それは認めるよ。ぶっちゃけ俺らも読んでるし」というのが現代のゲイコミュニティですね。実際に彼らは1980年代以来「発禁にしろ」というクレームしたことはないです。

彼らとしても「表現の自由」との真っ向勝負は避けて来たのです。

したがいまして、次の話題は「本物を探しに行かない約束」になります。

本物の暴力団事務所へ鶴田や高倉を探しに行く人はいないでしょうし、警視庁へ乗り込んで「右京さんはどこ~~?」って女性もいませんな。「米花町ってどこにあるの~~?」とかね。

同様に「BLに描いてあるみたいに先輩から教わってホモになった人っているの?」と、新宿二丁目へ探しに行かないことは重要です。

先方もご商売ですから、お酒を飲みに行くぶんには歓迎してくださるでしょうが、ごく当たり前に一人前の社会人としてマナーを守り、馴れ馴れしくしないことが重要です。

また、楽しそうな雰囲気に酔ってしまい、興奮しすぎてしまうことは、都会的ではありません。

なお「吊橋理論でホモになる」ってのも、二次創作BLの発想そのものです。

一般論として、創作物に影響されてスポーツを始めたとか、病気・障碍に関する意識が高まったというのは良いことです。エデュケーション目的というのは創作物の重要な存在意義です。

だから同性愛に関して頭ごなしに否定するよりは、創作物を通じて親しみが湧いたというほうがいいです。けれども自分の好奇心ばかり優先して、自分勝手に実在の人物を利用してしまうことは自粛しましょう。彼らは無料ホストではありません。

【甘く見てはいけません】

夜の歌舞伎町へ一人で行く女性もいないと思われますので、二丁目なら安心と勝手に思っている人は、やっぱりゲイだからと思って甘く見ているのです。

勝手に「彼らは女の子の味方だから」とか「分かってくれるから」とか決めてしまっているのです。

実際には、彼らはストレート男性と違って「女とやりたい」と思っておりませんので、すごく冷たい目で女性の自分勝手な意識を見抜きます。

それに(残念ながら)ゲイの世界にもDVはあります。同性愛者だから非暴力とは限りません。プライドパレードや模擬店イベントの趣旨に賛同し、参加しているのは一握りです。

ほんとうに男同士の水入らずで静かに飲んでいる店へ勘違いした女が乗り込んでしまえば、かなりきついことを言われる可能性は充分にあります。

なかには「中高生時代に女性の不良グループにイジメられた」とか「同人誌とかいう変なものを無理に見せられた」などの被害にあったことがあって、女性一般を深く恨んでいるというゲイもいる可能性があります。

くり返しますが「自分の言うことなら必ず聞いてもらえる」と思うことは、マジョリティの横暴です。甘やかされて育った人です。


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