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フェミはBLの役に立つが、BLはフェミの役に立たない。

意外に思われるかもしれませんが、丁寧にご説明いたしますので、ゆっくりおつきあいください。

BLは、一見すると、女性から女性性をひっぺがして男性にくっつけたものなので、ジェンダー論っぽいのです。けれども、よ~~く考えるとおかしいのです。

たとえば、女形の男性が頭脳プレー担当で、女義賊や馬を乗りこなすお姫様が白兵戦担当で、悪い男に連れて行かれたお母様を助け出すとか、そういう話の時には逆転劇がきれいに成立し、子どもにも分かりやすくジェンダー論を絵解きしたことになりますね。

でも女性的な男性が他の男性とくっついてしまえば、幸せカップルが成立しちゃうだけで、男役の男は相変わらず男らしいままなのです。

だから、そういうBLを読んだフェミニストも、男の研究者も「あ、あれ!?」ってなるのです。

「BLって男性中心社会を否定してるの? 肯定してるの? 少女読者はどっちの男性に感情移入してるの!? どうなってんのこれ!?」ってなっちゃうのです。

【既婚フェミの敵】

くり返しますが、男の子を女役として育てると、日常の起居動作まで女性的になることがある。これは「女性らしさ」というものが後天的な教育によって形成された要素であることの証明である。

確かにそうなのです。だからBLを読むと、フェミニストが「ジェンダー論の証明である」といって大喜びする。

けれども、ジェンダー論を証明したいだけなら、BLでなくてもいいのです。

むしろ、女性を愛するストレート男性でありながら、教育しだいで自分も女らしくなるという歌舞伎の女形の人生を描いたほうが説得力がありますね。

父親になるべき人だからといって、男の沽券などというものにこだわらなくていいというわけですから。物腰やわらかく、女心に共感し、女性が着るものを一緒に選んでくれたり、料理や子どもの世話も女性と一緒にしてくれたり。

そういう男性のほうが、女性にとって都合がいいです。

でも、擬似男女的な同性愛の話に持ち込んでしまえば「肉体の目覚めとともに心の女らしさにも目覚める」ということですから、既婚夫人が家庭をないがしろにして働きに出たいなどというのは異常という結論を導いてしまうのです。

「男でさえ男の腕の中で女の幸せに目覚めるのに、きみはなんなんだ」って。既婚フェミにとって致命傷です。

だから「やおいは私たちのものです!」といって、過度に女性的な男性キャラクターの物語を面白がるフェミが、実在同性愛者に対しては「パパママごっこするな」って言う。どっちやねんってことになるのです。

つまり既婚フェミから見ると、BLは独身女性にとってのみ都合がいいのです。だから「こういうものに夢中になる子は結婚する気がないのだろう」となるのです。

【でも、フェミはBLの役に立つ】

もともとBLが描いているのは「男装の麗人」の逆転のアイディアである「女役の男性」です。

だから能動性キャラクターが男性であることが必須条件です。「男性に対して、他の男性が女役になってしまうのを、女性が見て面白がる」という、最初からそういう構図だからです。

「男ばかりの社会ではそういうことがあり得る」ということを、女性は学問の途中で知ったのです。だから、二度と女にそういうものを読ませてはいけないといって、男性が女性の読み書きを禁止したり、学校から追放したり、ふたたび後宮に閉じ込めたりしてはいけない。

自由を得た女性が大胆なものを描くようになったのが男性から見て不快だからといって、発禁にしてはいけない。

こう主張するとき、フェミニストは同人にとって百人力の味方です。

【女性的なヒーロー】

じつは「見た目は女性的だけれども、あくまでストレート男性として女性と相思相愛になる」というのが日本の時代劇のヒーローです。髭モジャではなく色白で、細面で、着流しの似合う柳腰で、俳優によっては本当に歌舞伎の女形だった人もいた。

それが成人女性観客に高い人気があったからこそ、1950年代の映画観客動員数は高かったのです。戦記映画の傑作を数多く残した須崎勝弥にして「映画動員数の決め手は女性客」って言うのです。

当時は、じつは宝塚はそれほどでもなかったのです。1974年の『ベルばら』が劇団史上最高だったんですから。都会に住んでいて、比較的自由に劇場へ行くことのできた婦人たちは、女形出身の剣豪を観るために映画館へ行ったのであって、少女歌劇を観ていたのではなかったのです。意外ですね。

映画によっては「悪い男が女形の男を若い女性に紹介して、彼女をだまそうとする」という場面もありますが、それを男性観客が観たときに「無理」とは思わない。

「若い女って、ああいうナヨッとした男に弱いんだよなぁ」って、彼らも納得しているわけです。

1970年に生涯を閉じた三島由紀夫は「女性が女性的な剣戟ヒーローを好むのは彼女のナルシスムによる」って、あっさり書いてます。

一人の異性に対して、大剣を振り回す男らしさに対する憧れと、自己愛の反映を見ることで、二重に愛着が湧く。そういう心理。(『第一の性』)

そういう映画があまり作られなくなった代わりに、もっと男らしいヤクザ映画が流行するようになった1963年以降というのは、もう明らかにテレビが普及して、女性が映画館に来なくなった時代なのです。

だから、それ以降に成長した世代は「映画というのは男性向けで野蛮にできている」って思うのです。

それに対して、少女漫画の中には少女みたいな少年がいて、しかも剣術や合気道が得意なんていうふうに描かれているから、これは少女のナントカ性を示している……なんて、うまいこと言った気分になっちゃうのです。

そんなものぁ「少女に限ったことじゃないですよ。日本では戦前から成人男女がそういうキャラクターを共有してきたんです」って言えば終わりです。社会学者は歴史を知らない。

【BLの極論】

「女性的だがストレート」という剣豪の話だったら、男性観客も安心して観ていられるわけです。女形の芸を、あくまで芸事として鑑賞できる。

けれども、男性の尊厳をかなぐり捨てて、身も心も女になりきってしまうという極論を描いたのがBLです。だから男性から見たら許しがたい感じがする。

とくに、もともと愛着のある男性キャラクターが利用されている場合は、友達が侮辱されたような気分になって、自分自身が攻撃的になってしまうのです。(だからこそ本当の加害行為は思いとどまってください)

『ベルばら』というのは、男性化した女性を、むさくるしい女性ではなく、最高にカッコいいものとして描いた上で、砲兵隊を率いて革命を成功させるという、最高の活躍をさせたものです。

単純にひっくり返すと、女性化した男性を、気色悪いものではなく、最高に美しいものとして描いた上で、周囲の男をすべてたぶらかすという、最高の活躍をさせたものになりますね。

前者だって、読む人によっては「俺はこんな生意気な女はいやだ」っていう可能性があるのです。本当にこんな女ばかりになったら困るから、今のうちに少女漫画を発禁にしろって思う人もあるかもしれないのです。

後者はバッシングされやすいというけれども、1990年代前半までは目立ったバッシングはなかったのです。だからこそ次々と新連載が始まって、花盛りだったのです。竹宮恵子や栗本薫が亡命を余儀なくされたとか、専門誌『JUNE』編集部が焼き討ちにあったとか、そういうこともなかったのです。日本は良い国です。

【ふたつのフェミニズム】

男装の麗人と、女役の男性は、女性中心主義(フェミニズム)の二つの顔です。表裏一体です。

女流が「男性化した女性」を描ききることができるほど、自分自身が男性化した。実在男性から「そんな生意気な女を描いてると、お前自身も嫁のもらい手がなくなるぞ!」と言われても「自活できるから大丈夫」と言えるまでになった。

これは分かりやすいですね。いっぽう、BLを描く人も意識は同じなのです。

「女性化した男性」という存在を描ききることができるほど、自分自身が男性化した。実在男性から「そんな気色悪ぃもの描いてると嫁のもらい手がなくなるぞ!」と言われても「自活できるから大丈夫」と言えるまでになった。

どっちの創作家も、描いたものによって人気と原稿料を得て、自活を続ける気満々なのです。

だから、BLもフェミニズムなのです。女性の自由が最大限に実現されたという意味で、やっぱりフェミニズムなのです。

かつては「男装の麗人」の流行を前提に、その前の時代に流行っていた女性的な剣戟ヒーローをすっかり忘れてBLを解釈しようとしたので、「新時代の女性が読むものなら、男性化した女性の活躍が描かれるべきところ、女性が出てこないのはなぜだ?」という疑問が湧いてくるという、ミスリードの自縄自縛に陥ってしまっていたのです。

けれども、BLもフェミニズムなのです。

逆にいえば「女役の男を描く人は、男装の麗人を描く人よりもえらい」とは言えないのです。どっちが進んでるとか競争することではないのです。

ただし、フェミにとっては、男装の麗人はそのままロールモデルにできるから、それこそ「私たちのものです!」と言い得るんだけれども、BLはフェミの役に立たないのです。

最高の女役として目覚めた男が化粧したり料理したりするようになってしまっては、フェミは立場が悪くなるのです。皮肉では済まないのです。

彼の相手役が男装の麗人なら完全な逆転劇ですが、能動的な成人男子が従来通り威張ってるだけでは「男はどちらでも好きなほうと同居して家事奴隷にできる」という前近代的な価値観が確認されただけです。

それではストレート男性と、いわゆる「タチ」のゲイが威張ってる男性中心社会が再生産されただけです。

女性キャラは時々にぎやかしに出て来るコメディリリーフなんて話では、フェミニズムの役には立たないのです。

意外ですが、フェミとBLはギブアンドテイクの関係にならないのです。ウィン・ウィンの関係にならないのです。

【男の美学】

じつはBLは、もともと男性が後輩の一部に女役を割り振ってきたことを再現しているだけで、皮肉にも何もなってないのです。

殿様に対して、若侍が心からなる忠誠を誓うこと。喜んで身命を投げ出すこと。当たり前のように殉死すること。ときに「その道」を強要されることがあっても、それさえも名誉として受け入れること。

それは日本の男性社会が磨き上げてきた美学であって、それを女性がひどくからかったり、批判したりするのでないかぎり、日本の伝統として全面肯定したことになるのです。

キリスト教国のフェミニストが見た時には「女性が恐るべきブラックジョークを言っている。頑迷固陋な男性ホモソーシャルに対して痛烈な皮肉をぶつけている」というように見えるのです。

けれども、げんに権力的男性の特権として「その道」が認められてきた日本では、女性は「いいなぁ」ってなっちゃうのです。「あたしもお殿様に生まれ変わって美少年と遊んでみた~~い」ってなっちゃうのです。

実在の男性に対して「今でもそういうことってあるんですか!?」という好奇心を刺激しちゃうだけなのです。

それをそのまま現代のゲイバーへ持ちこむと「見学させてくださ~~い♪」になっちゃうのです。

【日本ではジェンダー論が成り立たない】

もともと権力的男性の都合に合わせて、中奥の若侍と大奥の女性たちに同じ規律が与えられていたわけです。心からなる忠誠を(以下略)

そういう隷属的な精神は、後天的な教育によって形成されたものであるとは言えます。それは権力的男性自身も分かってます。だからこそ無礼な若者や女性がいた時には「しつけがなっとらん」って言うのです。

でも若者と女性に同じ規律が与えられているのだから「女性だけが不利」とは言えないのが日本なのです。仁侠映画などに見られる通り、親分子分の関係になれば、若い衆がお茶を入れたり、飯を炊いたりするのです。

女性は腕力が低いので、そういう若い衆よりも下位に位置づけられ、彼らのルサンチマンの受け皿となって虐待されることが多いんだけれども、じつは謙譲の美徳を強要されることと肉体の性別が密接に関わっていないのが日本なのです。意外ですね。

だから「最上位に位置する男性が、中間に位置する男性のサービス精神を搾取することを、最下位に位置する女性が観てるだけ~~」というのがBLの構図。

これは意外にも「町内会長の号令一下、男たちが盆踊りの櫓を組んだりテントを張ったりするのを(料理の外注を済ませた)女たちはおしゃべりしながら見てるだけ~~」という従来型の社会を踏襲しているだけなのです。

皮肉にならんのです。そのまんまです。

日本のBLは、江戸時代以前から「武士の世界では正常な愛」とされて来た関係を素直に再現しているだけです。

それを読むことによって女性自身の人生は何も変わらないのです。昔だったら冠婚葬祭の料理も地域の婦人たちが手作りしていたところ、外注できるようになったから省力化できただけです。それは「与えられたシャドウワークを(お手伝いさんを使って)手際よく済ませる」ということの一種であって、革命ではないです。

もし本当に自分自身が最上位に行こうと思うなら、猛勉強と人脈と費用が必要です。ここで1990年代という年代が意味を持ちます。

【1990年代の陥穽】

女性解放運動自体は戦前から存在し、戦後は日本国憲法を得て、いっそう盛んになったのに、なかなか成果が上がらないことに苛立っていたのが1990年代のフェミニストです。

しかも、先立つ1980年代には「足切り」と称する現象が起きたほど大学進学者数が多かったのに、バブル崩壊して、その就職先が見つからない事態になってしまった。

わずかな新卒採用を同じ学歴の男女で争うとき「どうせ女は子どもができるとやめちゃうから」と言われる確率が、男女雇用機会均等法を改正することができた1985年当時よりも、高まったのです。

だから「もはや女性は『ベルばら』が流行した時代のように男性化した女性の華々しい活躍に憧れることができない。自分の将来の夢を語ることをキャンセルし、男性同士の搾取的な関係性の妄想に逃避するほかない」と言ってしまうことができたのです。

むしろフェミニズムが挫折しつつあったからこそ、うまい具合にルサンチマン的BL論が成り立っちゃったのです。

つまり、BLはフェミが恨み言をいう道具として、話の「まくら」として利用されたのです。

けれども、これは「景気が回復し、待遇が改善されたら、もう私たちもBLに逃避する必要がなくなるので、同人を廃業させることができます」という取引になってしまうのです。

だから、フェミによる援護射撃はBLにとってたいへん心強いのに、フェミ側がトラウマ原因論的なものを持ち出した時点で「同人・BLとフェミは別」になるのです。

【フェミとは別なら自分で責任取りましょう】

間違えてはいけないのは、フェミがBLを論じたから悪いのではないことです。卒論テーマに「やおい」を選んだ社会学のゼミ生が悪者なのではないことです。彼(女)らには彼(女)らなりに研究する権利がある。

それだけなら、たんに社会学者の世界に新しいテーマが一つ加わったというだけのことです。それをマスメディアがかぎつけて報道するという必要は、とくにないのです。

実際に、庶民の多くは「いま、どこの学会でどの研究テーマが最もトレンディか」なんて知りませんね? 大学進学するまで学会の会報なんて見たこともないという高校生が多いはずです。(たいへん薄い本です)

出版社が「社会学者に見つけられたからヤバイ」と思う必要もありません。

もともと批評されることを承知で出版してるのですから、よほど論文の内容が悪意に満ちていて「早く規制すべきです」という話でないかぎり、むしろ我が社が発行した作品を話題にしてくれてありがとうっていうだけです。

同人活動・BL創作が、まだインターネットもなかった時代に、やたらと注目され、議論され、フェミが意気込んで弁護する原因を作ったのは同人自身・BLファン自身です。

ゲイコミュニティがクレームすることになったのは、あくまでBL読者の中に不心得者がいたからです。

ゲイが読んだものの中に「男同士は異常だ」という台詞があって、それはプロ作品では(編集がチェックしてるから)あり得ないというなら、書いたのは同人です。

「同人はフェミとは別よ」というなら、同人が自分で責任取れって話です。身から出た錆です。

【フェミへの皮肉】

「女性が女性を主人公にした性的冒険物語を描かないのは、男性が読むものにされてしまうから」

フェミニストによるBL弁護の一環ですね。でも、フェミ自身もBLを私物化し、プロパガンダに利用したと言えます。それは反省しなくていいのでしょうか?

もしかして、フェミニズムって「男の真似をしている自分自身を棚上げする」ってことですか?

そうかもしれませんね。ゲイコミュニティから「自分は俺らを搾取してもいいのかよ」ってツッコミを受けるくらいですから。(こういうのを皮肉といいます)

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Misha

Author:Misha
スマホ時代にさからう評論系長文ブログ。冷静に通読できる大人の読者様を想定しています。

「若い人」に直接呼びかける文章は、18歳以上のヤングアダルト対象です。高校生は受験を最優先してください。

書く人は、新旧とりまぜて映画とアニメを見ながら文芸書に取りくんでみたり、昔の漫画を思い出したり、お国の先行きを心配したりしております。

記事中の色つき文字は、映画中の台詞・挿入歌からの引用です。あらすじは、あまり申しませんので、楽しみに御覧ください。取り上げる作品は、暴力・エロスなど特殊な要素を含んでいることもあります。

ときおり、耽美・BL・同人・LGBTに言及します。いずれの分野からも、偏見と差別と自虐がなくなるといいと思っております。

「二次創作の責任を二十四年組に押しつけるな」「実在同性愛者に甘えるな」が基調です。

全体として、二十四年組ファンが社会学者に物申すという珍しい構図。一部同人を叱責することによって全体を守るという意図もあり、ときにかなり辛口です。

記事は時々予告なく手直し・削除・分割しております。保存は個人的閲覧の範囲で、お早めに御随意に。転載・改変利用は固くお断り申し上げます。

解題


Casketとは、玉手箱。

でも検索すると棺桶がならびます。来世まで持っていきたい好きな作品の記録帳とご理解ください。