多様な個人が互いに礼儀を守ることが、多様性の尊重です。

  06, 2017 11:01
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日本人は、自分自身が黄色人種(とも呼ばれた民族)で、かつ枢軸国だったことを忘れようとしてきたもんですから、ナチスの純血主義に対して、戦後の列強が混血上等・雑種上等の個人主義を推し進めてきたことを、よく分かってないことがあるのです。

「おなじ人間とは思えない」という言い方がありますが、もともと同じ人間なんていやしません。夫婦・親子・兄弟姉妹・同性カップルといえども同床異夢です。

それをわざわざグループ分けして「あいつらは俺らの仲間じゃない(だから食糧と燃料を分けてやらない)」という縄張り争いをしたがる人がいるだけです。

人間も動物ですから、食べて行くことが基本で、さらに毛皮をもって生まれて来ていないので、暖を取ることが重要なのです。

だから民族紛争も戦争も、根本は食糧と燃料をめぐる縄張り争いですね。薪が石炭に変わり、石油に変わり、ウランなどに変わっただけです。

で、その「グループごとに団結して、違うグループと戦争する」ということが、たいへんな結果になってしまったので、もう縄張り争いしない約束にした、というのが戦後社会の基本です。

似たような人同士のグループではなく、「おなじ人間などいない」と見切ってしまった上で、目の前の相手に対して嘘を言わない・暴力をふるわないという約束を互いに守ることができれば、それが寄り集まって大きな争いになることもない。これが個人主義の基本。

けれども日本人は「戦時中は軍部にイジメられた」という被害者意識があるので、団体主義から急に解放されたとき、「個人主義って我がままゆってもいいってことじゃん!?」と勘違いしちゃったのです。

そうじゃないのです。個人の責任において、他人に対して礼儀と約束を守るのです。それは「母親にさえも、かばってもらえない」という意味でもあります。

日本人お得意の「甘えの構造」と西欧的・ユダヤ的個人主義が両立することは無いです。

ないからこそ「私がいつまでも母親のトラウマにとらわれているのは、母親が子どもの課題にうるさく介入する人だったから、もう自分ではどーしよーーもないんです」というゴチャ混ぜを主張してしまうことにもなります。

本当は「母親が子どもの課題に介入してはいけない」ということは、子どものほうだって「母親に責任転嫁できない」ということです。

「親を見習って立派な何々人になる」という純血主義を否定するということは「じゃあどんな人間になるか」を自分で決めなければならないということです。

それは自分のストレス解消のために弱い人をイジメるということでいいのか? 自分より条件の不利な人をからかうということでいいのか?

親はそういうことをしない代わりに自分の子どもに厳しい人だった。それを見習ってはいけないといって、真逆にすればいいのか?

本当は「親のよいところと悪いところを見極めて、よいところは真似することに決める」のです。決定権は自分にあります。ただし「よい・悪い」の判断基準は、おおきな共同体意識です。

それは親の支配下から離れて、親でさえも従うべき師匠を見つけるということです。キリスト教がすべてだった時代には、最もえらい師匠は神様でした。でも、その名のもとに宗教戦争が起きたことも知っている現代人は、神という基準さえも疑うようになったのです。

そのとき基準にできるのは、やっぱり「ころすべからず。弱い者をいじめるべからず」という、すごく基本的な共同体意識なのです。そして我が国には福澤諭吉がいました。

男も人なり、女も人なり。だからこそ「女の子だけ特別」ってこともないのです。

逆にいうと、うかつに自由や平等や個人主義や多様性を口にすると、自分にはね返ってきます。やたらと弱者の連帯などと言う前に、慎重に自分自身の本音を見極めましょう。

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